2023年10月8日日曜日

〈100年前の世界087〉大正12(1923)年9月3日 『九月、東京の路上で』より 上野公園にて 東大島(中国人はなぜ殺されたのか) 「9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名ないし400名3回にわたり銃殺又は撲殺せられたり。」

 

鎮魂の舞を披露する金順子さん=1日、墨田区

〈100年前の世界086〉大正12(1923)年9月3日 〈軍隊配備、戒厳令、自警団の状況概観(3日~4日)〉  〈警察当局、朝鮮人来襲を疑い始め、自警団取締りへ軌道を修正〉  〈海軍省船橋送信所の発した電文〉 朴烈(25)、東京世田谷署に保護検束。翌日、金子文子(20)も より続く

大正12(1923)年

9月3日

月曜日 午前 上野公園〔東京都台東区〕(『九月、東京の路上で』)

流されやすい人

 私がちょうど公園の出口の広場に出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、ケンカでもあるかのような塩梅である。得物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、ひとりの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。

 群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずにになぐり殺してしまえ、という激昂した声も聞こえた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭といわず顔といわず当るのであった。

 こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだをと思うと、私もつい怒気があふれて来た。我々は常に鮮人だと思って、憫(あわれ)みの心で迎えているのに、この変災を機会に不逞のたくらみをするというのは、いわゆる人間の道をわきまえないものである。この如きはよろしくこの場合血祭りにすべきものである。巡査に引き渡さずになぐり殺せという声はこの際痛快な響きを与えた。私も握り太のステッキで一ツ喰はしてやろうと思って駆け寄っていった。

染川藍泉『震災日誌』日本評論社。

しかし、万が一自分が朝鮮人に間違えられたら危ない、などと迷っている間に兵上が現れて、浴衣の男は連行されていった。

「私は自分の今のすさみ切った心に、彼奴がなぐり殺されなかったのを惜しいように思った」


染川藍泉は十五銀行本店の庶務課長で43歳。本名は春彦。震災では日暮里の自宅にも家族にも被害はなく、9月中は銀行業務の復旧のために一日も休まず精勤していた。

染川は「朝鮮人が爆弾を投げている」といった流言を最初から信じていたわけではなく、前日(2日)の昼間までは、そうした噂に振り回される「愚かな人」を軽蔑していた。

ところがその夜、避難先の線路脇で「井戸の中に劇薬が入れてあるというから、諸君気をつけろよう」という青年団の声が闇の中に響くのを聞くうちに、不安が膨らんでくる。

「私は弾かれたように眠りから醒めた。そして考えた。これは路傍の無智な人たちのうわさではない」

「青年団が広めるからには何か証拠があってのことに違いない」

「さすれば私の宅の井戸も実に危険千万である」

こうして翌日朝、暴行される朝鮮人らしき男を目の当たりにしたとき、彼の心には「毒薬を井戸に投じたりする」朝鮮人への怒りがあふれたというわけなのである。


当時、上野公園には多くの避難民が流れ込み、混乱を極めていた。

作家の佐藤春夫(1892~1964)も、町会で自警団として動員され、いもしない敵におびえて深夜の上野公園で右往左往した経験を記している。

染川は、上野公園の事件の後しばらくすると冷静さを取り戻し、「朝鮮人暴動」を再び否定してみせている。

「あまりに話がうがちすぎている。…うろたえるにも事を欠いて、憫(あわれ)んで善導せねばならぬ鮮人を、理非も言わせず叩き殺すということは、日本人もあまりに狭量すぎる。今少し落ち着いて考えて見て欲しいと私は思った」

染川の『震災日誌』中には、「(十五銀行)深川支店の前には鮮人が三人殺されて居った。電柱に括り付けられて日本刀で切られて居った。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった」という記述もある。


月曜日 午後3時 東大島(東京都江東区・江戸川区)((『九月、東京の路上で』))

