2020年6月22日月曜日

慶応4年/明治元年記(1) 慶応4年/明治元年(1868)1月1日~3日 慶喜、大坂で「討薩表」起草 相楽総三と同志、西宮上陸 紀州沖海戦 幕府軍1万5千(会津桑名藩兵主力)、大坂から京都へ向かう 鳥羽・伏見の戦い1日目 議定(公議政体派有力諸侯)、辞意申出    

慶応3年記(13)12月16日~31日 尾崎紅葉・斎藤緑雨生まれる 慶喜の納地決定(討幕クーデタ派窮地) 近藤勇狙撃 江戸薩摩藩邸焼討
より続く

慶応4年/明治元年(1868)
・上海、パブリック・ガーデン(黄浦公園)完成。1885年、工部局管理委員会、「中国人と犬、入るべからず」の看板掲示。1928年7月1日看板外される。
・ゴーギャン(20)、~71年(~22歳)、フランス海軍に入り、ジェローム・ナポレオン号に乗船。
慶応4年/明治元年(1868)1月
・正月中に近畿・西国地方の藩は天皇ー新政府に忠誠を誓う。
①これら諸藩が敏感に「権力」に反応、
②薩長、土佐他の新政府支持藩兵力をすばやく、有効に動員。
③恭順の意を表した場合、藩領土を安泰させる。新政府の安全性をアピール。
1月1日
・徳川慶喜、大坂で、朝廷の決定も諸国の暴動も薩摩藩奸臣の仕業で、彼らを誅戮したいとの「討薩表」を起草、強硬派の京都進撃を許す。大目付滝川具挙、「討薩の表」を持ち先鋒と共に大坂から北上開始。
討薩表。「臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津忠義)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。 
罪状書 一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致 し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事。
一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事。 
一、私意を以て、宮・堂上方を恣に黜陟せしむる事。 
一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以て宮闕に迫り候条、 朝廷を憚からざる大不敬の事。 
一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、 酒井左衛門尉人数屯所え発砲・乱妨し、其の他野州・相州処々焼討却盗に及 び候は証跡分明にこれ有り候事」(「続徳川実記」)。
・兵庫沖、榎本艦隊(開陽・蟠竜・翔鶴・富士山・順動丸5隻)、薩摩汽船(平運・春日丸)を砲撃、平運丸損傷。
 ・クーベルタン、誕生。
1月2日
・午後4時頃、相楽総三と同志、江戸三田薩摩藩邸焼き討ちから逃れ翔鳳丸で兵庫到着。
・会津桑名藩兵主力の幕府軍1万5千、大阪を進発、京都へ向かう。夕刻、先鋒・会津藩兵300が伏見奉行所西の本願寺東御堂に入り、夜にかけて諸隊が次々に到着。    
1月3日
・午前4時頃、相楽総三ら20余、商人船で兵庫を出て、午前6時頃、西宮上陸。
・朝、大久保利通の岩倉具視(議定)宛の意見書。朝廷は3つ目の失策を犯そうとしている。①徳川の辞官・納地と会津・桑名帰国命令の遅れ、②徳川、会津、桑名の大坂滞留と兵力集結を黙認、③慶喜の上洛を許し、議定に任命しようとしている(慶喜の復権、王政復古クーデタの無力化)。
