2026年6月10日水曜日

大杉栄とその時代年表(826) 1909(明治42)年2月16日~28日 「二月二十四日 水曜 記憶すべき日、 夜七時頃、おそくなつた夕飯に不平を起しながら晩餐をくつてると朝日の佐藤眞一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づつ、都合三十円以上で東朝の校正に入らぬかとの文面、早速承諾の旨を返事出して、北原へかけつけると、大によろこんでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰つて来た、 これで予の東京生活の基礎が出来た! 暗き十ケ月の後の今夜のビールはうまかつた。 (略)」

 

京橋の 滝山町の新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな (啄木)

大杉栄とその時代年表(825) 1909(明治42)年2月8日~13日 堺利彦の妻・為子は気丈な女性だった。赤旗事件で夫が入獄すると、着物などを売ってたまっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。、、、、、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。、、、、、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなものなので、料金は市価の半額にした。 慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水をはじめ、同志たちもしばしば為子を見舞った。」(黒岩比佐子『パンとペン』)

1909(明治42)年

2月16日

大杉栄(24)、獄中でトルストイ、イプセンの本、『太平記』を受け取る

2月17日

(漱石)

「二月十七日(水)、本多直次郎(嘯月)宛手紙に、生田長江が、 Nietzsche (ニーチェ) ""Also Sprach Zarathustra""(『ツァラトゥストラはこう語った』)全訳したいとのことだから、会って欲しいと伝える。

二月十八日(木)、木曜会。高浜虚子来る。小宮豊隆来る。小宮豊隆に本多直次郎(嘯月)が、『新小説』に書いてもらえぬだろうかと云っていたことを伝える。小宮豊隆泊る。

二月十九日(金)、小宮豊隆、人力車で謡の稽古所に行く。

二月二十日(土)前後(小宮豊隆推定)(日不詳)、『文學評論』の校正完了する。

二月二十一日(日)、太平洋通信サンデー発行所(京橋区元数寄屋町三番地)の安成二郎から談話を求められたが応じない。

二月二十二日(月)、安成二郎宛手紙で、談話についての意見を伝える。「特別の関係ある雑誌にあらねばはなしを御免蒙る方針を立て候」とも書く。

二月二十三日(火)、安成二郎から、談話を再度求めて来たが、やはり断りの手紙出す。

二月二十五日(木)、木曜会。小宮豊隆泊る。」(荒正人、前掲書)


2月17日

最後のアパッチ族酋長ジェロニモ、没。

2月17日

ペテルブルクの二葉亭四迷

(露暦2月4日頃)

二葉亭は再び体調を崩す。禁煙で治ったはずの不眠がぶり返し、たちの悪い風邪のような症状を呈して熱がさがらなくなった。二葉亭の体内に奥深く宿っていた結核菌が、北国のきびしい冬に力を得て暴威をふるいはじめた。

露暦2月5日、皇帝の叔父ウラジミール大公が没し、二葉亭はその知らせを短く5語だけ打電した。

露暦2月7日、はじめて医者の往診をあおぐ。食欲がまったくないので、えぞいちごとレモンのシロップだけを口にした。

露暦2月8日(日)、ウラジミール大公の葬儀。二葉亭は降りしきる雪の中にたたずみ、大公の葬列を見送った。しかし高熱のためついに雪上に卒倒し、同伴した日本人に下宿にかつぎこまれた。

12日、恐る恐る起きて外出してみると体力の衰えはなはだしいこ事が実感された。熱もさがるようすがなく、13日には体温計を買った。

2月15日、ドイツ留学途上にペテルブルグに立ち寄った梶浦という軍医がやってきて二葉亭を診察し、肺尖カタルだと告げた。さらに大使館や満鉄の人たちが謀って、当地では名のとおったクコベーロフという医者に頼み往診してもらったところ、温暖な土地に転地するほかはなかろうという見たてだった。要するに薬石に効はないということである。

