2026年3月20日金曜日

大杉栄とその時代年表(784) 1908(明治41)年6月4日~11日 「馬場氏は、自然派の文が感情を軽んじてゐる事を難じ、且つ若いうちは延ばすに可いだけ延ばして書くべしと云つた。藤村の“春”については、真摯でない点があると云つた。 此人は常に一寸捻くれた頭を持つた人で、其いふ事がキビキビしてゐる。学生の堕落といふ事を話した時、今日が昔に比して学生が悪くなつたのでなくて、詰り悪い事をする様な者まで学生になる程、教育の範囲が広くなつた、と評した。」(啄木日記)

 

馬場胡蝶

1908(明治41)年

6月4日

啄木(22)、森鴎外に「病院の窓」、「天鵞絨」の出版紹介懇願(「病院の窓」は鴎外の尽力により春陽堂と購入契約。但し、原稿料22円の支払いは8ヶ月後)。

6日、「明星」添削料60銭受取る。

11日、金田一より11円借りる。

13日「明星」添削料3円届く。

中旬~下旬、小説創作の失敗を自覚。植木貞子との関係、筑紫の歌人菅原芳子との文通、娘京子の病気(ジフテリヤ)、川上眉山の自殺、国木田独歩の死等に心を乱し、苦悩を短歌にまぎらす。(歌稿ノート「暇ナ時」。) 

6月5日

石川三四郎翻訳「無政府主義の大成者クロポトキン」(「世界婦人」第25号)。クロポトキン自伝。浅草で立売りするが売切れる。幸徳からは絶賛の手紙。田中正造・金子喜一(在米)からは婦人問題の取上げが少ないとの意見が寄せられる(以降も改善されず)。

6月5日

(漱石)

「六月五日 (金)、純一の誕生日。

六月六日 (土)、小宮豊隆来て、夕方、帰る。二葉亭四迷の壮行会が上野精養軒で催され出席する。(二葉亭四迷、はヴァシリー・イヴァノヴィッチ・ネミロヴィチ=ダンチェンコの推挙で、「朝日新聞」 ロシア特派員として、ペテルブルグに赴くことになる)


六月十二日(金)、新橋停車場出発。十七日(水)神戸から大連に向い、ハルビンを経て、七月十二日 (日) シベリア鉄道でモスクワ着。七月十四日 (火) 首都ペテルプルグ (レニングラード) に到着する。」(荒正人、前掲書)

6月5日

大杉栄「防禦虚無主義ー瑞典に於ける新非軍備主義運動」(『熊本評論』)

6月5日

横浜電気鉄道の車掌、運転手130人余、で労働条件改善を要求し、同盟罷業。

6月6日

外務次官に石井菊次郎、駐ドイツ日本大使に珍田捨己、駐イタリア日本大使に林權助、駐清公使に伊集院彦吉を各任命。

6月6日

二葉亭四迷のロシア行の送別会。上野精養軒。田山花袋(博文館館員)、長谷川天渓、坪内逍遥、内田魯庵、川上眉山ら39人。

6月6日

丸の内濠端の螢繁殖。夜更けまで螢狩り賑う。

6月6日

岩谷商会、20世紀冷蔵器(家庭、営業、運搬用)発売。漸次普及。

6月6日

大谷光瑞、六甲山に建設中の別邸を二楽荘と命名。豪奢な調度、施設ケーブルカーなど話題となる。

6月6日

「六月六日

十一時に起床。間もなく貞子さんが来た。いろいろな衣服の地や色の事を聞いた。二時半に帰つてゆく。

“朝”を一枚許り書いたが、与謝野氏が来いと云つて来てた事を思出して、音楽通解といふ本を売つて電車賃を拵へた。千駄ヶ谷にゆくと、芊々と生ひ繁つた夏草に風が泳いで、二週間も殆んど外出しなかつた目には異様になつかしい。例の四畳半には生田君も来てゐた。やがて物集和子・芳子氏も来られた。

ドストイエフスキイの小説“罪と罰”中の人物が、貧乏して貧乏して、何所か遠方へ行かうにも旅費がなかつたので、妻の一張羅の衣服を典ずると、其旅費と、家族が二三ヶ月間生活するだけの金が出来たと云ふ。それが貧乏ならいくら貧乏しても可いと笑つた。

馬場氏は、自然派の文が感情を軽んじてゐる事を難じ、且つ若いうちは延ばすに可いだけ延ばして書くべしと云つた。藤村の“春”については、真摯でない点があると云つた。

此人は常に一寸捻くれた頭を持つた人で、其いふ事がキビキビしてゐる。学生の堕落といふ事を話した時、今日が昔に比して学生が悪くなつたのでなくて、詰り悪い事をする様な者まで学生になる程、教育の範囲が広くなつた、と評した。

