2023年10月17日火曜日

〈100年前の世界096〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;渋谷区、新宿区〉 「このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。」   

 


〈100年前の世界095〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;江東区/丸八橋・新開橋、品川区〉 「丸八橋までほんの1分か2分というところまで来ましたら、パパパパバーンと、ダダダーシという音がしたわけです。・・・ のぞいて見ると橋の右側に10人、左側にも10人ぐらいずつ電線で縛られて。・・・後ろ手に縛って、川のなかに蹴落とされて、それへ向けて銃撃したあとです。」  「小名木川ぞいに西へ行くと次は進開橋です。その手前、40~50メートル、せいぜい100メートルのところでも同じような銃殺体、10人ほどを見ました。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;渋谷区〉

鈴木茂三郎〔政治家。当時『東京日日新聞』記者。代々木幡ヶ谷在住〕

9月3日戒厳令が布かれた。その頃から、朝鮮人問題に関する流言がまことしやかに、計画的であるかのように伝えられるようになった。多摩川の川を隔てて川向うまで押寄せて来た朝鮮軍と、それを防戦する日本側の土手に散兵した軍隊の間に激戦が行なわれているとか、荒川の囲みが破れて朝鮮人がなだれこんだとかいうように。

私の同じ隣組の人が新宿から息も絶え絶えに駆け込んできて「朝鮮人が今、淀橋のガスタンクに火をつけた。爆発するからすぐ逃げよう」とわめくように言った。夜警台の私たちは2、3間走り出した。そこで私は足を止めた。「淀橋のガスタンクに火をつけたというのに、そこからここへ走って来るまでに爆発しなかったのだから、これも流言だ」というと、皆一斉に緊張した顔をほころばせて笑いながら夜警台に帰った。

(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)


田島ひで〔政治家、婦人運動家〕

〔略〕私が留守居を頼まれた家の主人は近衛師団の若い将校だったので、2、3日すると、兵隊が2人、家の番をかねて食糧をもってやってきた。その日のことである。朝鮮人を捕えた群衆が、兵隊がいるというので私たちの家に連れてきた。見ると、1人の男を武器を持った群衆がとりまいている。人々の言うには、その男の身なりが朝鮮人そっくりだというのである。彼は白い立縞の洋服をきて、水筒をかけ、一見、朝鮮人というより中国人を思わせるものがあった。彼は自分が日本人であることを一生懸命弁解しているが、群衆はきこうともしない。双方が興奮している。「交番につれていったがお巡りではよう殺さんので、兵隊がいるこの家に連れてきた、水筒には毒がはいっている」というのである。東京のまん中の出来事として、まことにうそのような事実である。

捕えられた男は、これから田舎にゆくところで、自分は日本人であること、水筒に毒などはいっていない、といって、私たちの目の前で水筒の水をのんでみせた。しかし、彼の言葉はデマゴキーにたけりたった群衆の耳にはいりそうもない。いろいろな武器を手にした自警団員という群衆は、殺気だっている。私は、ともかく兵隊と話し、まずなによりこの人の言う、家族に知らせねばならないということになった。さいわい、この騒ぎをききつけて家族の人がとび込んできた。

〔略〕このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。このときの朝鮮人の犠牲者は3千人とも6千人ともいわれた。夕方、代々木の原を1人の男が死にもの狂いで逃げてゆく、その後から、わぁ-つ!と叫んで武器を手に追いかけてゆく群衆、それを見ている人々が、朝鮮人だ、朝鮮人だと、憎しみをこめて騒ぎたてているのを、私はこの目で見た。

〔略〕このころは新宿あたりでも井戸水を使用している家が多かった。友人の家を訪ねると、その家の井戸に白ぼくでしるしがつけられており、人々が集まって「このしるしの井戸には朝鮮人が毒を入れた」といって騒いでいた。

(田島ひで『ひとすじの道 - 婦人解放のたたかい五十年』ほるぷ総連合、1980年)


和辻哲郎〔哲学者、千駄ヶ谷で被災〕

〔2日〕不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。これまでは抵抗し難い天災のカに慄え戦いていたのであったが、この時に突如としてその心の態度が消極的から積極的へ移ったのである。自分は洋服に着換え靴をはいて身を堅めた。米と芋と子供のための菓子とを持ち出して、火事の時にはこれだけを持って明治神宮へ逃げろといいつけた。日がくれると急製の天幕のなかへ女子供を入れて、その外に木刀を持って張番をした。

〔略〕夜中何者かを追いかける叫声が所々方々で聞えた。思うにそれは天災で萎縮していた心が反発し抵抗する叫び声であった。

〔略。3日〕自分の胸を最も激しく、また執拗に煮え遅らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂であった。

自分は放火の流言に対してそれがあり得ないこととは思わなかった。ただ破壊だけを目ざす頽廃的な過激主義者が、木造の都市に対してその種の陰謀を企てるということは、極めて想像し易いからである。が今にして思うと、この流言の勢力は震災前の心理と全然反対の心理に基いていた。震災前には、大地震と大火の可能を知りながら、ただ可能であるだけでは信じさせるカがなかった。震災後にはそれがいかに突飛なことでも、ただ可能でありさえすれば人を信じさせた。〔略〕そのように放火の流言も、人々はその真相を突きとめないで、ただ可能であるが故に、またそれによって残存せる東京を焼き払うことが可能である故に、信じたのである。(自分は放火爆弾や石油揮発油等の所持者が捕えられた話をいくつかきいた。そうして最初はそれを信じた。しかしそれについてまだ責任ある証言を聞かない。放火の例については例えば松坂屋の爆弾放火が伝えられているが、しかし他方からはまた松坂屋の重役の話としてあの出火が酸素の爆発であったという噂もきいている。自分は今度の事件を明かにするために、責任ある立場から現行犯の事実を公表してほしいと思う。)

