2026年6月4日木曜日

大杉栄とその時代年表(825) 1909(明治42)年2月8日~13日 堺利彦の妻・為子は気丈な女性だった。赤旗事件で夫が入獄すると、着物などを売ってたまっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。、、、、、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。、、、、、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなものなので、料金は市価の半額にした。 慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水をはじめ、同志たちもしばしば為子を見舞った。」(黒岩比佐子『パンとペン』)

 

大杉栄とその時代年表(824) 1909(明治42)年2月2日~7日 「約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髯をはやした武骨な人だつた、三分間許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ニコニコし乍らかへる、此方さへきまれば生活の心配は大分なくなるのだ」(啄木日記)

1909(明治42)年

2月8日

イラン革命派、レシトで蜂起。

2月9日

独仏協定調印。モロッコにおける独の経済的、仏の政治的な特殊権益を相互に確認

2月11日

東京有楽座で子供デー開催。曲芸、お伽芝居、人気。

2月11日

登極令、摂政令、立儲令、皇室成年式令各公布。

2月12日

この日付堺利彦の妻・為子宛書簡


「〇扨(さて)真柄の事につき其後ツクヅク考へて見たが彼はどうも加藤家に於て育てらるべき運命を持って居る様だ、どうもそれが自然の勢でありそうに思はれる、僕は例の成行宗の信者だから、今ではモウそれならそれでも善いワと思うてゐる、(中略)○真柄よ、トウさんはまだ大ぶん長く帰らぬ、其間はカアさんにも色々御用があつていそがしいから、マアさんは加藤のオバさんの処をおウチにして待つていらつしやい、我侭を云はずに善くオバさんの云ふ事をお聞きなさい」


加藤夫妻は真柄を養女にしたいと思っていたようで、堺もそう考えていたようだ。「例の成行宗の信者」とあるのは、何が起こっても柔軟に受けとめ、対応する堺の姿勢を表している。

一方、為子は妹の本部節子から、「堺さんの子をよそに預けておいて女の顔がたつか」といわれたことに刺激され、働きながら自分の手で真柄を育てようと決心した。秋水も間に入って、加藤夫妻と話し合った結果、為子が自分の意思を通すことになった。

為子は気丈な女性だった。赤旗事件で夫が入獄すると、着物などを売ってたまっていた家賃を払い、淀橋町柏木の下宿に引っ越す。そこには、堺と一緒に入獄した大杉栄の妻の堀保子も同居した。

真柄を加藤家に預かってもらうと、為子は知人が編集している『鉄道時報』の広告取りをして僅かな収入を得た。さらに、髪結いが繁盛しているのを見てこれをやろうと思いつく。髪の結い方を10日くらいで教えてほしいとその髪結いに頼むが、相手にしてくれない。それでもあきらめずにじっと見ていると、とにかく客を取ってやってみればいいと勧められた。そこで、思い切って四谷伝馬町に家を見つけて髪結いの看板を出す。客を練習台に使うようなものなので、料金は市価の半額にした。

慣れてくると次第に客もつくようになり、為子はその合間に針仕事をし、広告取りの仕事もして、なんとかやっていけるようになる。その後、加藤家から真柄を引き取り、四谷伝馬町の家で夫の帰りを待ち続けた。秋水をはじめ、同志たちもしばしば為子を見舞った。

為子によれば、逸見(へんみ)斧吉・菊枝夫妻と小泉三申がさまざまな支援をし、毎月の家賃を補助してくれたという。堺は「日本社会主義運動史話」で逸見斧吉を「先々代が大庄屋で、天明の飢饉の時、悉く其の倉廩(そうりん)を開いて窮民を賑はし、一族にも勧告して之に倣はしめ、聴かざる者には親戚の交りを絶ったといふ美談が、その孫の青年に感化を及ぼしたのであった。金鵄ミルク逸見三陽堂の主人」と紹介している。"

堺は、同日の手紙で膨大な分量の書籍の差し入れ希望をしている。堺は、同志の誰かがもっていれば借り、なければ丸善などに注文し、代金は別の書籍を売って支払うように指示している。