「明治元年一月三日付 去る九日、朝廷大御変革御発表の形体を熟考するに、既に二大事を失はれ候て、皇国の事十に七八は成るべからずと歎息涕泣いたし候折柄、将に三大事を失せられんとす。三大事共に失はれ候へば、皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水泡画餅と相成るべきは顕然明著といふべし。・・・抑一大事を失はれ候とは、九日御発表、尽く御内評通、断然叡慮を以て、徳川氏御処置、会・桑進退等御達の御都合に運兼、衆評聞食され候御事と相成り、徳川氏をして即夜参朝御評議席に召さるべしとの趣、越・土侯或ひは後藤抔必死に論じ、漸くにして是を論破し、尾・越の周旋御受と相成りたる時宜合、是第二等に陥りたる基にて、畢竟衆評に渉らず、確断に出で候へば、第一等の策に万々疑なかりしに、失はれ候御大事の一なり。第二には、徳川氏鎮撫のため下坂と申す表面にて、内実は華城割拠の勢を成し、帰国せしむるの御受を成したる会・桑を滞坂せしめ、剰へ要所々々警衛公然申達し、兵士を差出し、洛中同様の伏見・淀城迄多人数兵士繰登せ、朝廷の御趣意に乖戻、不遜なる紙面を以て外国に相達し候次第、恭順反正の趣意ならざるは分明と云ふべし。・・・失はれ候大事の二なり。将に失せられんとする第三の御大事は、此の侭徳川氏上京相成り候得ば、参朝は申迄も無く、議定職命ぜられ候事、合心同力を以て、扶幕の徒必死に尽力致し候半。是迄さへ二大事を失はれ候次第に候得ば、中々以て朝議不動と申議叶せられざるは、鏡に懸て明なりと云ふべし。(中略)是三大事を失せられんとするの危急なり。右に就て、是を救ひ返すには、勤王無二の藩決然干戈を期し、戮力合体、非常の尽力に及ばざる能はずと存ぜられ候。今在京列侯藩士、因循苟且の徒而已、就中、議定職の御方、下参与職の者、具眼の士一人も之れ無し、平穏無事を好んで、諛言も以て雷同を公論になし、周旋尽力するの次第、実に憤慨に堪ふべからず。これに依り愚考するに、干戈を期する決定に至り候得ば、公然明白朝廷に尽し奉らずんば、万成すべからず」」(「大久保利通文書」)。
・紀州沖海戦。
薩摩艦(春日丸・翔鶴丸・平運丸)3隻、兵庫港脱出。春日丸は翔鶴丸を曳航して苫ヶ島方面に向う。榎本和泉守乗船の開陽丸は淡路洲本沖の井島の脇で2船に接近。春日丸(井上良馨・伊東佑亨・東郷平八郎乗船)は開陽丸と交戦後、逃亡。翔鳳丸は追尾され自炊。副艦長伊地知八郎以下50余の乗組員は淡路に上陸、海路宇和島に向い、鹿児島に帰国。伊地知八郎は帰国後責任とり切腹。春日(6日)・平運丸は鹿児島帰着。
・午後、三職・百官緊急会議、幕軍が大坂に帰らない場合、朝敵として討伐を決定。西郷・大久保・広沢ら武力討幕派主導。
新政府は、徳川軍を「朝敵」と宣言、迎え撃つ薩長軍に錦旗を授ける。武力対決方針は、正規に三職会議ではなく、大久保・岩倉・西郷・三条らの非公式談合、とりわけ、岩倉邸での大久保の「必死言上」によって決められた討幕派の「専断」。山内豊信らは抗議の辞任。
・会津藩砲術家山本覚馬、山科から京都入り途上で薩摩巡邏兵に捕らわれ、薩摩藩邸に監禁。会津藩が大義を誤り、賊名を得ることを憂う。
・鳥羽・伏見の戦い。討幕軍5千、幕軍1万5千。3日間。幕府軍敗走。
この日(鳥羽・伏見の戦い1日目)
午後5時頃、鳥羽で北上強行の大目付滝川具挙に対して野津鎮雄の下知により攻撃、戦端開く。鳥羽方面に砲声に続き、御香宮邸におかれた薩摩藩の砲が伏見奉行所を砲撃。夜半、伏見奉行所陥落。幕府勢は中書島方面に退却。
軍事的には幕府側が有利。
兵力面では、復古クーデタ時に比べ、薩藩は変わらず、長藩はこの頃迄に入京した者1300名弱。朝廷は、諸侯に入京を命じているが、多くは病気等を理由に召命を辞し老臣等を代理として入京させ、自ら入京した者の中には間もなく帰藩した者もあり、この時の在京諸侯(当主、隠居、世子)は、新政府を構成する諸藩以外は殆どが近畿の小藩及び備前・因州の支藩等で、有力藩は肥後藩のみ。しかし、同藩兵は交戦が始まれば幕軍に呼応する可能性があり、倒幕側には薩・長軍以外に依拠すべき有力な兵力はいない。
