2023年10月7日土曜日

〈100年前の世界086〉大正12(1923)年9月3日 〈軍隊配備、戒厳令、自警団の状況概観(3日~4日)〉  〈警察当局、朝鮮人来襲を疑い始め、自警団取締りへ軌道を修正〉  〈海軍省船橋送信所の発した電文〉 朴烈(25)、東京世田谷署に保護検束。翌日、金子文子(20)も        

 


〈100年前の世界085〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㊲ 【横浜証言集】4 鶴見地域(橘樹郡)の朝鮮人虐殺証言 300人の朝鮮人を保護した大川署長 「大川署長起って説明して曰く 本員は其鮮人の反乱事件は何かの理由に依り発生した全く根もなき流言蜚語と断足します・・・デマに疑いなしと堅く信じております・・・斯る反乱等事実無根なりと断定すると同時に彼等迚同じ国民故之を保護するのは私の絶対的の責任であります」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈軍隊配備、戒厳令、自警団の状況概観(3日~4日)〉

2~3日、陸軍は東京地区への配備を完了。

3~4日、孤立していた横浜地区にも海陸両路から警備隊が到着。3日、宇都宮の第14師団が来援、地方師団からの派遣部隊も続々到着。

3日、戒厳令の施行区域が東京府と神奈川県に拡大され、関東戒厳司令部が新設、福田雅太郎が関東戒厳司令官に任命され、阿部信行参謀本部総務部長ら中央部の軍人が幕僚となる。

4日、埼玉・千葉両県も戒厳地区に含められる。

10日迄に出動した総兵力は、歩兵57大隊・騎兵22中隊・砲兵34中隊・工兵47中隊・鉄道14中隊・電信13中隊、内地全師団の衛生機関など、兵員約5万に達す。

朝鮮人暴動の流言が広がると、各地で青年団・在郷軍人会・消防組などを中心に自警団が作られ、刀、竹槍、棍棒、鳶月、鎌などで武装し、要所要所に検問所をつくって通行人を訊問。顔つきが朝鮮人らしいとか、言葉が不明瞭だとか怪しいとなると、半死半生の目にあわせたり、殺害したりする。

演劇ずきの学生伊藤国夫は、2日晩、千駄ヶ谷の自宅付近を警戒中、朝鮮人と間違えられこづかれるが、顔見知りの酒屋の若い衆が来合わせて危うく助かる。

戒厳令で出動した軍隊も、江東方面では朝鮮人を「敵」として殺害。

中学生清水幾太郎は本所で焼け出され、千葉県市川国府台の兵舎に避難中、夜、大勢の兵隊が銃剣の血を洗い、得意気に朝鮮人を殺してきたというのに驚いたと回想。

〈警察当局、朝鮮人来襲を疑い始め、自警団取締りへ軌道を修正〉

いったんは流言にお墨付きを与えた警視庁も、2日夜、あるいは翌3日には朝鮮人暴動の実在を疑い始める。いくら調べても流言を裏づけるものが何も出てこないのである。

警視庁は軌道修正を始めた。

3日、警察当局は、朝鮮人来襲はデマで、個々の暴行も概ね疑わしいと判明。そのうえ自警団の行動が過激に走り交通の自由が失われ、各地に混乱が起り、警官・軍人に対する暴行事件が起り、自警団取締まりの必要が生じる。

警視庁では、「昨日来一部不逞鮮人の妄動ありたるも今や厳重なる警戒に依ってその跡を絶」ったとし、「鮮人の大部分は順良な者であるからみだりに迫害するな」と命令し、自警団の武器携帯を禁止。しかしこの布告は、朝鮮人一部の妄動を認めた不徹底なものであり、民衆の動揺を鎮めることはできず、その後も、朝鮮人に対する迫害は続く。政府がこうした不徹底さは、民衆の憎悪を朝鮮人に向けたままで、秩序を建て直そうとしたためである。

・内務省、朝鮮人暴動が事実無根の風説と気付き始め、新聞各社に警告書を出す。

「朝鮮人ノ妄動ニ関スル風説ハ虚伝ニ亙ル事極メテ多ク、非常ノ災害ニ依リ人心昂奮ノ際、如斯虚説ノ伝播ハ徒ニ社会不安ヲ増大スルモノナルヲ以テ、朝鮮人ニ関スル記事ハ特ニ慎重ニ御考慮ノ上、一切掲載セザル様御配慮相願度、尚今後如上ノ記事アルニ於テハ発売頒布ヲ禁止セラルル趣ニ候粂御注意相成度」

