2026年2月25日水曜日

大杉栄とその時代年表(765) 1908(明治41)年1月4日~16日 「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。」(啄木日記)

 

1904年(明治37年)婚約時代の啄󠄁木と妻の節子

大杉栄とその時代年表(764) 1908(明治41)年1月1日~3日 「起きたのは七時頃であったらうか。門松も立てなければ注連飾もしない。薩張正月らしくないが、お雑煮だけは家内一緒に食べた。正月らしくないから、正月らしい顔をした者もない。廿三歳の正月を、北海道の小樽の、花園町畑十四番地の借家で、然も職を失うて、屠蘇一合買ふ余裕も無いと云ふ、頗る正月らしくない有様で迎へようとは、抑々如何な唐変木の編んだ運命記に書かれてあった事やら。」(啄木日記)

1908(明治41)年

1月4日

啄木、誘われて西川光次郎等の社会主義演説会に行き、西川と名のり合う。帰りに、「社会主義は自分の思想の一部分だ」と桜庭保に話している。

そして日記に、

要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一駒である。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、共を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると言ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人々の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。・・・・・

1月4日

ムーレイ・ハフィド、フェズでモロッコのスルタンを宣言。

1月6日

(漱石)

「一月六日(月)、『読売新聞』に、「現代文人文章評論(二)」として、石黒鉄牛「露伴と漱石」(一)掲載始る。(七日(火)・八日(水)・十日(金)・十六日(木)・二十一日(火)・二十二日(水)の七回)

一月七日(火)、小宮豊隆に来て貰い、『坑夫』の原稿を野田九甫に届ける。

一月九日(木)、小宮豊隆、『抗夫』の原稿を野田九甫に届ける。高浜虚子・森田草平・野上豊一郎・鈴木三重吉・森巻吉来る。夜、高浜虚子と謡曲を謡う。(『班女』らしい)小宮豊隆、台所で家族と歌留多する。

一月十日(金)、荒井某来る。

一月十一日(土)、荒井某、『坑夫』について間違いを指摘する。小宮豊隆殖手紙で、『坑夫』の原稿を野田九甫から戻して貰うように依頼する。小宮豊隆来て泊る。

一月十二日(日)、昼頃、小宮豊隆帰る。」(荒正人、前掲書)


1月9日

京都府教育会、低能児教育の調査委員会を設置。

1月9日

仏、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、誕生。

1月10日

午後7時、平民書房(本郷区弓町2丁目1番地、熊谷千代三郎方)に場所を移して開かれた金曜講演会で、大杉栄(23)、「欧州におけるエルヴェの非軍備主義」を40分間講演。参加者30根。他の登壇者に堺利彦。参加者には山路弥吉、佐藤覚、森岡永治ら。10時散会。

1月10日

伴淳三郎、誕生。

1月10日

ベルリン、普選要求暴動。

1月11日

駐米日本大使、高平小五郎任命。

1月11日

熊本市の縫工同盟会、洋服同業組合に賃上げを要求。縫工ら集合し争議。

1月11日

グランド・キャニオンが国定公園に指定

1月12日

大日本紡績連合会、第5次操業短縮を開始(~1910年4月30日)。向う3ヶ月間月5昼夜休業または休錘。ただし自己織布原糸用錘、操業短縮免除。4月30日まで延長実施。以後、操業短縮率変更。

1月13日

清国、津浦(旧津鎮)鉄道のため英独と借款(500万ポンド)調印。清国側、敷設権と管理権を保留(1912年1月開通)。

1月13日

吉井勇・北原白秋・木下杢太郎・長田秀雄・長田幹彦・深井天川・秋庭俊彦ら7人、鉄幹を訪ね新詩社を脱退。前年暮、「明星」社告で鉄幹「新詩社同人一同」の名でが「反自然主義宣言」。弟子たちは「同人一同」に反撥。

かつての鉄幹は、人間をありのままに写し、心情を率直に表現することで御歌御所に対して短歌革新(叛乱)したが、同じ主張の自然主義が文壇主流になるや、これに抵抗し決別宣言を出す。鉄幹の凋落始まる