大阪の幕軍側は、江戸から3兵の増援を受け、幕府直属部隊は軍制改革によって作られた歩兵中心に約5千、更に慶喜の下阪以後、姫路藩主酒井忠惇・小浜藩主酒井忠氏・伊予松山藩主久松定昭らが大阪へ参じており、在阪総兵力は1万5千に達す。しかも倒幕側は、自兵力の倍の北上幕軍1万余の京都市中侵入を防ぐという極度に不利な形で交戦を始めざるを得なく、もしも幕軍が常識的に、兵を分けて諸道から攻撃する策をとれば、薩・長軍は必敗せざるを得なかったであろう。
幕府側上級指揮官達の極端な無能、拙劣な軍配(その背後には、幕軍の大挙北上により、在京諸藩兵の中から薩・長軍の背後をつくものが生じ、大規模な戦闘をへずに薩・長軍は退却せざるを得ないであろうとの楽天的な予想がある)。
政治的には・・・。
倒幕派が交戦の名義を掴めず窮地に立っている時に、幕軍側が成立しつつある政治的妥協を放棄して戦闘に訴えた訳で、倒幕派は朝廷を擁して幕軍の攻撃を受けて立つ立場で交戦を始めることができた。しかしそれでも尚、開戦に際し、三職会議は薩・長軍を官軍とせず。政府は薩・長軍を官軍とする為いくつかの命令を発するが、それらは三職会議の可決を経たものでなく、特に重要な軍事総裁(嘉彰親王)の任命は「蓋し御前親命なるぺし」といわれる形で行われ、いち早く前線の薩兵に伝達されたが、議定の諸侯達はこの命令を発令後も論議する機会を与えられなかった。ここにおいて茂久を除く議定諸侯(徳川慶勝、松平慶永、伊達宗城、山内容堂、浅野茂勲)はことごとく辞任を願い出、更に軍事総裁が慶勝を除く他の4名に副将・参謀への就任を求めたのにたいして4名はそろって拒否し、宗城のみ再三の要請を辞しかねて参謀に就任するが、数日後に辞任。
伏見:長州主力(山田顕義、林友幸)、鳥羽:薩摩主力(桐野利秋、野津鎮雄)。容堂の発砲禁止令により土佐藩不参加(4日以降は禁止令無視)。
「鳥羽一発の砲声は百万の味方をえたよりもうれしい」(西郷)。
この勝利により、近畿以西の大名の新政府支持と新政府内における武力討幕派の指導権確立。
・新選組、伏見奉行所を本陣として戦闘。京橋口でも戦い戦死者を出す。
旧幕府軍の進軍開始。
旧幕府軍は総督大河内正質・副総督塚原昌義指揮のもと(実際には陸軍奉行竹中重固が指揮)、2方面軍に分かれて進軍。
①鳥羽方面軍(滝川具知):幕府歩兵隊第1連隊(徳川出羽守、約1千)・同第5連隊(秋山下総、約800)・同伝習隊(小笠原石見守)・見廻組(佐々木只三郎、400程)・桑名軍(服部半蔵、4個中隊・砲兵隊)・大垣藩兵(小原忠迪、約500)、浜田藩兵(約30)、
②伏見方面軍(陸軍奉行竹中重固):幕府歩兵隊第4連隊(横田伊豆守、約1千)・同第7連隊(大沢顕一郎、約800)・同第11連隊(佐久間信久、約900)・第12連隊(窪田鎮章)・伝習隊・遊撃隊(今堀越前守、約50)・会津軍(田中土佐隊・堀半右衛門隊・生駒五兵衛隊・上田八郎右衛門隊・林権助砲兵隊・白井五朗太夫砲兵隊・佐川官兵衛別選隊)・新選組(土方歳三、約150)・高松藩兵(三宅勘解由・筧謙介、8小隊約300)・鳥羽藩兵(稲垣九朗兵衛、2小隊98)。旧幕軍は竹田街道・西国街道などには軍を向かわせず(旧幕軍の大軍を見て薩長軍は戦わずに逃亡と観測した為か)。
鳥羽方面の戦い。
薩長連合軍側も二手に分かれ、鳥羽方面には薩摩藩参謀伊地知正治率いる同藩6中隊相当(城下士小銃5、6番隊・外城1、2、3番隊・私領2番隊)・1番砲兵隊半隊が東寺を出発、鳥羽街道を南下し、鴨川の小枝橋を渡った辺りに布陣。旧幕軍の滝川が、小枝橋付近に布陣した薩摩軍に対し通過させるよう交渉、薩摩側は回答を引き延ばし時間を稼ぎ、この間に伊地知は、十字砲火攻撃を行う準備として、城下士小銃6番隊を鳥羽街道と平行の鴨川左岸を南下した藪中に、外城1番隊を鳥羽街道東側の藪中に待機させる。伊地知隊が布陣を終える夕方、滝川は、痺れを切らし旧幕鳥羽方面軍に攻撃を命令。