いずれにしても我々は、大震、大火に引きつづいて放火の流言を信じた。

(「地異印象記」『思想』1923年10月号、岩波書店)


〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉

吹田順助〔ドイツ文学者。原町坂上で被災〕

街上のあちこちで聞える噂 - 戒厳令の発布は必至、不逞鮮人横行のうわさ、夜警、食糧の欠乏、避難民の大群、夥しい死傷者 - 隅田川を埋める焼死者の屍体、横浜・鎌倉の大惨害・・・。

〔略〕3日目も4日目も夜警の若い男が入れかわりたちかわり、私の家へやって来て、お宅では鮮人をかくまっているんじゃあないかと、うるさく問い訊しにやって来た。2、3日前から泊っていた清家君の顔が、いくらか鮮人に似ているので、そんな風に疑われたのであろう。

〔略〕人の往還のめぼしい箇所を通ると、夜警団の一群が屯ろしていて、人の生年月などや何かをうるさく問いただすのである。返事や言葉の怪しい者は鮮人と速断して拘留するつもりでやっていたらしい。

〔略〕小石川は大塚の方にいる親類の家を見舞おうとして、石切橋を渡って行くと、その近くの交番所に×人が2人、3、4人の自警団の男に抑えつけられ、連れて来られる所を見た。その2人は交番の中へ入れられだが、町の若者どもは手に手に棍棒をもっていて、それで交番の扉や窓を破ろうとする。窓の硝子が破れると、そこから棍棒を滅多矢鱈に突込むので、中からヒイヒイと声を立てて泣く声が聞えてくる。そういう暴行を制止しながら出てくる2人の巡査に抱えられて、ヨロヨロ出て来た2人の×人は息もたえだえの容子、みれば1人は鼻孔から血をタラタラと流し、もう1人は後頭部を割られていたようだ。(当時の手記から)

(吹田順助『旅人の夜の歌 - 自伝』講談社、1959年)


柳田泉

9月3日か4日の午のことと覚えているが、わたしどもの若松町の自警団に伝令が来て、早稲田警察署の命令というのを伝えた。

それによると、朝鮮人が2万人以上、三軒茶屋方面から市内に押し寄せつつあり、いつ市街戦となるかも知れないから、応援の用意をせよというのであった。それで、その夜も翌夜も不寝番をたて、警戒したが、別に何のこともなかった。(あとで聞くと、多摩川べりで砂利を掘る仕事をしていた朝鮮人の人々が何百人といたよしであるが、これは逆にこっちからひどい目にあったので、押し寄せるどころのはなしではなかったという)。

それから、今少したった或夜のこと、牛込の月桂寺のうちに数名の鮮人がひそんで放火をたくらんでいる。直ちに原町の自警団に応援して、これを捕えよという命令が同じく警察署から出たものである。これも、

問題の人間をやっととらえてみたら、朝鮮人ではない。日本人、月桂寺で越後の田舎からつれて来た日本の大工で、これが外に出られず、毎日普請小屋にかくれていたが、夜はそこいら中散歩して、煙草をすう、それを見まちがえて、騒いだものであった。

だが、それはまだ喜劇じみた出来事であるからまだしもとして、悲劇もなくはなかった。牛込の弁天町か矢来町の出来事であったと思う。夜1人の鮮人が町内をうろついて井戸に毒を投じつつあるという報告が来た。

そこで、それっと、一同捜索に出かけ、2、3の他町会からの応援もあって、追いかけているとなるほど怪しい人間が1人、町内の暗やみをあっちこっちと逃げ歩いて、なかなかつかまらぬ。そこで迫手はじれったさのあまり、ついに追いつめて、槍で突き殺してしまった。一同、その夜は、朝鮮人をうちとったというので、大きな手柄でもたてたつもりか何かでいたが、夜があけてみると、これは日本人、しかも自警団長である靴屋の某の使っていた小僧さんで、大人をからかうのが面白いあまり、度々そういういたずらをして朝鮮人のまねをして、ついこういう悲しい運命に出会ったのであったという。

事実はそういうことで、わたしどもの方では、そういう虐殺の手柄(?)は一つもなかったのであるが、そういう朝鮮の人々に緑の少ないそこらの土地でさえ、来たら殺してかまわぬという気分はあったのであるから、殺気満々の下町や隅田川の向いの土地や、郊外砂村などの方でどのような事が行なわれたかは、想像に余りがあると思う。

(「大震災追想記」金秉稷『関東震災白色テロルの真相』朝鮮民主文化団体総連盟、1947年→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)


〈1100の証言;新宿区/新宿付近〉

『山形民報』(1923年9月4日)

「軍隊と衝突 不逞鮮人2名射撃」

「3日午前新宿方面に現れた約150名の労働者並に不逞鮮人の一団は軍隊と衝突して烈しい競合を演じだが、この元兇約20名は間もなく軍隊の手に逮捕され、鮮人2名は射殺された。」


つづく


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