〈100年前の世界097〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;墨田区〉 「その半殺しの人を川べりにむりやりひきずってくるんです。その人たちは抵抗するんですけれど、もう抵抗するカもなくて、薪でおこした火の上に4人か5人の男の人が、朝鮮人の手と足が大の字になるように、動かないようにもって下から燃やしているんですよ。火あぶりですよね。・・・そして殺した朝鮮の人が次々に川に放りこまれているのです。」 より続く
大正12(1923)年
9月3日
〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉
岩元節子〔当時女学校2年。本所表町栄寿院で被災。2日法泉寺で休み、3日栃木をめざす〕
〔3日〕白鬚橋を渡り終ろうとする頃、ピーピーと言う苦しげな声を囲んで、喚いている竹槍を持った男達の一団を見た。それを遠巻きにして見ている人達の後ろを通りながら、様子を聞くと、井戸に毒を入れたり、放火したりした朝鮮人を殺しているのだそうだ。(しかし、毒を入れたり放火したということは、後からデマだったということがわかった)
竹槍で殺すなんて野蛮な、と思っても私達には何ともすることが出来なかった。通り過ぎてからバンザイと叫ぶ声に振り向いて見ると、生きているか、死んでいるか分からない朝鮮人を隅田川に放り込む所だった。
合言葉に上手に返事の出来なかった人は皆竹槍で殺された、という狂気の非常時、見物人もいた。見過して行った私達もいた。申訳ないと今でも思っています。
(『東京に生きる 第七回 - 語りつぐふるさと東京「手記・聞き書き」入選作品集』東京都社会福祉総合センター、1990年)
斎藤静弘
〔三日、亀戸(現・江東区)をめざし〕日本橋小網商店の焼跡で人々が、焼け崩れた缶詰の山から完全なものを探しているのを見て、ニッ三ツ拾い焼釘で、時間をかけて缶を切り中身を頂いた。二個ばかり手にして両国橋へ来ると、朝鮮人騒ぎで警戒中の一団の若者に、銃剣を突きつけられ、
「どこから来た、どこへ行くか、姓名は?」と、詰問された。それは持っていた缶詰を、爆発物の携帯のように誤解された結果であった。
[略]両国橋を渡り切った頃、缶詰のご馳走に喉が渇いて無性に水が欲しい処へ、前方から氷を持って来た人に、製氷会社の焼跡に未だ沢山の氷があるのを聞いた。それを頂いて出て来た所で、二人の朝鮮人が後手に縛られ、巡査に連行される後方から、朝鮮人騒ぎに興奮している弥次馬が、鉄棒で後頭部を滅多打ちにし、遂にその場に倒れたのを目撃した。ついていた巡査も手の施しようがない始末であった。
〔略〕田舎行きの道中も心配なので、一刻も早くと、〔亀戸の〕皆様の励ましの言葉を背にお別れして、日暮里駅まで歩く途中、請地を過ぎて白鬚橋へかかると、橋向うから大勢の人がワアワア叫びながら走って来た。
近寄って見ると、1人の男が顔を両手で庇いながら、両足を2人に持たれて、勢いよく引きずられて来た。朝鮮人らしい男だが、頭を地面から浮かすようにする苦痛さは、見るも哀れな姿だ。
橋の中程まで来ると多数の手で持ち上げ、1、2、3で手すりを越して大川へ投げ込まれた。一旦沈んでブクブクと水面に浮くと、岸に向って泳ぎ出した。すると橋の上で見ていた一団が、男の泳ぎつく方向へ走り出し、岸へ一心に泳ぎつくその男の頭を、長い鳶口で滅多打ちにしたので、そのまま沈んでしまった。どのようないきさつか知らんが、朝鮮人騒ぎの結果だろうと想像する。
[当時二五歳、南小田原町(現・中央区)に住み、京橋で被災]
(斎藤静払『真実を求めて - 喜寿を迎えて』私家版、1976年)
白鬚神社で見たもの 坂巻ふち
朝鮮人の人たちが殺されたのは無残でしたね。あの白鬚橋のところでね、3日目のお昼3時ごろですかね、〔略〕白鬚神社の裏側はすぐ隅田川になっていて、そこはヘリが危ないからと木のわくが打ってあったんですがそれがほとんど燃えたり折れたりして何本も立っていなかった。そこへ長いトタンが重なっていたので何だろう、こんなにトタンをぶち投げてあるけれどと思って見ると、ひもを身体にゆわえて朝鮮人が川にはいって死んでいるのです。それがまるで粗糖を放したようなんですよ。空き間も隙き間もないんです。
そこへ行くまでにも10人くらいの朝鮮人がみんな針金で足をゆわかれて、3人くらいずつ一緒に、多い人は10人くらい一緒に足を少し離してつなげてね、だから皆つながっているのです。
そして生きているのを放りこんだから水を飲んだでしょ、だから腹がふくれて皆何も身体についていない、素っ裸なのです。あお向けになっているのもいるし、うっ伏しているのもいる。それが幾組だか知れないほどです。それを私のこの目で確かめました。何と気の毒だと思って涙をこぼしながら歩きました。
〔略〕とにかくずいぶん、気の毒でしたよ。お腹の大きい赤ちゃんが生まれるような人が自分の腹を結わえられて水に投げられ、赤ちゃんが生まれちゃって、赤ちゃんがへその緒でもってつながっているんです。そしてお母さんがあお向けに浮いている、赤ちゃんがフワフワ浮いているんです。
それが至るところですからね。白鬚橋ばかりじゃあないんです。人形町の向こうもずいぶんひどい様子でしたよ。ずいぶん無残でしたね。
[当時二三緩、江戸川音羽九丁目で被災]
(「白鬚神社でみたもの」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
長谷川勇三郎〔徳川家家扶〕
「小梅邸の焼跡から 鮮人跳梁の地を過ぐ」
