2020年6月25日木曜日

慶応4年/明治元年記(4) 慶応4年(1868)1月12日~14日 慶喜、江戸城入り、歩兵頭に駿府警を、古河藩主に神奈川警備増員を命ずる 相楽総三、「(幕領での)年貢半減」「勅諚書」を受取る 桑名藩、藩主(松平定敬、会津藩主容保の弟)不在で恭順決定

慶応4年/明治元年記(3) 慶応4年(1868)1月9日~11日 東征先鋒隊(赤報隊)編成 大阪城爆破炎上 朝敵処分 山国隊進発 王政復古の通告 神戸事件 慶喜、品川沖着
より続く

慶応4年(1868)
1月12日
・相楽総三、太政官に歎願書・建白書を提出。赤報隊の正式官軍としての認可と正規の官軍先鋒命令、すみやかなる関東への進出、幕領への租税軽減布告。13日、官軍の関東進出時に官軍の印を授ける、それまでは東海道鎮撫使に従うこと、幕領への「租税半減」を回答。
総三の建白に答える形で、坊城大納言から「勅諚書」として受け取る。「是迄幕領之分、総テ当年租税半減仰せ付けられ候。昨年未納之分も同様たるぺし。来巳年以後之処ハ御取調ノ上御沙汰あらせらるぺく候・・・」。)
・慶喜、江戸城入り
昼近く。4年2ヶ月ぶり。13日、歩兵頭に駿府警備命ず。14日、古河藩主に神奈川警備増員命ず。17日、目付を箱根・碓氷関所に配備。17日、松平慶永・山内豊信に周旋依頼。19日、ロッシュと会見。20日、松本・高崎藩に碓氷関警備命ず。21日、再び慶永らに手紙。23日、幕府の職制を改め「家職」の組織とする。
軍艦奉行勝海舟は浜御殿まで出迎え。ここで初めて鳥羽・伏見戦の顛末を聞く(幕府最高責任者の慶喜は開戦に伴う対策、戦況などを留守政府に送っていない)。
勝は、会津侯(松平容保)・桑名侯(松平定敬)にその「詳説を間わんとすれども、顔色土のごとく、互いに目を以てするのみにて、ロを開く者」はなく、ようやく老中板倉勝静から戦争のあらましを聞くことができた。
主戦派は勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介や会津・桑名藩士。敵を箱根以東に誘い込み、海軍は駿河湾から敵の退路を絶ち、陸軍フランス式歩騎砲隊で敵を粉砕する作戦。小栗は15日に罷免。
主戦論。
「鳥羽・伏見の戦況を聞き、目のあたり公の東帰を拝し、又負傷兵の続々送還せらるゝる見ては、弥切歯に堪へず。皆日く、『大坂の事、固より毫末も朝廷に敵するの意あるにあらず、君側の奸を掃はんと欲するのみ、不幸にして軍破るといへども、其の誠心は天地に質して疑なし、誓って挽回の策を立て、日月をして、光明ならしめざるべからず』と。又日く、『彼れ官軍といふとも、錦旗の蔭に隠れたる薩長勢のみ、いかでか頚さし延べて打たすべき』と。宣言・檄文・投文など、府の内外に旁午たり。其の一に日く、『内府天朝に対して二心なきは、天下万民の知る所なるに、内府の弟なる因備二侯、さては井伊家を始め、譜代の諸大名をして東征軍に加はらしむるは、名分の廃滅之より甚しきはなし。今天下幼冲にましまして、奸臣権を窃み、詔を矯めて追討の令を下す、苟も人心ある者は、決死して百諌千争するこそ、皇国の大綱・人臣の大義なれ。然るを狗鼠の輩此の大義を知らず、甘んじて姦徒の駆使を受け、東に向ひて旗を翻さんとす、我等は速に義兵を挙げて、君側の奸を誅し名分を正すこと、人臣の大節何者か之に過ぎん。若し然らずして賊徒に駆使せられなば、己不義に陥るのみならず、又天朝を不明に陥らしむるものなり。庶幾くは気節の士之を四方へ伝へ、天下の義心を鼓舞作興して、綱常を護持せよ』と。・・・陸海軍、殊に海軍副総裁榎本和泉守陸軍奉行並小栗上野介歩兵奉行大鳥圭介及び新選組の人々などは、概ね戦を主とし、兵を箱根・笛吹に出して官軍を待たんといふもあれば、軍艦の新組織法を建白し、或はは輪王寺宮を奉じて兵を挙げんといふもあり。」(「徳川慶喜公伝」)。
恭順論。
「徳川氏の領国邦内四方に散在し、その総高おゝよそ四百万石、此の内、蔵入を以て養ふ所の旗下数千におゝよそ二百万石を給す。所謂蔵米取なり。残り二百万石、此の他諸税金おゝよそ百万両計り。その領地半ば関西に在り。若し一朝戦争に及ばば、此の分敵の有とならむ。関東・奥羽に在るは、関西の如く豊ならず。此の区々たる関東を守て何をか成さん。其の結局土地を割きて抵当とし、西洋人に借らざるを得ず。其の抵当として出すべきは、唯横浜・箱館のみ。若し誤て此の事に及ばば如何ぞや。同胞憤争して、他人の為に邦地を失う。豈恐れざるべけんや」(「海舟全集」)。
・桑名藩、藩主(松平定敬)不在で恭順決定、老臣連名で朝廷に歎願書提出。27日、藩士一同771人が寺に入って謹慎。28日、政府軍に城を引渡す。政府軍は本丸3層の楼に放火。
