2019年10月28日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その7)「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。...........」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その6)「おやじと2人で焼け跡に戻ろうとしたのですが、その途中に寺島警察署があります。今もあるんだろうが、その広場にムシロをかぶせられた朝鮮人の死体が15、6あった。何ともいえないいやな気持ちだった。顔のみえるのも、みえないのもありました。当時警察といえば絶対的だったんですが、そういう警察がやるんだから.....。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
青木〔仮名〕
たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川駅〔現・八広駅〕の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。〔略〕大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朗鮮大虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
大槻堅太郎〔当時本所区本横尋常小学校2年生〕
3日日の夕方の雨のふる日あらかわばしのところに、○○○○○人がしんでいました。それをみてぞっとしました。それであらかわばしのところで、私はまいごになって、なきながらうろうろしていました。父母ははしをわたって向こうの方へいって、私をさがしていましたので、みんなでいっしょに、かめありのていしゃばへいって、それからいなかへいってしまいました。(抜粋)
(「ぢしんの時」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常二年の巻』培風館、1924年)

司法省「鮮人を殺傷したる事犯」
①2日夕刻、吾嬬町放水路四ツ木橋附近の堤防で、配馬音五郎が朝鮮人1名を鉄棒で殴打殺害した。
②3日午前5時、吾嬬町大畑荒川放水路四ッ木橋附近堤防下で、中島五郎が朝鮮人2名を日本刀で顔面右肩及胴を斬り付け殺害した。
③3日午前2時半、吾嬬町大畑荒川放水路堤防で、堀子之吉外2名が朝鮮人1名を日本刀で斬殺した。
④3日午前5時、吾嬬町字木下荒川放水路堤防で、外山利太郎が朝鮮人1名にピストルを発射し傷害を与えた。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前零時荒川放水路の土手下空地にて姓不詳の鮮人3、4名を殺害した犯人寺島村字玉ノ井431土木請負業吉井半之助(44)同679自動車運転手松戸宇之助(32)同772土工山田龍雄(46)同小島君太郎(34)の4名に令状執行収監す。

〈1100の証言;墨田区/両国橋〉
斎藤静弘
〔3日、亀戸をめざし〕日本橋小網商店の焼跡で人々が、焼け崩れた缶詰の山から完全なものを探しているのを見て、二つ三つ拾い焼釘で、時間をかけて缶を切り中身を頂いた。
2個ばかり手にして両国橋へ来ると、朝鮮人騒ぎで警戒中の一団の若者に、銃剣を突きつけられ、「どこから来た、どこへ行くか、姓名は?」と、詰問された。それは持っていた缶詰を、爆発物の携帯のように誤解された結果であった。
〔略〕両国橋を渡り切った頃、〔略〕製氷会社の焼跡にまだ沢山の氷があるのを聞いた。それを頂いて出て来た所で、2人の朝鮮人が後手に縛られ、巡査に連行される後方から、朝鮮人騒ぎに興奮している弥次馬が、鉄棒で後頭部を滅多打ちにし、遂にその場に倒れたのを目撃した。ついていた巡査も手の施しようがない始末であった。
(斎藤静弘『真実を求めて - 喜寿を迎えて』私家版、1916年)

志賀義雄〔政治家。池袋で被災〕
3日の朝から、自転車に乗って亀戸へ出かけた。〔略〕丹野セツの話によると、江東方面でも朝鮮人騒ぎがひどいとのことで、私が亀戸へ往復する途中でも、そうした噂はいたるところで聞いた。両国橋のたもとでは、朝鮮人の夫婦が捕まり、さんざん暴行をうげ、警官に引き渡されたが、その女は妊娠していたので、もう立てなくなって、引きずって行かれたということであった。
(ドキュメント志賀義雄編集委員会編『ドキュメント志賀義雄』五月書房、1988年)
藤原道子〔政治家。麻布高台で被災〕
〔3日〕両国橋も焼けていたが、橋のたもとに抜身の日本刀を持った男が立っていた。刀の先さから血が滴っていた。ぞっとするような無気味さだった。
(藤原道子『ひとすじの逆に道きる - 藤原道子自伝』集団形星、1972年)

陸軍「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」
9月3日午前10時頃、両国橋西詰付近で近歩1ノ3歩兵が50歳位の朝鮮人1名を射殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)

つづく





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