2月28日、二葉亭は、すでに勤務に耐え得ないと辞職電報を打つ。


2月19日

市町村立小学校教員への年功加俸および特別加俸、平均50%増額。

2月20日

沢柳政太郎、『実際的教育学』。

2月20日

伊詩人フィリポ・T・マリネッティ、『ル・フィガロ』紙上で『未来派宣言』発表。

2月20日

在チリ日本公使館開庁。

2月22日

東京主要銀行、預金協定金利引下げ。定期6%から5%へ。

2月22日

対馬竹敷要港職工600人、賃下げに反対し暴動。

2月23日

衆議院本会議、又新会(猶興会を改組)大竹貫一(対外強硬派)、韓国統監政治攻撃。伊藤の失政を逐一取上げ「宗主国たる我帝国の威信」が地に墜ち「排日熱が昂まって」いるのは、伊藤が欧米の批判を気にして「懐柔政策」をとっているためと、保護経営論者伊藤統監を批判。

2月23日

京都西陣織物業者、織物消費税撤廃を掲げ提燈行列。参加者6千人、市内一周。

2月24日

憲政本党常議員会、非政友各派大合同めぐり対立。

27日、常議員会、犬養毅院内総理を除名。

3月2日、代議士会、犬養信任を決議。

2月24日

「二月二十四日 水曜

記憶すべき日、

夜七時頃、おそくなつた夕飯に不平を起しながら晩餐をくつてると朝日の佐藤眞一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づつ、都合三十円以上で東朝の校正に入らぬかとの文面、早速承諾の旨を返事出して、北原へかけつけると、大によろこんでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰つて来た、

これで予の東京生活の基礎が出来た! 暗き十ケ月の後の今夜のビールはうまかつた。

(略)」


「二月二十五日 木曜

午後朝日社に行つて佐藤氏に逢ひ、一日から出社のことに決定、出勤は午後一時頃からで、六時頃までとのこと、

夜、その旨を太田北原二君、与謝野氏、及び函館なる家族へ知らせてやつた、それから岩動君へ手紙、

羽織を質におき、古雑誌を売つて、坪仁子及び堀田秀子へ電報うつた、

(略)」


「二月二十六日 金曜

(略)

帰つてくると仁子から電報二〇デンカワセ云々、予は感謝する――

夜また電話、太田が来てくれといふ、金田一君から電車代かりて三秀舎にゆき、十二時まで共に校正した、モウモウ編輯はせぬ――馬鹿は二度編輯しろ――と太田が言つてゐた、

そして帰つてくると二十円の電為替が届いてゐた

(略)」(啄木日記)

2月24日

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合主張のオーストリア=ハンガリー連合と大セルビア主張のセルビア間で緊張。

2月24日

ブライトンで初のカラー映画公開。

2月26日

国際アヘン委員会。1日~、上海。国際アヘン会議決議調印。日本も参加。5月13日公布。

2月26日

墺・トルコ両国、ボスニア問題で協定調印。トルコ、墺の2州併合承認。代償250万トルコ・ポンド得る。

2月27日

「二月二十七日 土曜

九時半頃出かけた、出かける前に母からと郁雨君から久振の手紙、郁君は病気がよいとのこと、そして母からの手紙のことについて書いてあつた、予の心は鉛――冷い鉛でおしつけられた様になつた、ああ母! いとしい妻! 京子!

母は三月になつたら何が何でも一人上京すると言つて来た

二十円の為替を受取つて三秀舎まで歩いていつた、中西屋でオスカーワイルド論(アート エンド モーラリチー)を三円半に買つた! 何年の間本をかはぬ者の、あはれなる、あはれなる、あはれなる無謀だ!

二時頃一人岩動君をたづねたが駄目、

今日はパンの会なので先に一人ゆく、――両国へついたのは五時半だつた、誰も来てゐない、やがて太田が来、石井柏亭君が来、山本鼎君が来た、そして飲み且つくらひ、且つ語つた、そして九時半にそこを出て小雨の中を電車で浅草に行つたが、活動写真はもうハネてゐた、そして四人奥山の第三やまとでビールをのんだ、

そして帰りに四丁目で太田と二人スシを食つた、今日は太田と二人前はらつたのだ。

十二円五十銭許りしか残つてなかつた

(略)」


「二月二十八日 日曜

(略)

四時頃帰つて来て、宿へ十円やつた、百十何円へ十円! 然し朝日へ出ることになつたのは多少の信用を作つたらしい!

(略)」(啄木日記)


つづく


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