2020年6月30日火曜日

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)2月1日~5日 韓国との間に「皇」「勅」問題 慶喜、絶対恭順(降伏)決意 「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず...」(西郷の大久保宛書簡) 親政の詔(「征討の大号令」)宣布 

慶応4年/明治元年記(8) 慶応4年(1868)1月27日~29日 正月中に近畿・四国は天皇ー新政府に忠誠を誓う 政府軍、桑名城接収 相楽総三、「官軍先鋒きょう導隊」を名乗る 赤報隊四日市事件(赤報隊最初の犠牲者) 綾小路侍従と赤報隊2番隊・3番隊は京都に戻り解隊、徴兵7番隊として戊辰戦争に従軍
より続く

慶応4年(1868)
2月
・この月、対島藩家老樋口鉄四郎、釜山着。持参文書に「皇」「勅」文字あり。日本に朝鮮隷属野望ありと判断。交渉1年余。書契受領拒否。国内での征韓熱かきたてる口実となる。
・2月~3月中旬の箱館の状況。
2月4日、1月9日付の織田信重(勘定奉行兼帯の箱館奉行)・新藤蔵(前年10月まで箱館奉行並)から京坂の状況を伝える「戦争ノ顛末は分り兼候」との注が付いた内状が届き、同日、箱館奉行の江戸詰組頭富田類右衛門らから鳥羽伏見の戦いで徳川方勝利の急報も入り混乱。6日、イギリス商船カンカイ号が入港し、神奈川奉行支配組頭宮本小一郎らからの内状が届き、鳥羽伏見の敗戦、慶喜の江戸帰府などの詳報を知る。11日、庄内藩箱館留守居所に国元から急使が到着、人員総引き上げ命令を支配所(浜益・留萌)へ飛ばし、箱館市街は浮説紛紜、騒然となる。13日、人心の動揺を静めるべく町会所を通して、市中が動揺し、乱暴を働く者が出現することもあると思うが、役人の指示に従って取り押さえる様、仕事には励む様にとの町触が出される。また、同日、杉浦奉行は、幕府による秩序維持に不安と困難を感じ、血判を押した緊急処置対策上申書を定役元〆坪内幾之進に持たせて幕閣へ上申すると同時に、組頭以下の属僚ヘも趣意徹底を図る。①賊船等の襲撃には徹底抗戦、②朝命を奉じた軍艦が平穏に引き渡しを要求した場合は従う予定であるが、幕閣の指示を待って実行する。
しかし、指示を待つ間にも情勢は緊迫度を増す(蝦夷地警衛諸藩の不穏な動き、商人は官吏を軽侮し、火付盗賊は横行、入港船激減で生活物資入荷が絶え物価急騰、人心不安)。
19日、杉浦奉行は、組頭4人(荒木済三郎、高木与惣左衛門、山村惣三郎、中沢善司)と議論。杉浦奉行は、箱館に留まり朝廷の派遣者に無事引き継ぐことを主張、高木はこの意見に同調、しかし、他の3人は諸事を警衛諸藩に預け引き上げを主張。その後、荒木は杉浦に同調。21日、治安維持保障と家業継続を推進する触書を出すと共に、杉浦奉行の決断並びに現況説明と蝦夷地経営の展望に関する上申書(2月27日付)を作成。山村・中沢両組頭は帰府懇願を変えず。28日、御雇英船カンカイ号で、支配組頭荒木済三郎は杉浦奉行の建白書を持参して江戸に向かう。この時、有合せの1万両と奉行所の米も、定役木下官一郎・足軽好本保右衛門を添えて江戸に送る。
一方、老中稲葉美濃守は2月12日、元箱館奉行支配組頭で一橋家郡奉行橋本悌蔵を箱館奉行並に任じ、箱館の現況視察と運上金の増徴(慶応4年は7ヶ年季の場所請負運上金の年季切り替え年)などのため、箱館出張を命じる。箱館奉行所の慶応年間の年々の会計は約10万両で、内9万両程を場所請負運上金等の蝦夷地収納物で賄い、慶応3年からは江戸からの差下金をも断る程。3月2日、出発準備中の橋本悌蔵のもとに、杉浦兵庫頭からの上申書(2月12日付)が到着。橋本はこの上申書を幕閣に提出し、朝命遵奉と恭順、役人の江戸引き上げ指令を受け、6日、品川発で箱館へ赴く。3月16日、橋本悌蔵は支配組頭宮田文吉・御勘定阿久沢銈銈次郎らと蒸気船奇捷丸で箱館に入港。しかし、2月29日、人心動揺鎮静に心を砕く杉浦兵庫頭は、請負人の度々の歎願に押され、自己の責任をもって運上金増徴を見送り年季切替を行っていた。
・ドイツ関税議会選挙。
・ボロディン、ロシア音楽協会の内輪で第1交響曲の試演会をする。
2月1日
・新政府、大赦執行。
・木戸準一郎(桂小五郎)、外国事務掛を兼任。