1月13日

啄木(23)、「小樽日報」沢田編集長の斡旋で退職後初めて白石社長と会い、釧路新聞社入社の件決定する。

この間の事情についての沢田の説明


一月十日であった。私が只一人編輯局で茶を呑んでると、突然社長が入って来て、石川君はどうしたとの質問である。私は時こそ到れりと言下に彼の窮状を詳細に報告すると、大きく肯いて紙人から拾円紙幣を一枚抜き、是で何か石川君に原稿を書かして、釧路新聞に送らせて呉れまいかと云ふ。私は更に突き込んで是非啄木を釧路の幹部に加へて欲しいものだがと、予ての懸案を一挙に解決しょうとすると、社長は笑って、どうも彼の意見を見ると、いろいろ六ケしい条件があるので考へてるのだと云ふ、それでは無条件ならいゞですかと云ふと、之には何とも答へずサツサと室を出て行った。そこで私は早速石川家を訪問すると、啄木は例の桜庭女史を訪問に出かけて不在、母堂と夫人の前に封筒に入れた拾円紙幣を出して、白石社長の好意を伝えると、二人共眼に一ばい涙を湛へて心からの感謝を表してゐた。(中略)

白石社長から預った拾円金を届けに行った時は、まさに飢餓の状態に陥らんとしてゐた彼及び彼の一家であった。そこで私は極力啄木に説いて、兎にも角にも一度「釧路新闘」に入社して、家庭を現在の窮地から救ひ出す為めに、意見書に書いてある一切の条件らしいものを撤廃させる事を承諾させて了つた。そして一月十三日に日報社の社長室で、啄木と白石社長とを会見させ、私も同席して両者の間を斡旋し、結局内談の程度で物別れとなったが、翌十四日には社長と私と、二人だけの会談で、「釧路新聞」に啄木を三面主任として入社させ、待遇は日報社時代よりは少しでも良くすること、三面の主任と云つても実際は総編韓をさせる事などを決定して、最後に二十円でも、三十円でも此際啄木に赴任手当を呉れる事を承認させてから、私から此の決定事項を詳細に彼に伝達してやつた。是でヤツト長い間の懸案を解決し、生活の方針も立ち、彼としては新らしい陣地を得て、再び才筆を揮ふ事になったので、之を聞いた時は流石に喜色満面の様子を見せてゐた。


こうして釧路新聞社に入社の決定した啄木は、18日、白石社長より10円の仕度金を受取り、その金で質受けなどして簡単な旅装を整え、家族はひとまず小樽に残して単身赴任することに決まった。

1月13日

日本画の橋本雅邦(74)、没。日本美術院の創設者

1月14

予算編成不統一(鉄道建設改良費予算問題)の為、西園寺公望首相、阪谷芳郎蔵相、山県伊三郎逓相(山縣有朋養子)、辞表。他閣僚もならうが天皇、阪谷・山県のみ認め他は留任命ず。

閣議で審議談せず首相と2閣僚のみで天皇に辞表提出する西園寺のやり方を、原は思慮不十分で無責任な行動とみる(「原敬日記」1月13日~14日)。閣議に出せば、原の反対の可能性があり、かつこの時、西園寺は、天皇が西園寺の辞表を受け取らないことを予想。

1月14

この日付、西園寺首相の山縣元老宛手紙「社会主義者云々、内相へおつかわしの写し、たしかに落手仕り候。内相へも、申し聞かせやり候。十分に取締方策構うべきは、もちろんのことと存じ候」。前年11月サンフランシスコでの天長節不敬事件資料を山縣が関係者に配布した件(1月10日頃)

西園寺は山縣へは通りいっぺんの返事をするが、内相原敬指揮下の内務省警保局(大浦局長)は既に機密文書「米国ニオケル日本革命党ノ現状」作成着手

宮内相田中光顕は13日付け山縣宛手紙で、警保局長大浦兼武・警視総監安楽兼道を呼びつけ圧力を加えたと報告。

1月14

西園寺、この日、「実は非常疲労かつ疼痛を感じ候」と、桂に弱音を漏らす(桂太郎宛西園寺公望書状、1月14日、寺内正毅宛西園寺公望書状、1月8日、「原敬日記」1月5日)。

1月14

(漱石)

「一月十四日(火)、『坑夫』は予定の倍を越えて、七十回以上になるかもしれめと予想する。(実際は、九十一回四月六日(月)で終る)

一月十六日(木)、小宮豊隆来る。荒井某来る。

一月十七日(金)、森巻吉来る。『耕夫』の原稿六十余回書いて主人公が潮やく抗へ入ったところまで進む。(「森巻吉日記」)」(荒正人、前掲書)


1月16

田原淳、心臓刺激伝導系の田原結節を発見。


つづく

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