しかし、旧幕軍は長く行軍体制のまま放置されており、旧幕軍が戦闘体制に入る前に、薩摩軍城下士小銃5番隊の砲が先に砲撃を開始、第1弾が旧幕軍の砲に命中し爆発。ここに鳥羽伏見の戦いが始まる。充分な戦闘態勢にない旧幕軍は混乱するが、見廻組は果敢に反撃。しかし、鳥羽街道上に展開する薩摩軍4中隊相当薩摩軍は、刀槍部隊で密集隊形で突撃する見廻組を猛射、見廻組は多くの死傷者を出し敗走。その後、幕府歩兵第1連隊が攻撃開始、しかし、散開せず行軍隊形のまま前進し、鳥羽街道上の薩摩軍4中隊・鴨川左岸の城下士小銃隊6番隊・鳥羽街道東側の藪中の外城1番隊の十字砲火を受け壊滅(半数が戦死)。次に、薩摩軍が前進開始。旧幕軍側は桑名軍の砲撃と伝習隊のシャスポー銃による射撃で迎撃、一進一退の攻防戦の末、旧幕軍は薩長軍別働隊の長州軍第3中隊(整武隊)に側面を突かれ後方陣地に撤退。
伏見方面の戦い(市街戦)。
伏見方面では薩長連合軍は吉井友実指揮の薩摩軍5中隊相当(城下士小銃隊1、2、3、4番隊・外城4番隊)と長州軍第6中隊(第2奇兵隊)・第2中隊(遊撃隊)が御香寺を中心に布陣。両軍の睨み合い後、鳥羽方面の銃声で両軍は攻撃開始。旧幕軍の遊撃隊・新選組・会津軍別選隊・槍隊が白兵突撃を試みるが、薩長連合軍の猛射撃に後退。薩摩軍の砲撃により新選組が篭る伏見奉行所は炎上し、旧幕軍は敗走。会津軍は、長州軍第2中隊参謀後藤正則を討ち取る。
薩摩軍の編制(1隊約120で編成、実際の戦闘兵約80)。
総参謀:伊地知正治。城下士小銃1番隊長:鈴木武五郎、軍監:黒田清隆。城下士小銃2番隊長:村田新八、軍監:辺見十郎太。城下士小銃3番隊長:篠原国幹。城下士小銃4番隊長:川村純義、軍監:永山弥一郎。城下士小銃5番隊長:野津鎮雄、軍監:椎原小弥太・山口仲吾。城下士小銃6番隊長:市来勘兵衛、軍監:野津道貫。城下士小銃7番隊長:新納軍八、軍監:山本矢次郎・西郷宗次郎。城下士小銃8番隊長:野元助八、軍監:赤松重之助・相良甚之丞。城下士小銃9番隊長:樺山資紀、軍監:竹内堅吉・相良吉之助・野崎平左衛門。城下士小銃12番隊長:伊集院与一、軍監:志岐正十郎・川畑彦四郎・伊東隼太。外城1番隊長:村田経芳、軍監:川上直介・松山甫春(高岡郷士により編成)。外城2番隊長:土持雄四郎、軍監:石神彦七・伊東新八(加世田・伊作郷士により編成)。外城3番隊長:有馬誠之丞(市来・伊集院・串木野郷士により編成)。外城4番隊長:中村源助、軍監:藺牟田四郎左衞門(出水・阿久根郷士により編成)。私領2番隊長:鮫島八十朗、軍監:高橋金次郎・竹内慶介(知覧・鹿篭郷士により編成)。兵具1番隊長:川路利良、軍監:篠崎彦兵衛。大砲1番隊長:中原猶介、軍監:奈良原長左衛門・児玉四郎太。大砲2番隊長:大山巌、軍監:三原玄浦。
長州軍の編制。
第1中隊(奇兵隊)110名、軍監:福田侠平、参謀:片野十郎。第2中隊(遊撃隊)97名、参謀:後藤正則、宮田師久。第3中隊(整武隊)97名、参謀:山田顕義・田村甚允。第5中隊(振武隊)97名、参謀:石川厚狭介。第6中隊(第2奇兵隊)125名、軍監:世良修蔵・林友幸。第7中隊(右田隊)93名、毛利内匠直率(戦闘には不参加の模様)。第8小隊(膺懲隊)40名、参謀:平野光二郎。
土佐軍の編制。
迅衝隊7番隊長:山地忠七、迅衝隊8番隊長:吉松速之助、迅衝隊9番隊長:山田喜久馬、迅衝隊砲兵隊長:北村長兵衛。
・山内容堂、徳川慶喜の上京について意見書を朝廷に提出。
・夜半、議定松平慶永・徳川慶勝・伊達宗城・山内容堂ら公議政体派有力諸侯、薩長討幕路線に抵抗し、辞意申出。
・広沢真臣・井上馨、参与職に就任。
・幕府老中酒井忠淳、イギリス・フランス・アメリカ・イタリア・プロシアの各国代表に対し軍艦兵器を薩摩藩に売らないよう要請。

つづく


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