2025年12月5日金曜日

大杉栄とその時代年表(699) 1907(明治40)年1月1日 泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載) 「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)

 

お蔦と別れた主税を見送る柏屋の芸妓たちの図

大杉栄とその時代年表(698) 1906(明治39)年12月27日~31日 石川啄木(20)長女京子誕生 「・・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日の日記) より続く

1907(明治40)年

1月

金子堅太郎・伊沢修二ら、日本・清国・韓国3国で最も使用される漢字の辞典をつくるため漢字統一会を組織。

1月

大山巌、公爵となる。

1月

「明星」1月号、「寺院特集」とする。知識人の間で宗教流行。啄木・白秋ら若い弟子の間に「寛老いたり」の印象高める。

1月

啄木(21)、「公孫樹」等(函館の同人雑誌『紅苜蓿』(苜蓿社))。

2月、詩「鹿角の國を憶ふ歌」(『紅苜蓿』)。 

1月

「演藝画報」(「演劇界」の前身)創刊。

1月

竹久夢二(23)、岸たまき(26)と結婚。明治42年5月協議離婚。明治43年1月偶然出会い再び同棲。

1月

東京で満鉄沿線守備のための独立守備隊第1大隊が編成、中国東北に出動、以後第6大隊まで6個大隊が編成され中国東北に派遣、主要付属地に配置される。

各大隊本部が置かれたのは、公主嶺、開原、奉天、連山関、大石橋、瓦房店の6ヶ所で、中隊毎に中間の停車場を中心に分散配置態勢をとる。独立守備隊は、関東都督府陸軍部に隷属し、1908年3月30日には独立守備隊司令部が公王嶺におかれ6個大隊を統括。この独立守備隊は、1919(大正8)年4月12日関東都督府陸軍部が関東軍司令部に改組されると、その隷属下に入る。

このような兵力を背景に、満鉄は各付属地経営を積極的に展開。市街地造成、衛生施設整備、小学校・実業補習学校などの増設、商務会結成など生活必要施設を整え、公費の徴収によって付属地の財政維持をはかり、地方部の管轄のもとに広範な行政権を行使。付属地は、この他に領事が裁判権を持つことにより、領事・満鉄・関東都督の「三頭体制」のもとに運営される。

1月

メキシコ、ベラクルス州オリサバのリオブランコ紡績工場、賃上げ、労働時間短縮(14時間から12時間へ)、売店廃止を要求しスト。軍の弾圧により200名以上虐殺。プエブラでも紡績工場スト続発。

1月

グスタフ・マーラー、リンツで『交響曲ニ長調』演奏

1月

米移民問題に関し日米交渉開始。

1月上旬

大杉栄(22)、エスペラント語学校の第二期を神田錦町の国民英学会で開校する。

1月1日

福田英子『世界婦人』創刊。半月刊。石川三四郎の助力。婦人問題とともに谷中村問題も取上げる。

主な執筆者:安部磯雄・石川三四郎・小野吉勝(有香)・遠藤友四郎・神川松子・堺利彦・幸徳秋水・長加部寅吉・高畠素之・深尾韶・赤羽一(巌穴)・白柳秀湖・内山愚道・大石誠之助・久津見蕨村・西川文子など。二葉亭四迷・小山内薫(1度)も。

「新紀元」に袂は分れたキリスト教社会主義者が唯物論社会主義者に再提携し、英子が内村攻撃の急先鋒の幸徳らと接近、また、英子と石川との内縁関係など、内村を刺激。

この頃、英子を巡る婦人たち:堺為子・幸徳千代子・菅野須賀子・菅谷いわ子・西川文子・熊谷千代三夫人・上司小剣夫人・竹内余所次郎夫人ら。

1月1日

(漱石)

「一月一日(火)、元日。野間真綱・野村伝四・高浜虚子・寺田寅彦に手紙を出し、三日(木)夕刻に夕食を食べに来るように伝ぇる。当日の料理は松根東洋城である。『ホノホ』(『中学雑誌』改題)第三巻第一号一月一日発行に、「夏目漱石氏の書斎」(口絵)・松原生「夏目漱石氏の書斎』掲載される。『読売新聞』の「社告」に、特別寄書家として迎えることを発表するo(四回め)同時に「作物の批評」掲載される。