〈海軍省船橋送信所の発した電文〉

3日4時30分、海軍省船橋送信所大森所長は、前日の後藤警保局長の電報や近くの船橋、中山、八幡など各村で乱打される警鐘が聞こえ、爆弾を手にした朝鮮人を格闘の末逮捕したなどの情報が乱れ飛び、送信所への朝鮮人襲撃は必至と判断し、恐怖のあまり「船橋送信所襲撃ノオソレアリ至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未夕来ラズ」という悲痛な電報を発信。

午後7時30分、習志野騎兵学校から特務曹長の指揮で騎兵1個小隊20名が到着、小隊長は、本日午前朝鮮人20名が騎兵学校の薬庫に襲来したが、歩哨が急を告げ無事であった、朝鮮人が所沢航空隊附近の村を焼打ちした、と報告。船橋送信所は一層不安を感じて、翌4日午前8時10分、「本所(送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、右ノ兵員ニテハ到底防禦不可能ニ付約百五十ノ歩兵急派方取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ」という危急電を発信。船橋送信所が独断で発したこれらの電文は、全国各地の無線電信所で受信され、東京とその附近一帯が朝鮮人暴徒によって大混乱をしていると判断された。

・朴烈(25)、東京世田谷署に保護検束。翌日、金子文子(20)も。

10月治安警察法容疑で、13年2月爆発物取締罰則違反で、起訴。大正14年7月大逆罪で起訴。15年3月25日死刑宣告。4月5日、無期に減刑。7月23日金子文子自殺。29日怪写真事件問題化。

朝鮮人殺害と併行して多数の朝鮮人が警察・軍隊に「保護」される。その数は10月末迄に全国30府県で2万3715名。実際は暴動防止の検束で、危険と判断されれば殺害される可能性のあるもの。しかも9月中旬、日本人の朝鮮人に対する悪感情をなくすという理由で、収容朝鮮人を焼け跡の道路整備に従事させる。

朴烈:

明治35年2月3日没落両班の家柄に誕生。京城高校師範科3年中退。日本に渡る。大杉栄・岩佐作太郎のもとに出入りし無政府主義に共鳴。大正10年暮、岩佐指導で在日朝鮮人20余が「黒濤会」結成。12月解散(朴烈の無政府主義派と金若水の共産主義派の対立)。後、無政府主義者だけで「風雷会(「黒友会」と改称)結成。大正11年春金子文子らと「不逞社」結成、機関紙「太い鮮人」「現社会」発刊。

朴烈怪写真事件:

「不逞社」同人金重漢の恋人新山初代が取調べ中、黒友会での朴烈と金重漢のいさかい(朴が爆弾調達を依頼した後、それを断る)について供述。朴烈、金重漢、金子文子は爆発物取締違反で追予審請求となる。予審過程で、東京地裁予審判事立松懐清が大逆罪に持ちこむため、被告を懐柔する目的で朴と金子を会わせ、写真をとる。この写真が外部(右翼筋)に流れる。


〈戒厳令を東京府、神奈川県全域に適用〉

戒厳司令部は報道に対する戒厳令処置として、「警視総監及関係地方長官並警察官ハ、時勢ニ妨害アリト認ムル新聞、雑誌、広告ヲ停止スルコト」との発禁命令も出す。

・練習艦隊(司令官斉藤七五郎中将)磐手(米内光政大佐)・浅間・八雲、遠洋航海中止し震災救援に向かう。佐世保発。6日、横須賀着。20日迄に11,500の罹災者輸送。

・国鉄、避難地迄の無賃乗車許可。


「鮮人いたる所めったきりを働く 200名抜刀して集合 警官隊と衝突す」

政府当局でも急に2日午後6時を以て戒厳令をくだし、同時に200名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視庁に達し〔略〕。

(『東京日日新聞』1923年9月3日)


「九月三日。微雨。白晝處々に放火するものありとて人心恟々たり。各戸人を出し交代して警備をなす。梨尾君来りて安否を問はる。」

(永井荷風『断腸亭日乗』大正12年9月3日)


つづく


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