中国人はなぜ殺されたのか

時日:9月3日午後3時ごろ

場所:大島町8丁目

軍隊関係者:野重(野戦重砲兵)1連隊・第2中隊岩波清貞少尉以下69人及び騎兵14連隊三浦孝三少尉以下11人

兵器使用者:騎14の兵卒3人

被兵器使用者:鮮人約200人

概況:殴打

記事:大島町付近の人民が鮮人より危害を受けんとする際、救援隊として野重一の二岩波少尉来着し騎14の三浦少尉とたまたま会合し共に朝鮮人を包囲せんとするに群衆および警官4、50名約200名の鮮入団を率ゐ来り其の始末協議中騎兵卒3名が鮮人首領3名を銃把を以て殴打せるを動機とし鮮人は群衆および警官と争闘を起し軍隊は之を防止せんとしが鮮人は全部殺害せられたり

備考‥①②(略)。③本鮮人団、支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確認し居たるものなり

『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」

 目下東京地方にある支那人は約4500名にして内2000名は労働者なるところ、9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名ないし400名3回にわたり銃殺又は撲殺せられたり

第1回は同日朝、軍隊に於て青年団より引渡しを受けたる2名の支那人を銃殺し、第2回は午後1時頃軍隊及自警団(青年団及在榔軍人団等)に於て約200名を銃殺又は撲殺、第3回には午後4時頃約100名を同様殺害せり。

右支鮮人の死体は4日まで何等処理せられず、警視庁に於ては野戦重砲兵第3旅団長金子直少将及戒厳司令部参謀長に対し、右死体処理方及同地残余の200名をいし300名の支那人保護方を要請し、とりあえず鴻の台(国府台)兵営に於て集団的保護ををす手はずとなりたり。

 本事件発生の動機原因等につきては目下の所不明をるも支那人及朝鮮人にして放火等ををせる明確なる事実なく、ただ鮮人につきては爆弾所持等の事例発見せられ居るのみ。

警視庁広瀬外事課長直話(1923年9月6日)

 この事件については、直後から日本人、中国人による調査が進められている。さらに戦後の研究(目撃証人や軍人の聞き取りなどを含む)もあり、「何が起きたのか」自体はかなり分かっている。

 現場となった南葛飾郡大島町(現・江東区)は東京市に接し、工場などで働く中国人労働者千数百人が、60数軒の宿舎に集住していた。

 9月3日朝、大鳥町8丁目の日本人住民は今日は外に出るなと伝えられていた。伝えてまわったのは在郷軍人会か消防団のようだ。そうして朝のうちに、銃剣を構えた兵士2人が、大島町6丁目の宿舎から中国人労働者たちを引き立てて行った。その前後、8丁目の空き地で2人の労働者が射殺されている。

 昼頃、今度は大島町8丁目の中国人宿舎に軍、警察、青年団が現れ、「金をもっているやつは国に帰してやるからついてこい」と言って174人を連れ出した。ところが、近くの空き地まで来ると突然、誰かが「地震だ、伏せろ」と叫んだ。中国人たちが地面に伏せると、今度は群衆がいっせいにこれに襲いかかったのである。

「5、6名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、200人ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹やり、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた」

付近に住む木戸四郎という人物が、事件から2ヵ月後の11月18日に、現地調査に来た牧師の丸山伝太郎らに語ったその時の光景である。

さらに3時ごろ、先述の岩波少尉以下69名、三浦少尉以下11人の部隊が、人々が「約200人の鮮入団を連れて来て、その始末を協議中」のところへ現れ、これをすべて殺害したのである。この「鮮入団」の正体はもちろん中国人労働者である。

8丁目の虐殺を最大として、この日、大島の各地で同様の事件が起こった。殺された中国人の数は300人以上と見られる。

8丁目の虐殺の唯一の生存者である黄子連が10月に帰国し、この事実を中国のメディアに語った。これによりそれまで日本救援ムードが強かった中国の世論は一変。日本への抗議の声が沸騰した。郷里に帰った黄は、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなった。


つづく




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