2023年10月27日金曜日

〈100年前の世界106〉大正12(1923)年9月4日 東京朝日新聞社の社会部記者福馬謙造(24)、4日午前8時半、大阪朝日新聞社にたどり着く。福島は、手記と未現像の写真も持っており、途中で見聞した惨状を号外用原稿として書く。

 

福馬記者が運んだ貴重な写真入りの号外第1面

〈100年前の世界105〉大正12(1923)年9月3日 【横浜証言集】 「陸戦隊は右往左往して秩序維持に努め三日夜までに既に六百人の○○〔鮮人〕を○〔殺〕 し〇〇〇〇〇もドンドンされた、言葉付きや顔が似たという許りで○○された者も大分多い 」 より続く

大正12(1923)年

9月4日

震災で印刷不能になった東京朝日新聞社の社会部記者福馬謙造(24)は、壊滅状態の神奈川県下を歩き、当時の富士裾野駅で下りの大阪行きに乗り、4日午前8時半、大阪朝日新聞社にたどり着く。福島は、手記「泥ンこの「第一急使便」」と「帝都の惨状」を写した未現像の写真も持っていた。途中で見聞した惨状を新聞1ページの号外用原稿として書きなぐった。『大朝』の号外は多い日には配達7回に及び、本紙だけでも90万部を刷り増した。


「大混乱の東京」から託された写真 記者は泥まみれで大阪を目指した (朝日新聞デジタル2022年9月1日 有料記事 )


 「大混乱の東京」。1923年9月1日に関東大震災が起きてから3日後、大阪の朝日新聞が出した号外には、こんな見出しで写真が大きく掲載されている。

 「日比谷公園松本楼の焼失」「初震より三時間後の中央気象台」「崩壊した京橋電話局」「芝浦の避難民」の4枚。

 これらの写真は、東京の状況を広く伝えるため、3日がかりで大阪にたどり着いた記者が運んできたものだ。

 銀座にあった東京朝日新聞の社屋は揺れには耐えたものの、夕方に広がってきた火災により全焼。新聞の発行機能を失っていた。

 まだラジオ放送もない時代。電話も不通になった。朝日新聞社史によると、電話が生きていた群馬県などの拠点に記者が向かい、東京の情報を大阪朝日新聞に伝えたという。さらに、複数の記者が別々のルートに分かれて大阪を目指した。

 東京から最初に大阪に到着したのは、福馬謙造記者だった。

 号外には「福馬特派員が決死の努力で最初に大阪にもたらした東京大震害の写真」との説明書きが添えられている。

 SNSで瞬時に画像が得られる現代からは想像できない。しかし、当時はこれが最速だった。

 福馬記者は1日夜、まず自動車で東京を出発した。東海道ルートは行く手を阻まれ、東京の西、八王子へと向かった。路上には畳やむしろが運び出され、なかなか進めなかった。

 「道路の亀裂甚だしく」「橋という橋に完全なものはなく」という状況で、板を敷いたり、車をかついでもらったりもしたという。

 道中、何度か自警団に止められた。東京中心部の様子を次々に尋ねられ、離してもらえない。このとき、福馬記者は「人間のニュースに対する渇望」を感じたという。

 神奈川県内に入ると、相模川の橋が落ちていた。車はあきらめて泳いで渡り、徒歩で進んだ。再び車をつかまえても倒壊した建物に行く手を阻まれ、歩くしかなかった。

 国府津駅(現・神奈川県小田原市)に停車中の列車で寝ようとすると、乗客や住民でいっぱいだった。豚を載せる貨車を見つけ、臭気のなか眠り込んだという。託された未現像の写真をぬらさないよう社旗で包み、雨の山道を静岡県方面へと進んだ。

 当時の東海道線は、箱根の北側を回る今の御殿場線のルートを通っていた。その裾野駅(現・静岡県裾野市)から夜行の列車が動き、大阪に着いたのは4日朝。全身泥まみれの姿で、社の入り口では守衛に止められたという。

 その後、続々と記者が到着した。5日夜には講演会も開かれ、会場があふれるほどの聴衆が集まった。

 こうして大阪に運ばれた写真には、被災地の様子や当時の人々の表情が鮮明に写っている。

大阪朝日新聞社に到着した泥まみれの福馬記者(24)。手元の荷物は、社旗で包んだ未現像の写真

号外第2面。福馬記者の苦労も記事になった


「そのときメディアは」 関東大震災編 ③ 泥だらけで大阪に到着

2012年7月13日 田部康喜公式サイト

泥だらけで大阪に到着

  通信が断絶する中で、東京朝日は大阪朝日に大震災の情報を伝えようと、独身者を中心に3班を編成して、地震発生の当日に西を目指させた。翌日第4班も出発した。横浜から東海道線を目指す班、中央線沿い、東海道沿い、そして最後の班は北陸から大阪に向かった。

 4日午前8時半、徒歩と自動車、列車を乗り継いで、大阪朝日にどろだらけの姿で到着したのは、東海道沿いのルートをとった東京社会部の福馬謙造だった。

 『朝日新聞社史』は、福馬の手記をもって綴っている。

 玄関から入ろうとすると、忽ち守衛にとめられた。全身泥まみれ、風来坊のような侵入者を、守衛がとめたのはもっともである。「どこへ行くのだ」「編輯へ行くのです。編輯室は二階ですか」「勝手に入られては困る。何の用事かね」「東京から来たのだ。急いでいるんだ」「そんなこと言っても……、手に持っているのは何かね」「写真の包みだ。僕は東京朝日の記者だよ」

  広い編輯室は人で一ぱいであるのに驚かされた。 「東京を1日夜立って、やっとやって来ました」というと、「やぁ、ご苦労、すぐ号外を出すから、東京を立ってから大阪に着くまでのことを書いてくれ給え」

  私は鉛筆をとり上げた。すぐそばには大江さん(社会部長大江素天)が立っている。社会部も整理部も原稿の出来るのを待って、一枚々々書くそばから持って行く。私は張り切って一気呵成に、新聞一頁の原稿を書きなぐった。書き終えて飲んだサイダーがうまかった。編輯局長室に連れて行かれた。そこには村山社長が居られた。私はこの時初めてお目に掛かった。社長は「御苦労じゃった」と言って私の手をとって堅く握った。

  福馬が書いた4日朝の1頁の号外には、東京本社から大事に持ってきた大震災の被害を写した未現像の写真が4枚使われた。「日比谷公園松本楼の焼失」「初震より3時間後の中央気象台――大時計は11時50分辺でピッタリと止まっている」「崩壊した京橋電話局――屋上飾がまず落下し下を通行中の人馬が惨死したところ」「芝浦の避難民」である。その後、福馬とは別班の記者たちも次々に大阪朝日に到着した。東京の震災の写真は、4日の夕刊、5日の朝刊にも多数掲載された。大阪のライバル紙は5日朝刊になっても1枚もなかった。

 福馬は泥だらけの服装のままで、5日夜、中之島公会堂で開かれた「震災報告大講演会」の壇上に立った。会場は超満員となり場外にまで聴衆はあふれた。

 東京朝日は新聞用紙の確保に幹部が奔走するとともに、社外の日清印刷と博文館の協力と得て、新聞発行の再開を果たした。9月6日から号外を出し、12日には11日ぶりの朝刊となる4頁をだした。25日には夕刊4頁も復刊した。


つづく

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