「本の世話など髄分迷惑だらうが、是だけには少し我侭を云ふから何分よろしく頼む、此次御持参を願ひたき書籍は資本論(Capital)、唯物史観(Materialistic Con of History by Labriola)、産業進化論(Collectivism & Industrial Evolution)(此本必ず在る筈)、運命論(Own Destiny)、市我古屠畜場の記(Jugle)、貧児立身カパヒルドの伝(Dvid Capperfield)、ビスマルク及其事業(Bismark & State Soc.)(是は山川の本だ、あいついるなら貸して貰ふ)、婦人論(Die Frau)(是は加藤君に借りる)、独逸軍人逸話(Anti-Militarism von Liebknecht)(是は神崎君に借りる)、ブリス氏小百科字書(Encyclopedia of Soc.Ref.)是はバラバラになってゐたから製本たのむ、若し頁数が揃はぬなら一部分山川君の本箱に紛れてゐるかもしれぬ(中略)○大石君に、米国の例の Kerr 会社から Positiv Out-come of Philosophy by Dietzgen(哲学の帰結)とフォイエルバハの哲学(FeuerbachRoot of Soc-Philosophy by Engels)を取寄せて呉玉はぬか、君にも読ませたい、前者は價一弗(ドル)、後者は五十仙(セント)だが、僕の名で注文すれば送料共六掛でよこす筈だ、よろしく頼む、

○森近君例の犯罪学をどうかして借りて呉れないか」


黒岩比佐子『パンとペン』より


2月12日

全米黒人地位向上協会(NAACP)設立。創立メンバー13人のうち、黒人は社会学者のW・E・B・デュボイスとアイダ・B・ウェルズの2人で、他は全てユダヤ系や白人。この日はエイブラハム・リンカーン生誕100周年

2月13日

亀崎鉄工所労働者宮下太吉、製材所の機械据付のために出張で上京。仕事を済ませて午後2時頃、巣鴨平民社を訪問。幸徳秋水に大府駅でのパンフレット配布や、元首暗殺(天子も血の出る人間であることを示す)の決意語る。秋水は個人英雄的テロリズムに警戒的。宮下は「幸徳ハ筆ノ人デ、実行ノ人デナイト思イ・・・」(第4回調書)と直感。幸徳も「暗殺ニテハ主義ハ成功セズ」(「公判摘要」)との感想。

用談2時間後、玄関脇の3畳の書生部屋にいる新村忠雄・菅野須賀子(柏木に在住)・川田倉吉(愛人社)らに軽く宮下を紹介。

午後4時頃、宮下辞去後、「しっかりした人物だ」とほめる。

宮下は秋水の妻千代子の案内で森近運平に家を訪問(宮下が大阪平民社の森近を訪問して約1年ぶりの対面)。宮下が天皇暗殺計画を持出すと、かつて天皇制批判を展開した森近が妻子があるという理由で参加を拒否、爆弾製造法もしらないと答える。

夕食後、再び巣鴨平民社を訪問。秋水・宮下・森近・新村・岡野5人で午後9時頃まで談話、解散。一身を犠牲にして天皇制批判を行動にする宮下の談話が新村忠雄に強烈な印象を残す。

宮下は3月4日東京発、途中甲府で墓参、1泊後翌日、亀崎に戻る。

新村忠雄:

明治20年4月26日長野県埴科郡屋代町生まれ。小学校卒業・補習科1年終了後、親戚を頼って上京。

明治36年、週刊「平民新聞」購読、講習会出席し共鳴。

39年春クロポトキン「無政府主義の哲学」、40年1月日刊「平民新聞」、煙山専太郎「近世無政府主義」、久津見蕨村「無政府主義」を読む。

40年8月ユニバーサリスト教会での社会主義講習会参加。

41年1月から長野で1回/月の研究会(信濃社会主義研究会)を組織。5月15日「東北評論」創刊に関係、創刊号に「革命の烽火揚る」(足尾銅山暴動を題材)を掲載。これにより署名人高畠素之が秩序壊乱罪で起訴、収監。同人の遠藤友四郎に頼まれ署名人となる。起訴され入獄。

2月13日

吉田東伍校注『世阿弥十六部集』。


つづく

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