1908(明治41)年
1月17日
金曜会屋上演説会事件。
堺利彦・山川均らの第20回金曜講演会例会、本所弓町平民書房で開催。解散命令、堺利彦・大杉栄・坂本清馬・山川均・竹内善作・森岡栄治ら6人検束。
守田有秋は、「大杉君は(本郷)警察署に突進し、数名の巡査に捕へられつつ石階上に立ち、『諸君、政府は斯くの如く社会主義者を迫害し!』と怒号せし」(金曜講演会迫害記)と記す。
中国人留学生張継(中国革命同盟会「民報」主筆)、拘引されかかるが奪還され行方不明、まもなくフランスに現れる。
18日、6人1組の拘留室に入れられ、大杉の発案で「電信」という遊びをやる。
19日、6人とも警視庁に送られる。
20日、6人とも治安警察法違反で起訴され、警視庁から東京監獄に送られる。
2月10日、東京地裁判決。堺・山川・大杉が軽禁固1ヶ月15日(再犯加重)、竹内・森岡・坂本に同1ヶ月。
堺は二度目の入獄となったこの屋上演説事件について、『大阪平民新聞』から改題した『日本平民新聞』に、「僕等は只だ寧ろ軽率に一時の小憤を漏したるに過ぎぬ。実は窃に沈着なる同志の笑を恥ぢて居るのである」と書いている。そして、この事件で尽力し、奔走してくれた守田有秋に対して、感謝と同時に詫びていた。
1月17日
新夕張炭鉱でガス爆発、死者91人。
1月18日
金子筑水(馬治)ら、早稲田哲学会を設立。
1月18日
片山潜、東海遊説途上、亀崎町で演説会。亀崎鉄工所職工の友愛義団有志主催(宮下太吉はリーダの1人)。友愛義団100余・一般350余参加。片山潜「労働者の責任」、宮下太吉「予は何故に社会主義者となりしや」など。
翌日、半田町で「衣浦新聞」主催演説会。片山・宮下演説。この片山遊説の際、宮下太吉は日頃疑問の日本の天皇制とその変革について質問。
「片山さん、皇室を無くすことはできないのでしょうか」
「それは、議会で社会主義者が多数を取れば、憲法改正もできる。そのためには、何よりまず普通選挙の実現が第一だ」
宮下は、片山の合法主義的回答に不満。
2月1日、宮下は大阪の森近運平を訪問(2回目)、天皇制・忠君愛国思想の迷妄で共感。
1月19日
(漱石)
「一月十九日(日)、宮崎諶義宛薬薯に、手紙で申し越してきたことを承知したと伝え、宇和島名産の鯛の白浪の礼を書く。午後三時頃、留守中、寺田寅彦、印材一つと払子(ほつす)一つを土産品として持参する。五時頃、寺田寅彦再び釆たが、会えない。
一月二十日(月)、三女児病気になり、看護婦を雇う。」(荒正人、前掲書)
1月19日
啄木(23)、「釧路新聞社」入社のため小樽より単身釧路に向う。途中岩見沢に下車して、駅長官舎に山本千三郎姉夫妻を訪ね一泊する。
20日、岩見沢出発、途中旭川に下車して北海旭新聞社を訪問。駅前の宮越屋に投宿して白石社長と落ち合う。
1月19日
日本天文学会発足。4月、『天文月報』創刊。
1月20日
吉沢商店、目黒行人坂上に撮影所を建設。日本初の撮影所。
1月20日
(株)富国銀行開業。1907年11月21日設立、本店東京、資本金1千万円、頭取浜口吉右衛門、昭和銀行の前身の1つ。
1月20日
日本・カナダ間、日本人移民制限協定成立。
1月20日
大杉栄「非軍備主義運動」(『熊本評論』)
大杉栄「自由合意ー現社会の無政府的現象(二)欧州の鉄道」(クロポトキン)」(『日本平民新聞』)
1月21日
政府、増税諸法案(酒造税、砂糖消費税増徴、石油消費税新設)、議会(第24議会)提出。
1月21日
臨時商業会議所連合会、召集。~2月14日。増税反対・3悪税廃止を主張、「国防軍備の一面に資力の大部分を偏注して却て国本の培養国力の充実を計るの策を忽にする」財政方針を批判、5千万以上の歳計節減を要求。商業会議所は初めて財政の軍国主義を批判。全国的運動盛上げのため27日~2月7日まで休会とし、地方委員は帰郷。
商業会議所は増税・軍拡に賛成する財閥特権資本家の指導を離れて、一般商工業者を代表する立場に立つ。