〔隅田川で生き延びて〕2日午後2時頃から鮮人が跳梁をし始め〔略〕女子供達が泣き叫ぶのでこれを制し、自分は古川君(歩兵少尉)と共に戦闘準備をしてピストルに弾丸をこめて用意している内に、午後8時頃青年団等が鬨の声を揚げて応戦し小梅にまで来ない内に叩き殺されたり撃ち殺された。
更に3日午後3時頃白鬚で200人ばかりの鮮人隊と警備に出動した習志野騎兵第一四連隊の一隊が戦闘し機関銃を以て撃ち払い〔略〕この一帯寺島から四木橋付近の路傍には避難民の死体はなく、いずれも頭を割られたり撃たれたりした鮮人の死体が横たわっていた。〔略〕ある者は鮮人隊を指揮する日本人を見たと言い、又鮮人がサイダーの空瓶に毒水を入れて渇する避難民に飲ませて回っていたのを目撃したという。
小梅邸でも一鮮人が〔略〕発見されて追い詰められ、邸内の池に飛込み首だけ出していたので、四方から投石したため鮮人は両手を合わせて拝むので、手招きして呼び寄せ石で叩いて白状を迫ったが、一言も言わぬので股の辺りを日本刀で斬られた。そこへ福原家令が来て邸内を汚されては困ると追立てられたので引出され殺されたそうだ。
(『いはらき新聞』1923年9月5日。前日号外再録)
〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉
H
曳舟川のところにミツワ石鹸工場があり、入口に松の木が植わっていて、朝鮮人が4人殺されていた。これは9月3日か4日、巡って見つけたが、その後木根川で焼いたという話である。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)
荒川土手での白昼の惨劇 島川精
二日目に四ツ木橋を越え、本田村(今の幕飾区)の庭先をかりてみんなで野宿したわけです。ちょうど二日目の晩に「津波ダア!」という声がしたのでみんな線路に上がって枕木に帯で体をつないだりしましたが、津波なんかいっこうにこないので帯をほどきました。ところが八~九時頃、「朝鮮人が攻めてきたぁ」という声が流されて、みんな殺気だっちゃった。「竹をたせ!」「槍を出せ!」、棒きれもっている奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時自警団をつくり、周囲をかためた。その頃は芋が盛りで芋の葉っぱが人の顔にみえたりしてそれをつついたりしました。そしたら土手の方からパンパンバンと鉄砲をうつような音がきこえできました。
あくる朝、放水路のところを歩いていったら、 - 当時荒川放水路は工事中で朝鮮人は安い労働力として使われてた、日本人の貸金にくらべれば二分の一位でした。 - そこに行ってみると無惨な屍臭がして、土手に、五人、六人と死んでいました。傷跡は明らかに刀で切られたり、竹でつかれたりした死骸でした。からだに日本刀で斬られた断面がありました。人相が朝鮮人でした。
[略]この荒川土手のところでは一軒の農家があったのですが、昼過ぎ七~八人の朝鮮人が農家のまわりに逃げてきて自警団やそこいらにいた人につかまり、有無をいわず袋だたきにあい、五分間もたたないうちにめった打ちにして殺されてしまったのをみました。当時あそこは工事をしていたので玉石はいっぱいあって、土手の上からみんな玉石を投げて加勢して殺したんですよ。
それからおやじと二人で焼け跡に戻ろうとしたのですが、その途中に寺島警察署があります。今もあるんだろうが、その広場にムシロをかぶせられた朝鮮人の死体が一五~六あった。何ともいえないいやな気持ちだった。顔のみえるのも、みえないのもありました。当時警察といえば絶対的だったんですが、そういう警察がやるんだから……。
(日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
芳谷武雄〔当時内務省警保局勤務〕
〔3日午後、災害地視察で訪れた〕寺島警察署では、例の流言蜚語に禍いされた朝鮮人を保護するため、裏の道場に300〜400名を収容していたが、この連中は、ある種の誤解と、空腹とのために、脱走せんとしてワイワイ騒いでいた。署の周囲には逆上しきった大衆が、これも朝鮮人に関する誤解から手に手に棍棒刀剣などの得物を持って警察署を襲い、一挙に踏み潰さんとする形勢。そのもの凄いこと、署員はこの両者の間にあって必死に鎮撫に努めている。
(芳谷武雄『警察の表裏観』驚察思潮社、1935年)
司法省「鮮人を殺傷したを事犯」
3日午後10時、寺島町大字寺島679付近で、松戸宇之助が朝鮮人2名を日本刀で殺害した。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前1時頃向島曳舟道にて窃盗の疑いありと称し鮮人1名を殺害した犯人寺島町玉ノ井696銘酒屋中島五郎(25)に令状執行収監。
『国民新聞』(1923年同月2I日)
9月3日正午頃府下向島玉ノ湯横にてヒ首を以て鮮人2名を放火の疑いありとて殺害した同町玉ノ井685飲食店森川勇(33)同730銘酒屋山本浅雄(24)に令状執行収監す。
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前11時府下寺島村玉ノ井朝鮮婦人の崔秉煕(20)に日本刀で重傷を負わし外鮮人1名を殺害した同玉ノ井82大工職川島和三郎(43)に令状執行収監。
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前9時府下寺島町玉ノ井689先にて鮮人1名放火の疑いありとて殺害した犯人南葛飾郡隅田町字善右衛門新田製缶職工清水清十郎(39)同寺島町玉ノ井66鳶職草野金次(31)同町702無職濱勇太郎(24)に令状執行収監。
つづく
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