2019年11月7日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その11)「3日目かの朝、.....警視庁の騎馬巡査が.....「唯今六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を挟んで彼我交戦中であるが、何時あの線が破れるかもしれないから、皆さんその準備を願います」と大声で怒鳴ってまた駈けて行った。.....勿論全く根も葉もない流言であった。 そんな馬鹿なはずはないと思われることは、どんな確からしい筋からの話でも、流言蜚語と思って先ず間違いはない。そういう場合に「そんな馬鹿なことがあるものか」と言い切る人がないことが、一番情ないことなのである。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その10)「夜がしらじらと明けはじめた。この時になっても、彼等のいわゆる300人の朝鮮人の一隊はどこにも見えなかった。避難者たちはやっと少し落ち着いた。すると、今までいきり立っていた若者たちは、ぞろぞろ、さわさわ、何かさざめき合っていたが、やがてそのうちの一人の最後に言った言葉は、私にとって永久に忘れない謎である。 「君この辺は駄目だ。あっちへ行こう、あっちへ」 こうして彼等の一群は、音羽の方へ向って去った。」 
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;文京区/根津・千駄木〉
前田慶次
〔3日〕はなはだ遺憾なるは、〇人騒○の事にて、事実全く明ならねど、惨害に乗じて不穏の行動ありとの風評にて、焼け残りたる各所には自治的の夜警堅固を極め、無灯の夜の町を在郷軍人及青年団等協力して、互に交代不眠警戒、厳に残存家屋をさながら宝物のごとくにこれを守護し、避難民をして再び惨禍に陥らしめざるよう自他を兼ねての正当防衛策おさおさ怠りなく夜間通行の禁令を守ってわずかに提灯の光りを頼りて、しばしば起る弱震に心臓を寒からしめつつあるのである。吾等の一行も屋内に入るや同時に弱震起り来りて入る事もかなわず、またまた意を決して根津権現神社既内に入りて野営をなすに決した。
境内には人気なく、昨夜に引き替え頗る閑静なるを以て喜び、一同集落を作って野宿第三夜に移る。この時過行禁止の声は青年団より発せらるる。暫時にして、警戒警戒警戒と在郷軍人団より伝令来る。ほどなく提灯の火を消すべしとの報を得て不安の中に消火した。たちまちにして一声高く、銃声6、7発暗を被って打ち放つ。誰彼となく、地に頭を下げ付けおるべし。喧騒を極むべからずとの言い聞かせあり。わずかに死を免れて存在する者もほとんど半死半生の病苦を顕出し遺孤2名は極度に驚き予にしがみ付きて離れず生きた心地せずして何事の起れるやを聞けば、○○の副首領株が神社拝殿に逃込みし形跡あればなりと言うに、一同一層不安の輝に命を天に任せて野宿第三夜の夢を結び、戦々恐々として一同の無事を祈りて、夜を徹す。
(『歯界時報』1923年10月号、歯界時報社)

江口渙〔作家〕
〔3日〕本郷3丁目まできたときだった。竹槍を持った15、6人の一団が菊坂の方から出てきて燕楽軒の角をまがった。まっ先には、はんてんに半ズボン地下足袋の男が巡査に腕をとられて歩いてくる。頭にまいた白い布には大きく血がにじみ、それが赤黒く顔半面を流れている。顔つきは疑いもなく朝鮮人だ。「やられたな」と、私はすぐ感じて後の竹槍を見た。
〔略〕大きな漬物屋の前だった。竹槍を持ったひとりが大声で叫んで、後ろから朝鮮人の尻をけった。朝鮮人が前にのめった。いっしょに巡査までがよろけだが、すぐに振り返って手を上げた。「よせ。よせ」といったらしい。するとどうだろう。「巡査のくせに鮮人の味方をするのか。この野郎」という声がして、たちまちバットが巡査の顔に打ちおろされた。手を顔にあてて巡査が倒れた。と、いっしょに朝鮮人が膝をついた。あとはもうムチヤクチャだった。みんなで朝鮮人をとりかこんで打つ、ける、なぐる、竹槍でつく。だが相手は声も立てず、逃げもせず、抵抗もしない。ただ頭を抱えてうずくまって、されるままにまかせていた。
そのうちに、手からも足からもカがぐったりぬけていくのが見えた。私はもうそれ以上見てはいられなかったので、逃げるように春日町のほうへ急いだ。
(「関東大震災回想記」『群像』1954年9月→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、1996年)