第24議会では、島田三郎・大石正巳・大津淳一郎らが軍事費優先財政を批判。
1月21日
啄木(23)、旭川を出発。夜9時30分、釧路に到着、釧路新聞社理事の佐藤国司の家に入る。
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
22日、出社。月給25円。3両主任の約束であったが実際は編集長格。入社後まもなく1面に「釧路詞壇」を設け、詩歌の投稿を募集。自らも匿名で短歌を掲載。また政治評論「雲間寸観」を連載。その他婦人問題を論じた。
23日、釧路町洲崎町1丁目23番地の下宿屋閑サツ方の二階8畳間に居を定める。
小樽の妻節子、1月24、25日ごろ市内花園町畑14星川丑七方に移る。送金は不充分。
26日、愛国婦人会釧路幹部会で「現代の婦人に就て」講演。
釧路は、明治23年、特別輸出港の指定を受け、木材、硫黄、昆布等の輸出をするようになり、その後、明治32年8月4日、開港場として普通の貿易港に指定されると、木材積取の外国船が入港し、十勝原野の雑穀が積出された。また安田の春採炭鉱の竪抗が開かれ、富士製紙の工場が開設され、マッチの軸木工場が創業される等、町は活発な発展ぶりを示した。明治40年には、33年5月着工以来、建設工事中であった、釧路~函館間の鉄道が開通、難工事といわれた狩勝トンネルも竣工し、現在の浜釧路駅までの路線が開かれて、所謂「さいはての駅」となった。
啄木をこの土地に連れて来た小樽日報社長白石義郎は、当時48歳、もと福島県選出の代議士で、
かつては国事犯として河野広中等と共に獄につながれたこともあり、また『真理実行論』という自由主義の世界統一論を著したこともある人物。元北海道釧路支庁長で明治33年7月1日北海道に町村制が実施された際、初代釧路町長に就任、35年からほ釧路新聞社を経営、その後、釧路を地盤として道会議負に当選、明治37年町長を辞したが、北海道有数の政治家であった。
「釧路新聞」は、始め半紙2枚程のものを不定期に、或は日曜日毎に出していたが、町の発展や人口の増加につれて拡張した。啄木が着任した1週間ばかり前には赤煉瓦造りの新社屋4落成、新聞も四貢建の普通新聞になっていた。
白石社長は北海道における在野党の主領として道議会に重きをなしており、この年(明治41年)5月の衆議院総選挙には釧路十勝2国を地盤として出馬しょうとしていた。その選挙対策の一つとして「釧路新聞」の大拡張を計画し、新聞を6頁建編集にするため、啄木を特に赴任させた。
啄木は、出発当時の日記に「予は何となく小樽を去りたくない様な心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。」と認めていたが、釧路へ着いた翌日には、いかにも新開地らしい活気に満ちた町の様子や、澄み切った冬の空に、新しい瓦の色もくっきりと、正しい輪廓を描いて建つ新築の社屋に、憂鬱な心も次第にほぐれ、新生活に対する新たな期待と勇気とを抱かざるを得なかった。
2日後、彼は社の人々の世話で、新聞社に近い洲崎町1丁目22番地の関サツ方に移り、西洋窓のついた2階8畳敦の日本間に落着いた。下宿料は夜具料共月14円50銭で、釧路としては高い方であった。翌24日には社長の招宴で、啄木の歓迎会を兼ねた社務打合せが料亭喜望楼に開かれ、編集関係4名の他に理事の佐藤国司(南畝)が出席した。佐藤は当時33歳の少壮政客で千葉県人、かつては韓国の亡命者と結び、日韓の間を往来した志士型の人物で、よく光る眼と濃い口髭を持ち、政治演説を得意とした。啄木は彼を評して、日記に「一見して自分の好きな男だ」と書いている。
1月21日
ニューヨーク市、公共施設での女性喫煙違法とする市条例制定
1月21日
ポルトガル、共和主義者、軍事蜂起。28日 蜂起、失敗。戒厳令施行。
つづく

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