2018年1月4日木曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(9) 第一章 アジア Ⅲ ゴア(1終)

鎌倉 浄智寺 2018-01-04
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Ⅲ ゴア
ゴアの奴隷社会
ゴアの町は、1511年にポルトガルが統治を敷いて以来、インドにおけるポルトガルの最も重要な政治・軍事拠点かつ商業上の中心地であった。

ゴアを訪れたスペイン人の冒険家フランシスコ・ビラルド・デ・ラバル(1578~1623)の記録によれば、アジアのあらゆる地域からこの町に商人が到来し、そこには日本人もいたという。また、同じ記録には、「居住者」として、多くの中国人と日本人がゴアにいた、とある。
ラパルはゴアの奴隷市場ではアフリカ東海岸出身の奴隷(いわゆるカフル人)が主であったものの、その他のあらゆるアジア民族の奴隷を購入することができた、と記している。
ポルトガル人にとって最も価値があったのは、モザンビークのカフル人であった。奴隷市場では、売られているわけではない奴隷も数多く見かけられた。そのような奴隷は、「賃金奴隷(エスクラーボス・デ・ガーニョ)」と呼ばれ、手作りの商品や果物、菓子などを売って小銭を稼いでいた。彼らが得る稼ぎは主人に渡された。

フランス人の冒険家ジャン・モケ(1575~1617)は、ゴアに住む奴隷の生活、とりわけ彼らにかせられた残酷な拷問について詳述している。それは彼の記憶に深く刻み込まれ、何年も経った回顧録で、「私は時々あの野蛮な行為を目にし、とても気分が悪くなった。それを思い出すだけで戦慄が走る」と述べている。

ゴア在住の日本人に関する最初の情報は、1546年6月2日にゴア市で書かれた、商人アントニオ・ファリア・エ・ソウザの遺言状にある。そこには日本で逃亡したことがあるディオゴという名の奴隷と、ホンベウと呼ばれる中国人奴隷のことが記されている。逃亡後、ディオゴはファリアのもとに戻ったようである。ディオゴが日本人であったのか、中国人であったのかは不明であるが、ファリアはホンベウが中国人であったことを明記しているので、ディオゴは日本人であった可能性が高い。

16世紀ゴアに住んだ日本人
詳細がより確かである16世紀中頃にゴアに滞在した日本人は、フランシスコ・ザビエルがその日本渡航を決意する契機となった鹿児島出身のアンジロー(パウロ・デ・サンタ・フェ)とその日本人従者2人、アントニオとジョアンであろう。彼らは日本から逃亡し、マラッカを経てゴアに1548年に到着、ゴアの聖パウロ学院で洗礼を受け、ポルトガル語やキリスト教の教義を学んだ。ゴアに1年間ほど滞在した後、1549年4月、インドから日本へ、ザビエルの供として帰還の旅に出た。それから約半世紀の間、日本からは多くの日本人がゴアへ辿り着き、そこからさらにポルトガルの商館や要塞のあるアジア・アフリカ各地へと、さらにはヨーロッパまで離散していったと考えられるが、彼らに関する個別の情報は、いまだわずかにしか得られない。

1592年にマカオー日本航海のカピタン・モールであったドミンゴス・モンティロは、義理の姉妹宛の遺言状の中で、多くの日本人奴隷をゴアに送ったと記す。

またかつて日本のイエズス会の布教長で、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとの対立を経て、ゴアで聖パウロ学院長の職にあったフランシスコ・カブラルは、1593年11月15日付、ゴア発の年次報告に、1人のポルトガル人が所有する日本人奴隷3人が逃亡したと記す。彼らを捕らえようと、追手が差し向けられたが、結局ある神父の仲介により、日本人奴隷2人はゴアに戻り、異端審問所に出頭し、自らの過ちを認めた。慣例的には死刑に値する重大な過ちを犯したにもかかわらず、自分の行動を悔い改めたこの日本人たちは許され、主人の元へ戻されたらしい。

1597年、フィレンツェ人の商人フランチェスコ・カルレッティ(1573~1636)は、東南アジア、マカオ、日本への長い旅を経て、ゴアに辿り着いた。ヨーロッパへ戻る際には、日本人、朝鮮人、モザンビーク人の奴隷を各々1人ずつ連れて行ったが、日本人は海難に遭い、その途上で失命した。

1570年、ポルトガル国王ドン・セバスティアンが、ポルトガル領内における日本人の奴隷取引を禁じる法令(「セバスティアン法」)を公布したがず、ポルトガル領インドにおいては、ほとんど遵守された形跡がない。
さらに、1603年、スペイン国王フェリペ3世(ポルトガル国王フェリぺ2世)は、ゴアでの日本人奴隷禁止を定めた1570年の「セバスティアン法」を再び公布した。ゴアの有力市民はこの法律施行に猛反発し、それを阻止しようと、1603年12月30日付で、自分たちの主張を国王宛に送った。
その書簡の内容(要約)。

ポルトガル領インドは慢性的に兵士などの人員が不足している。ポルトガル領インドはすでに多くの日本人奴隷を抱えており、ポルトガル人兵士の数が不足している以上、彼らの存在はゴア島防衛のために不可欠である。それに加えて、日本人は有能な戦闘員であり、もし奴隷身分から解放されれば、彼らはゴア周辺にいる敵たちと内通し、反乱を起こすかもしれない。数ではポルトガル人を上回るので、ゴアは彼らの手に落ちるであろう。

この主張の根拠として、ポルトガル人1人あたりに、平均5~6人の日本人奴隷(傭兵)がいることが挙げられている。ゴアの日本人はその数において、ポルトガル人を上回っていた。しかし、これは、「セバスティアン法」再施行阻止のため意図的に誇張された可能性もある。

1605年、ゴア市議会はフエリペ3世宛に2通目の書簡を送った。

火縄銃や槍を抱えた七、八人の奴隷を従えて、戦場へ向かうポルトガル人のカザード(現地で籍しているポルトガル人のゴア市民)がよく見られる。というのも、ポルトガル領インドで火器の扱いに長けているのは、これらの奴隷たちしかいなかったからである。

つまりアジア人の傭兵や奴隷は、ポルトガル領インドの軍事的維持には、不可欠な存在であった。

日本人奴隷の虐待と廃止
国王、ゴア市議会代表、イエズス会を巻き込んだ論争の結果、1607年に事態は収束した。同年1月18日と27日の日付で、国王フェリぺ3世はインド副王に対し、すでに1605年3月6日付のインド副王に対する指示に従い、ゴア市内における日本人奴隷を禁じる法律を公布することを命じた。書簡では、奴隷が合法であった期間に入手された奴隷に関しては、その身分は継続するが、上記の日付以降に獲得された日本人奴隷を所有することは違法であるとされた。
ポルトガル領インドでの日本人奴隷化が禁じられたのは、虐待を受ける日本人の惨状が考慮された結果でもあった。しかし、その禁令以降も、日本人に対する虐待は後を絶たなかった。禁令以前に契約された奴隷には、禁令は何の意味も持たなかったし、「召使い」といった曖昧な形での「奴隷取引」は継続されたからである。インド副王当局は、積極的には違反者の取り締まりに乗り出すことはなかった。





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