晩餐を了へてから帰つて来た。金星会の規則書請求が数通に、歌が二人分。

その三十銭の為替二枚を持つて行つて、文友堂から原稿紙とインキを買つて来た。」(啄木日記)

6月6日

仏、離婚・別居関連法改正。3年間の別居後、一方の請求で法的判断の上離婚が認められる。

6月7日

(漱石)

「六月七日 (日)、東京朝日新聞社主催の第五回 (推定)朝日講演会で講演を中村蓊(古峡)を通じて依頼されたが、断る。(大塚保治も断る)小宮豊隆来る。筆・恒子を連れて、東京座(神田区三崎町二丁目一番地、現・千代田区三崎町) のお伽芝居に行った

けれども、遅すぎて入れぬ。錦輝館(神田区錦町三丁目十八番地、現・千代田区神田錦町) で活動写真を見る。

六月八日 (月)、「長一寸八分 (五・四センチ) 幅一寸二、三分(約三、四センチ)厚五分(一・五センチ)位ノ雹降ル (六月八日)」 (「断片」 (小宮豊隆校訂))晴。午後一時頃から雨降り、約一時間で止み、雹降り始め、四時半まで降り続く。中村蓊(古峡)来て、徴兵検査で砲兵甲種に合格したので、軍隊の事情を森鴎外に聞きたいから (推定)紹介状欲しいと頼まれ書く。

 (六月九日 (火)、ヤマト・デパートメントストア (牛込区神楽坂、現・新宿区神楽坂)開店する。)

六月十一日 (木)、小宮豊隆来る。夜遅く、雨の降りそうな空模様のなかを帰る。

六月十一日 (木) から二十五日 (木) の間(推定) の木曜日の午前中に物集和子・芳子、二葉亭四迷の名刺を持参して、文学上の指導を依頼に来る。


(*中村蓊)明治四十年七月東京帝国大学文科大学英文学科卒。その後、東京朝日新聞社に入社する。森鴎外に紹介を求めたのは、入隊する軍隊への紹介を求めたものかと想像される。六月十一日 (木)に、森鴎外を訪ねる。(「森鴎外日記」)


(*ヤマト・デパートメントストア)三階建、勧工場からデパートメントストアになる。


(*)二か月ほどして、物集和子・芳子は原稿を持参する。物集芳子が一つ及第し、物集和子は二つ共落第する。物集和子のものは、自然主義の影響を受けたものである。物集芳子は、その後、吉野作造の世話で、外交官と結婚し、アメリカに渡る。帰国後、平塚明子(雷鳥)が訪ねて来て、『青鞜』を創刊することになり、大倉(物集)芳子の家(本郷区駒込林町九番地)の裏口に、青鞜社の看板を出す。明治四十四年九月号(創刊号)から第二巻第八号までの『青鞜』は、ここから発行される。『青鞜』は、森鴎外の命名である。」(荒正人、前掲書)


6月7日

石川三四郎出獄歓迎会。淀橋町十二社の桜山。園遊会形式で、参加者50余名。豆入りの握り飯を食べながら革命歌を歌う。

6月8日

関東地方(東京、神奈川地方)に大降雹。直径12センチにおよぶものあり、農作物の被害甚大。

6月8日

東京人造肥料(株)、株式総会で帝国肥料(株)、北海道人造肥料(株)の合併を可決。8月18日、引継事務完了。

6月8日

「六月八日

(略)

降雹の真最中に森先生から手紙。予の小説二つ春陽堂にやつてある事、次回の歌会の兼題など知らして来た。貞子さんからも葉書一枚。

(略)」


「六月九日

(略)

朝八時頃起床。“病院の窓”春陽堂で買取る事に決つたが、報酬は登載の上といふ鴎外先生からの葉書。返事を出した。

(略)

七時頃鴎外先生を訪うたが不在。・・・・・

(略)」(啄木日記)

6月8日

全国資源保全委員会、大統領による任命。

6月9日

岩手県藤根村の尋常小学(准)訓導で在郷軍人会分会に参加する高橋峯次郎、「真友」発行。~1944年3月。号外なども合わせ180号余発行。発行主体は、当初真友会、1913年以降は帝国在郷軍人会藤根村分会。

「農家の実行すべき三則」として、「労働の習慣」「節倹」「風俗の改良」をあげ、そのことを通じての農村青年の主体形成が期待される。

6月10日

幸徳秋水、新美卯一郎(熊本評論社)に無政府共産主義披露する書簡。

6月10日

川上貞奴、西園寺首相邸夜会出演。新派合同共演。

6月10日

日新火災海上保険設立

6月11日

森近運平、新宮の大石誠之助方に2週間滞在。


つづく


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