2023年10月28日土曜日

〈100年前の世界107〉大正12(1923)年9月4日 寺島警察署の死体置き場に放置されながらも生き延びた慎昌範 体に残った無数の傷 (『9月、東京の路上で』より) 〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉 愼昌範 より  

 

関東大震災当時の朝鮮人虐殺などに関する証言を朗読する人たち

=2日午後、東京都墨田区(内山田正夫撮影)

〈100年前の世界106〉大正12(1923)年9月4日 東京朝日新聞社の社会部記者福馬謙造(24)、4日午前8時半、大阪朝日新聞社にたどり着く。福島は、手記と未現像の写真も持っており、途中で見聞した惨状を号外用原稿として書く。 より続く

大正12(1923)年

9月4日

【寺島警察署の死体置き場に放置されたが、生き延びた慎昌範】

9月4日 火曜日 午前2時 京成線・荒川鉄橋上

体に残った無数の傷 (『9月、東京の路上で』より)

一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。

            慎昌範「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」

慎昌範は、8月20日、親戚など15人の仲間と共に日本に旅行に来て、関西を回り、30日に東京に着いた。

9月1日午前11時58分、上野の旅館で昼食中に地震に遭遇。

「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなぶるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」

その後、燃えさかる街を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。東京で暮らす同胞も合流していた。荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。

深夜2時頃、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「剛鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。そして、鉄橋に上がってきた彼らが、この惨劇を引き起こした。

林善一が日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎は、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだ。

だが彼は、小船で迫ってきた自警団につかまり、岸に引き上げられ、日本刀で切りつけられる。そして、その際、よけようとして小指を切断される。

彼は抵抗するが、日本人たちに襲いかかられて失神した。その後の記憶はないが、気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。

10月末、重傷者が寺島警察署から日赤病院に移される際、彼は朝鮮総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押された。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でもまともま治療は受けられず、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。

彼の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた彼を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだ。


〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉

愼昌範

〔荒川堤防、京成鉄橋辺で〕4日の朝2時頃だったと思います。うとうとしていると「朝鮮人をつまみ出せ」 「朝鮮人を殺せ」などの声が聞こえました。〔略〕間もなく向こうから武装した一団が寝ている避難民を一人一人起し、朝鮮人であるかどうかを確かめ始めました。私達15人のほとんどが日本語を知りません。そばに来れば朝鮮人であることがすぐ判ってしまいます。

武装した自警団は、朝鮮人を見つけるとその場で日本刀をふり降し、又は鳶口で突き刺して虐殺しました。一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かっだのが、林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語はほとんど聞きとることができません。自警団が彼の側まで来て何かいうと、彼は私の名を大声で呼び「何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ」と、声を張りあげました。その言葉が終るやいなや自警団の手から日本刀がふり降され、彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。

このまま坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟〔愼〕勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。

とびおりてみると、そこには5、6人の同胞がやはりとびおりていました。しかしとびおりたことを自警団は知っていますから、間もなく追いかけてくることはまちがいありません。そこで私達は泳いで川を渡ることにしました。すでに明るくなり、20〜30メートル離れた所にいる人も、ようやく判別できるようになり、川を多くの人が泳いで渡っていくのがみえました。

さて、私達も泳いで渡ろうとすると、橋の上から銃声が続けざまにきこえ、泳いで行く人が次々と沈んでいきました。もう泳いで渡る勇気もくじかれてしまいました。銃声は後を絶たずに聞こえます。私はとっさの思いつきで、近くの葦の中に隠れることにしました。しかし、ちょうど満潮時で足が地につきません。葦を束ぬるようにしてやっと体重をささえ、わなわなふるえていました。

しばらくして気がつくとすぐ隣にいた義兄のいとこが発狂し妙な声を張りあげだしました。声を出せば私達の居場所を知らせるようなものです。私は声を出させまいと必死に努力しましたが無駄でした。離れてはいてもすでに夜は明け、人の顔もはっきり判別できる程になっています。やがて3人の自警団が伝馬船に乗って近づいてきました。各々日本刀や鳶口を振り上げ、それはそれは恐ろしい形相でした。

死に直面すると、かえって勇気が出るものです。今までの恐怖心は急に消え、反対に敵愾心が激しく燃え上がりました。今はこんなに貧弱な体ですが、当時は体重が二十二頁五百〔約85キロ〕もあってカでは人に負けない自信を持っていました。ですから「殺されるにしても、俺も一人位殺してから死ぬんだ」という気持ちで一杯でした。私は近づいてくる伝馬船を引っくり返してしまいました。そして川の中で死にもの狂いの乱闘が始まりました。ところが、もう一隻の伝馬船が加勢に来たので、さすがの私も力尽き、捕えられて岸まで引きずられていきました。

びしょぬれになって岸に上るやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふりおろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのため今見ればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。それと同時に私はその男にださつき日本刀を奪ってふりまわしました。私の憶えているのはここまでです。

それからは私の想像ですが、私の身に残っている無数の傷でわかるように、私は自警団の日本刀に傷つけられ、竹槍で突かれて気を失ってしまったのです。左肩のこの傷は、日本刀で切られた傷であり、右脇のこの傷は、竹槍で刺された跡です。右頬のこれは何で傷つけられたものか、はっきりしません。頭にはこのように傷が4カ所もあります。

これは後で聞いたのですが、荒川の土手で殺された朝鮮人は、大変な数にのぼり、死体は寺島警察署に収容されました。死体は、担架に乗せて運ばれたのではなく魚市場で大きな魚をひっかけて引きずっていくように2人の男が鳶口で、ここの所(足首)をひっかけて引きずっていったのです。私の右足の内側と左足の内側にある、この2カ所の傷は私が気絶したあと警察まで引きずっていくのにひっかけた傷です。私はこのように引きずられて寺島警察署の死体収容所に放置されたのでした。

私の弟は、頭に八の字型に傷を受け、義兄は無傷で警察に収容されました。どれほど経ったかわかりませんが弟達に「水をくれ」という声が、死体置場の方から聞こえたそうです。弟は、その声がどうも兄(私)の声のようだと思いその辺を探してみたけれど、死体は皆泥だらけで判別がつきませんし、死体の数も大変多く魚を積むようにしてあるので、いちいち動かして探すこともできなかったとのことです。その後豪雨が降り、そのため死体についた泥が、きれいに落ち始めました。3、4時間後弟は水をくれという声を再び聞いて、又死体置場に行き、とうとう私を探し出し、他の死体から離れた所に運び、ムシロをかぶせて置きました。

〔略〕朝鮮に帰ってみると、私の故郷(居昌郡)だけでも震災時に12名も虐殺された事が判り、その内私の親戚だけでも3名も殺されました。

(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)


つづく

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