一月三日(木)、木曜会。松根東洋城来て、馳走する。門下生多く集り、夕食共にする。高浜虚子、旅行中で来ない。(推定)「午前は夏目さんの野分を見る、野分は二つの見方を一時にするを要す、部分々々の論旨大に味深かく此の議論が集まって又一つの小諸とも議論ともなって居るのだ。」(「志賀直哉日記」)」(荒正人、前掲書)


1月1日

漱石作品集『鶉籠』(坊っちゃん・草枕・二百十日を収録)〔春陽堂刊。菊判。橋口五葉装幀。「序」2ページ、502ページ、90銭。実際に発売されたのは前年十12月末〕(初版1千部1割5分、500部毎に印税率は高くなり、2割5分で据え置きである。)

1月1日

『ホトトギス』第10巻第4号

漱石『野分』 、鈴木三重吉『山彦』 掲載

1月1日

漱石「作物の批評」〔『読売新聞』〕、「滑稽文學(談話筆記)」〔『滑稽文学』1巻1号〕、「将来の文章(談話筆記)」〔『学生タイムス』第2巻第1号(新年附録)〕

1月1日

啄木長女京子の出生をこの日をもって届出

1月1日

泉鏡花「婦系図」(「やまと新聞」1月~4月連載)

泉鏡花「婦系図」(青空文庫)

「古風でとんちんかんな社会正義感で解決をつけた鏡花流の花柳小説。新しいリアリズム文学の興りつつある明治40年初頭の文壇では全く黙殺される。鏡花は、胃腸病も神経衰弱もよくならず、逗子でのひっそりした生活を続けた。時代は彼をそこへ届き去りにして過ぎて行くようであった。」(日本文壇史)


しかし、翌1908年(明治41年)には、伊井蓉峰、喜多村緑郎による舞台化初演以来、新派の代表作のひとつになり、更に映画化は10作以上されている。


〈経緯〉

「やまと新聞」は三面記事に主力を注いだ通俗新聞で、明治34年頃、福地桜痴の下で永井荷風が記者をしていたときは一時「日出国(やまと)新聞」と題号を変えたことがあったが、また「やまと」に戻った。社主は松下軍治。

鏡花にとっては、伊藤すゞとの結婚を紅葉にはゞまれたことが、青春期の最も大きなショックであった。紅葉在世中の明治32年に、そのモチーフを「湯島詣」に一部分生かして書いたが、それは彼の意を満たすものでなかった。紅葉の亡くなった今、後はそれを十分に書き込もうという考えを持っていた。貧しい書生を救ってくれた師匠は、そのまま厳しい態度で弟子に臨み、弟子が芸者と結婚するのをさまたげる、というのがその主な筋であった。だが、その弟子が師に対しては弱いが、社会悪に対しては伝法に強く出るという鏡花好みの特色を出すきっかけが見つからなかった。

「やまと新聞」に小説を書く話を持って来たのはドイツ文学者の登張竹風であった。竹風登張信一郎は鏡花が逗子へ越した少し後の、明治39年10月、筆禍事件のために、東京高等師範学校教授という地位を失った。彼は早くからのニーチェの研究家で、明治34年頃、高山樗牛がニーチェ主義を文壇に持ち出したときも登張の研究が道案内をしたようなものであった。そして坪内逍遥が教育者の立場から樗牛のニーチェズムを、馬骨人なる筆名で攻撃したとき、側面から樗牛を援助して逍遥を反撃し、「馬骨人言を難ず」「馬骨人言先生に答ふ」を書いたのは竹風であった。竹風は酒を愛する文人気質の男で、樗牛、嘲風(ちょうふう)、桂月等の仲間のうちでは、早くから洒脱なジャーナリストとして世に立った桂月に近い人物であった。竹風のニーチェ研究は、樗牛が日蓮主義に転じて死んでから後も続けられた。彼がニーチェの思想を忠実に説くほど、その論旨は日本の教育の総本山のような東京高等師範学校の教授としては、似つかおしくないものになった。その上竹風は泉鏡花、後藤宙外とも親しかったので、時々小説を蕾いて発表した。そういう著述活動が重なった結果、この年8月に書いた筆舌録などが当局者の忌むところとなり、彼は東京高等師範学校校長の嘉納治五郎に呼ばれて免職を言い渡されたのである。彼がこの学校から得ていた俸給は文部省直轄学校令の4等7号俸で、年千円であった。