坂田勝子〔当時誠之尋常小学校4年生〕
〔3日、避難先の本郷学校で〕ばんになると、〇〇〇人のさわざで、大変おそろしく、戦争のようなさわぎで、人々の驚きはなお一層でした、男の人は少しもねないで、夜警をして、時々「やあ〇〇〇人だ」「やっつけろ」という声で皆なさわいで、中々落ちつきません。けれどもからだがつかれ、ろくに御飯も食べないので、そんなさわぎを聞きながら、ねむりにつきました。夜中におこる銃声、又〇〇〇人があらわれたのでしょう。
地震や火事の恐しかったこと、〇〇人のさわざのこわかったことを、思い浮べながら、学校の教室で、いつの間にかねむってしまいました。
(「地震と火事」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常四年の巻』培風館、1924年)

志賀義雄〔政治家。池袋で被災〕
〔3日〕本郷に引き返して黒田のために、青木堂で食糧品を求めているとき、店員は青竹の杖がばらばらにさけるほど朝鮮人をなぐった、といって得々と語っていた。私は平生善良そうなその店員がそんなにも乱暴なことをしたのに驚き、彼にたいして朝鮮人は決して火をつけたり井戸に毒をなげこむことはしないと説いたが、彼は頑として聞かなかった。
(ドキュメント志賀義雄編集委員会編『ドキュメント志賀義雄』五月書房、1988年)

都築輝碓〔本郷の一高の寮で被災〕
〔3日〕私等はこの間避難民の救助に努むると共に、〇〇〇〇襲来の警報に接し、残寮生数十名のものは徹宵、寮の警護に努力した。可憐な鮮人5名を救い出したのもこの時だった。
(「銃剣で警戒」第一高等学校国語漢文科編『大震の日』六合館、1924年)

中谷宇吉郎〔物理学者。当時上野在住〕
流言蜚語の培養層を、無智な百姓女や労働者のような人々の間だけに求めるのは、大変な間違いである。関東大綴災の時にも、今度と同じような経験をしたことがある。あの時にも不逞鮮人事件という不幸な流言があった。上野で焼け出された私たちの一家は、本郷の友人の家へ逃げた。大火が漸くおさまっても流言は絶えない。3日目かの朝、駒込の肴町の坂上へ出て見ると、道路は不安気な顔付をした人で一杯である。その間を警視庁の騎馬巡査が一人、人々を左右に散らしながら、遠くの坂下から駈け上って来た。そして坂上でちょっと馬を止めて「唯今六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕を挟んで彼我交戦中であるが、何時あの線が破れるかもしれないから、皆さんその準備を願います」と大声で怒鳴ってまた駈けて行った。もう20年以上も前のことであるが、あの時の状景は今でもありありと思い浮うかべることが出来る。勿論全く根も葉もない流言であった。
そんな馬鹿なはずはないと思われることは、どんな確からしい筋からの話でも、流言蜚語と思って先ず間違いはない。そういう場合に「そんな馬鹿なことがあるものか」と言い切る人がないことが、一番情ないことなのである。
(「流言蜚語」『読売報知』1945年→『中谷宇吉郎随筆集』岩波文庫、1988年)

林精一〔当時日本橋区久松尋常小学校4年生〕
〔3日、避難先の本郷曙町で〕お店の人たちがおもてへござを引いてすわっていると、巡査が来て○○がつけ火をしますから用心をして下さい、と言ったので皆棒を持って用心をしていた。その晩からはお店の人たちが2人ずつぱんをすることになった。
(「大震火災」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常四年の巻』培風館、1924年)

吉野作造〔政治学者。本郷神明町で被災〕
9月3日火曜 3日、この日より朝鮮人に対する迫害始まる。不逞鮮人のこの機に乗じて放火、投毒等を試むるものあり大いに警戒を要すとなり。予の信ずる所に依れば宣伝のもとは警察官憲らしい。無辜の鮮人の難に斃るる者少らずという。日本人にして鮮人と誤られて死傷せるもありと云う。昼前学校に行くとき上富士前にて巡査数十名の左往右返この辺に鮮人紛れ込めりとて狼狽し切っているを見る。やがてさる一壮夫を捉うるや昂奮し切れる民衆は手に手に棒などを持って殺してしまえと怒鳴る。苦々しき事限りなし。
(『吉野作造選集14・日記2』岩波書店、1996年)

『福岡日日新聞』(1923年9月6日)
「暴徒の大脅威」
3日の如きは帝大正門前に罹災残余の「各区に亘って放火全滅す」とビラを貼ったるものあり。これ等がそれからそれへと伝えられ在京○○の徒は市民一般の食料の欠乏と住むに家なき有様なれば、彼等はより以上の悲惨なる状態にあり、これ等の蜚語が伝えられた結果その影を見れば直にこれを防止せんとする情勢に陥り、殊に2日夜の如きは巣鴨に於て海軍火薬庫を○○の徒が襲いたりとの蜚語に依り在郷軍人及青年団有志の決起あり、警戒中種々の間違いあり。

つづく




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