桑名藩主松平定敬は、元治元年(1864)京都所司代に就任して以来、兄の会津藩主・京都守護職松平容保(兄弟は美濃高須藩生まれ、養子となって入封)と共に、京都政局に睨みをきかせ反幕運動の矢面にたち、鳥羽・伏見戦争でも幕府軍主力となる。敗戦、藩主定敬の東帰行、兵士逃走の報に接した留守を預かる桑名藩城中では、強硬派・恭順謹慎派に藩論が二分。そこで藩祖の神前で神籤をひき、いずれかに決することにしたところ、正月10日の抽籤では藩士一堂東下ということになる。しかし翌日、恭順派が強く異論、江戸に行っても、慶喜や藩主定敬が恭順を表明すれば藩士一同の東行は無駄になる、それよりは従来王事に勤めてきた功を失わない為にも、定敬の代りに先代遺子万之助をたて、朝廷に対し恭順謝罪の意志を明らかにすべきと主張。
12日には、討議のすえ、藩論は転換し恭順に定まる。定敬が江戸で恭順謹慎した場合、全藩あげて恭順に一致したことになり問題ない。定敬があくまで抗戦に出た場合、主戦派は脱藩して定敬の許に走るのは妨げられないし、幕府側に勝機が見えれば、再び薩長軍に抗戦すればよいし、その場合恭順に決めた首謀者が責任をとれば藩内部の問題として片がつく。また万一、定敬が抗戦し再び敗れても、それは定敬や一部主戦派の勝手な行動の結果であり、桑名藩は一貫して恭順に変りはいと釈明できる。爾後いかなる事態となっても、桑名藩の滅亡を避けられる、朝廷・政府と幕府の双方に顔を向け、いずれからも逃げ道を用意する策。それ故に、主戦派も恭順論に同調できる。
12日、桑名藩老職一同は、尾張藩に寛大な処置を朝廷に周旋してもらいたいとする欺願書を差し出し、藩主定敬の身代りとして万之助が隣藩亀山藩に抑留となり、27日、藩士一同771人が寺に入って謹慎。家族は町在へ立ち退かせ、身分幼老男女の別なく1人に2両2分を与える。28日、政府軍が城を接収、正午頃、城受渡しを終えた政府軍は、本丸にある3層の楼に放火して、祝砲21発を放つ。
・新政府参与岩倉具視、尾張藩家老成瀬正肥ら重臣を招集、「尾藩士中には慶喜に内通している者がある。かかる次第では、東征軍はまず尾張で砲火を開かざるを得ない。早急に善処せよ」と厳重に申し渡し。13日、「早々に帰国の上、姦徒を誅戮」せよと沙汰。14日、重臣協議。15日、藩主慶勝、重臣ら300率い名古屋に向う。20日、名古屋着。佐幕派粛清「青松葉事件」となる。
・小浜藩主酒井忠禄、当初、旧幕側に加担した弁明・謝罪の為上京。朝廷、北陸道先鋒を命じ、15日、請書提出。
・新撰組残り40名、軍艦富士山丸で江戸に向かう。
1月13日
・慶喜、歩兵頭に駿府警備を命じ、翌14日、土井利与古河藩主に神奈川警備増員を命じる。
・新撰組山崎烝、大坂八軒屋の京屋で没(或いは、富士山艦に乗り込み、出航後間もなく没、とも)
・前侍従錦旗奉行四条隆謌、大坂征討府より軍事参議兼中国四国征討総督に任命され、下坂。
・朝廷、太政官代を九条道孝邸に設置。
・迅衛隊進発。乾退助率いる迅衛隊600・弾薬隊等千余(将来の東征軍主力)、高知発。/19.丸亀着。
・(新2/6)パークス、木梨精一郎に江戸攻撃反対を表明。
・伊達宗城、伊予松山藩追討願いを新政府に提出。
・この頃、相楽総三、自分の建白に答える形で、坊城大納言から「(幕領での)年貢半減」を「勅諚書」として受取る。
1月14日
・新政府、神戸で外交団と会談。条約引継約束(2/14も)。
・新政府、大坂の惣年寄に対し、「早々立帰り、市中取締致スべキ事」と布告。
大坂は「官軍」突入とともに、城は炎上、大坂城代・町奉行は脱走、町役人は姿を隠す。新政府は、更に1月21日、「当分ノ内、惣年寄ニテ取締仕り置キ候事」と旧状維持の指令を発す。
京都は、京都所司代・町奉行が去り権力の空白が生れたため、「京都御取締」に近江膳所6万石、丹波篠山6万石、亀山5万石があたり、見廻りには石見津和野4万3千石以下が参加し、その「加勢」に島津、毛利、山内、前田ら7藩が加わる。
江戸(東京)は、旧江戸市中(武家地60%、社寺地20%、町地20%)の武家地が、旧大名引きあげ、旗本・御家人の徳川家静岡移転に伴う離散によって、一気に荒廃地と化し、人口100万以上が、明治2年には50万に落ち込む。新政府は、ここでも旧名主を、新しく作った番組支配の中年寄・添年寄に横すべりに採用すかことによってしか、町を維持することができなかった。東京府知事には薩長出身者を避け、初め由利公正(越前)、更に大久保一翁(旧幕若年寄)を任命。明治2年以来、東京府の政策は開墾となり、東京の武家地は、桑畑と茶畑に化す。
・山内容堂、朝廷より内国事務総裁に任ぜられる。
・山内豊福、本藩と幕府との板挟みに悩み江戸麻布邸に自刃。
・長崎奉行河津伊豆守祐邦、ロシア船へ逃亡。土佐佐々木三四郎・薩摩松方助左衛門筆頭に在留諸藩代表合議体長崎会議所と改称。
・この日夕刻、新選組搭乗の富士山艦ら、横浜港に投錨。島田魁を添人として戦傷者は上陸、医学所に入る。

つづく



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