・東山道鎮撫軍(総督岩倉具定)、大垣藩兵を先鋒とし美濃大垣(東海・東山の分岐点)に到着。土佐藩を含む先鋒は既に集結済み。15日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする本陣は2月15日、京を出発予定。
・英国人医師ウィリアム・ウィリス、アーネスト・サトウらと共に大阪湾安治川河口の天保山堡塁に行き、京都から送還されてきた会津藩傷兵の治療にあたる。
2月2日
・慶喜、絶対恭順(降伏)決定。慶喜、恭順決定のため鳴物・月代剃の停止命ず。
慶喜は、江戸に帰って以来、恭順するでもなく主戦論をとるでもなく曖昧な態度をとってきた。尾張の徳川慶勝や越前の松平慶永が新政府内で慶喜追討に反対し、救解運動を続けており、慶喜はその成果に期待し、諸侯の力による復権を願っていた。しかし、1月下旬、近畿以西の諸大名はほぼ新政府に跪き、25日には尾張徳川家でさえ重臣14名を処刑し、新政権への忠誠うに至る。ここに至り、慶喜は絶対恭順を決意し、事後処理は勝海舟・大久保一翁に任せる。
・西郷の大久保宛手紙。「慶喜退隠の嘆願、甚だ以って不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わで相済まず、・・・」
「慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは相済まず、必ず越土などよりも寛諭起り侯わんか。然れば静寛院と申しても、矢張り賊の一味となりて、退隠位にて相済み候事と思召され候わば、致し方なく候に付き、断然追討在らせられたき事と存じ奉り侯。かく迄押し詰め侯処を、寛(ユル)やかに流し候ては、再びほぞをかむとも益なき訳に到り候わん。」(大久保利通宛書簡、2月2日付)。更に、「何卒御持ち合わせの御英断を以て御責め付け置き下されたく」と大久保に要請。尚、静寛院(前将軍家茂の妻、和宮)は、慶喜の周旋依頼をうけ寛大な処置を求めていた。
・政府、郡上藩に飛騨地方取締りを正式に命令。4日、竹沢寛三郎、飛騨陣屋入り。7日、陣屋門前に「天朝御用所」の高札を掲げ、年貢半減・諸運上軽減を布告。
先(1月18日)に郡上藩より飛騨警守の申し出あるが、安永2年の農民蜂起での郡上藩の鎮圧・虐殺の記憶から、飛騨に不穏な空気が流れ、別に岩倉から竹沢寛三郎への口達となる。しかし、1月下旬より相楽総三のような草莽排除・年貢半減令廃止方針を決めた政府は、改めて郡上藩へ命令。従って、竹沢と郡上藩は交錯。郡上藩は、竹沢の年貢半減令が戦費調達に支障をきたすと東山道総督府に訴える。
2月3日
・親政の詔(「征討の大号令」)、宣布。9日、征討軍編制。
・官制を「3職7科制」から「3職8科制」に改める。
同時に徴士は、「徴士無定員、諸藩士及都鄙有才ノ者公議ニ執り抜擢セラル、則徴士卜命ス、参与職各局ノ判事ニ任ス・・・」と新しい規定がなされる。徴士と参与と判事との職制上の関係を、明確に定める。2月20日の広沢日記にも「徴士参与職内国事務局判事被仰付」とあり、まず徴士となり、その上で参与職につき、内国事務局判事の仕事をするという仕組になる。
・外国事務掛を外国事務局と改める(外国事務局督・晃親王)
・稲葉正巳(老中格)、その職を退かれる。
2月4日
・渋沢成一郎(喜作)、鳥羽伏見の敗戦処理を終え江戸に戻る。
・伝習隊兵卒400、脱走し八王子方面に向かう。
・松平容保、慶喜に会い、養子喜徳に家督を譲ることを申し出、輪王寺宮に謝罪嘆願依頼、慶喜に従って恭順の姿勢を示す。しかし、明確に抗戦準備を進める。
・小泉八雲の妻となる小泉セツ、島根に誕生。
2月5日
・綾小路一行、京都着。鈴木ら、投獄後釈放。一部の者は、徴兵7番隊として採用。綾小路は海軍先鋒総督(後、伯爵)。
・ロッシュ、兵庫に戻る。
・徳川慶喜、松平慶永に書簡。恭順の態度を表明。
・赤報隊の大木四郎ら6人、下諏訪発。7日、遊撃隊大砲隊、出発。11日、金原忠蔵らが佐久へ出発。15日、先頭が軽井沢辺まで行っていて、不慮の衝突を避けるため、和田峠以降に引返す指示をだす。
・歩兵第11・12連隊の兵千余、野州方面に脱走。
・北陸道鎮撫総督高倉永祜、小浜・広島藩兵を率い小浜発、7日、敦賀の陣屋入り。9日、敦賀沿岸の砲台を巡検、気比社に参詣、11日、北陸道諸藩に命じ、勅使一行への軍需物資供給、運搬の為の人馬準備を行わせる。13日、敦賀発。
・開成館(藩直営商館)、高知に設立。

つづく




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