登張竺郎はこのとき数え年34歳で、泉鏡花と同年であった。彼の生れたのは広島県能美島で、ここで山田十竹という漢学の師につき、竹風という号をもらった。登張は広島中学から山口高等中学校を経て、明治30年東大の独文科を卒業し、また母校の教授として山口へ戻った。この学校に二年間在任したあと、明治32年に彼は東京高等師範学校教授に転じ、このとき免職になるまで7年間その任にあった。

登張竹風が筆禍事件で高等師範を遂たれたという噂は、忽ち文壇と学界に行きわたった。友人の大町桂月は、すぐ登張に手紙を書いて、自分はいま毎月「太陽」と「中学世界」に時文評論を書いているが、そのうちどちらでも君の気に入る方を譲るから知らせてほしいと言ってやり、感激家の登張をいたく感動させた。登張はそれを受けなかったが、緬それまで住んでいた小石川白山御殿町110番地の家を引きはらって、郊外の大森の入新井村に移った。年の暮れがせまるに従って、どうして暮らそうかと思っていたとき、援助の手が、「やまと新聞」から来た。「やまと新聞」は社長が松下軍治であったが、主筆の笹川潔は、臨風笹川種邸の弟であった。笹川臨風は東大で登張と同級であった。その縁で登張竹風は「やまと新聞」に入り、文芸批評を担当する外に、その新聞にドイツ文の時評を書いていたクンシェという外人の仕事をも助けることとなった。

「やまと新聞」は花柳界や劇壇の消息などを売りものにしていたので、新年からそれにふさおしいような連載小説を載せたい意向があった。主筆の笹川潔から、誰がいいかという相談を受けたとき、竹風は即座に泉鏡花の名を挙げた。笹川の考も同じであった。彼の兄臨風はこのとき宇都宮中学校の校長をしていたが、大学にいた当時から鏡花とは特に親しく、鏡花は臨風と出歩くときは、自分の好きな「東海道中膝栗毛」に模して臨風を弥次さんと呼び、自分を喜多さんと呼ばせるほどであった。

それは明治39年12月のことで、竹風はその25日、逗子の鏡花の家を訪ねた。連載小説執筆の件を持ち出すと、鏡花は当惑の色を浮かべて、「元旦からの掲載となると、あと一週間もない。それではちょっと難かしい。何か面白い種はないか」と言った。竹風が咄嗟に思いついたのは、彼の親友岩政憲三と少年掏摸の話であった。

岩政塞二は山口県柳井の出で、山口孤島中学校では竹風と同級であった。大学では竹風は文科へ、岩政は政治科へ入ったが、三年間同じ寄宿舎で生活した。竹風とは水魚の交わりと言われた。岩政は卒業後に大蔵省へ入ったが、豊かな性格の人間で、将来を嘱望されていた。酒が好きで、部下を連れて飲んで歩くことが多かっだ。明治38年春のある日、竹風が午後四時頃に高等師範学校から帰宅すると、台北税関長をしていた岩政が大蔵省の後輩を三人連れて来ていた。いつも彼がやって来るときと同様、主人が留守でも岩政は竹風の細君に酒を出させて賑やかに飲んでいた。ただいつもと違うことは、その末席に12,3歳の少年が傭向きがちに坐って、その前にも膳が据えられてあることであった。

その少年のことを竹風がたずねると、岩政は「あれは掏摸だ」と言った。彼の説明を聞くと、前夜彼は部下を連れて吉原へ行った。朝になって酔ざましに浅草に出て釣堀で鯉を釣っていると、その少年掏摸が彼のポケットを狙った。岩政は、少年の手を掴んでおきながら、ちょうどかかった鯉を釣り上げ、そこから白山御殿町の竹風の家まで連れて来た。そのまま帰してやるのも不憫だったので、竹風夫人にたのんで、飯を食べさせてやったのだった。"

やがて岩政は懐から十円札を一枚取り出してその少年に与え、「これはお使い賃だ。商売もおれに捕まるような不手際では駄目だ。もっと上手にやれよ」と笑って言いながら少年を帰してやった。

その話を登張竹風がすると、鏡花はしばらく冥想にふけっていたが、やがて膝を打って、「面白い、やっつけましょう」と言った。そして鏡花は、もう四五日しか余裕のない元旦から「やまと新聞」に載せる小説の執筆に取りかかった。


つづく


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