シラン 2015-05-03 わが家の庭
*昭和18年(1943)10月
この月
・第三次南嶽会議、蒋介石、将領の堕落叱責
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・この頃、重臣達の間で反東條の動き。
息子や姪の婿が統帥部中枢にいる岡田啓介は、戦況の容易でない事を重臣たちに伝え、「まったく自己反省のない男だからね、東條という男は」と付け加える。
岡田の呼び掛けに、米内・若槻・広田が応じ、東條を呼び重臣たちで諌めようと招待状を出す。
一人で来て欲しいとの要請を無視し、東條は閣僚・将校を連れてやって来て、岡田は計画は失敗。
東條は、岡田の申し出の裏に反東條の動きがあるのを見抜き、機先を制す。
しかし、正確な情報を知らせろとの重臣達の呼びかけは、反東條運動の契機となる。
近衛は木戸幸一(内大臣)に書簡を送り、日本が敗戦の道を歩んでいるのは統制派幕僚が仕組む革命計画の為だと断じ、東條こそその元兇と決めつける。
皇道派と関係の深い近衛にすれば、統制下の日本の現状は、まさに共産主義体制そのものという。皇道派の荒木・真崎・柳川・小畑と近衛との接触の深まりもある。
岡田・近衛のもとには、外務省長老幣原喜重郎の「現政府は英米撃滅など英米人を鬼畜のごとく思わせているが、こんな方針では和平になったら英米に対する政府の態度が急に変わり国民は納得しないだろう」との伝言も吉田茂が伝える。岡田は吉田を通じ東久邇とも接触。
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・日本出版会、企業整備本部を設置。
資格審査会と企業整備委員会を関係官庁の役人と日本出版会の役人とで構成し、企業整備の具体的措置に乗り出す。翌19年5月迄に、書籍出版社203、雑誌996に「整理統合」。書籍出版社は整理前の1/18に縮減。
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・和田喜太郎(中公、/S20/2/7.獄死)、渡辺公平(日鉄)、検挙
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・第17師団(酒井康中将)、中国より主力をニューブリテン島、1/3をブーゲンビルに派遣
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・昭和18年度臨時徴兵検査規則公布
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・この月、厚生省調査の重要工場の欠勤率。
全体14.2%、新徴用者17.1%、従業員1万人以上の工場14.8%。この率は、戦局が不利になり、国民の生活が極度に悪くなるにつれて増大。
1943年10月~1944年9月までの欠勤率20%、空襲が始まってからは49%。(J・B・コーヘン「戦時戦後の日本経済」)
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・航空機関係工場第3回行政査察報告。
三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所についてすら、「下級現場監督者ハ工員ノ反抗ヲ怖レ、厳正ナル規律ノ要求ヲ躊躇シアルノ実状」。
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・信夫清二郎「ラッフルズ」、英国植民地政策を正義・博愛・人道に基づいているという内容で発禁 *
・浅見淵「満州文化記」(「国民画報社」)
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・花田清輝「楕円幻想」
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・太宰治(34)、「雲雀の声」完成、検閲不許可の恐れあり出版延期。翌年、ようやく出版の運びとなるが、印刷所が空襲に遭い発行間際の本が焼失。20年に発表の「パンドラの匣」はこの作品の校正刷をもとに執筆。
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・小林秀雄(41)、「文学者の提携について」(『文藝』)。
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・黒島伝治、没。
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・「一般的安全保障に関する4ケ国宣言」、米英ソ中が発表、国際機構設立宣言
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・ギリシャ、「民族解放戦線(EAM)」が対独協力容疑で他レジスタンス組織を武力攻撃、レジスタンス内部の内戦惹起。
イギリスは「民主ギリシア国民連合(EDES)」・「国民社会解放同盟(EKKA)」に肩入れするが、EAMは降伏したギリシア駐留イタリア軍装備を入手、優勢。ドイツ軍は「共産主義への恐怖」を煽り右翼的ギリシア人を傀儡組織「治安大隊」に組織しようとする。1944年2月停戦。
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・ポーランド、ポーランド労働者党、ワルシャワで「ポーランド国家評議会」設立準備
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・ソ連軍、戦前のポーランド国境97キロの白ロシア扇形戦闘地域まで進軍
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・アルゼンチン、ペロン、労働局長(のちに労働福祉庁長官)就任。
労働組合結成と中央組織創設をバックアップ。1年間に29の労働関係法制定。300以上の労働争議に関与し、半分以上を労働者に有利な方向で解決。労働者の支持をバックに軍内部での力を強める。
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・アルゼンチン、知識人150名、言論自由・民主政治確立を訴える宣言発表。政府は全国の大学弾圧と進歩的教授追放。
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10月1日
・南方軍稲田総参謀副長、総軍司令部付から第19軍司令部付に転出。後任大本営作戦部長綾部少将。インパール作戦反対派排除。
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10月1日
・戦時交通統制で京阪電気鉄道と阪急電鉄が合併し、京阪神急行電鉄となる
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10月1日
・国鉄ダイヤ改正で、貨物輸送優先となり、旅客輸送減少
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10月1日
・風早八十二「日本社会政策史」「労働の理論と政策」、昭和研究会「長期建設期における我国労働政策」それぞれ発禁
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10月1日
・特許局と技術院統合
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10月1日
・パーマネント禁止
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10月1日
「十月一日(金)
昨日は駒沢ゴルフ場の閉鎖最後日でバッグをとりに行った。やっている間に、N09のアイアンを拾われ盗まれた。不愉快なること限りなし。近頃は盗人の世の中である。汽車で据(すわ)っている間に靴を盗まれた人。電車で鞄を盗まれた人。非常に多し。
新聞とラジオは増産と飛行機生産のことしかない。それほど飛行機が欲せられている。しかし飛行枚は、世界どこにでも戦線を拡げて、それで足りるという訳にはいかない。戦線は拡げすぎていないか - ローズヴエルトはそういっている - 戦略はそれでいいか。その辺の批判がないから、犠牲は非常に多かろうと思う。
戦争の最初から、企劃院その他で (一)敵の生産力 (二)自国の工業力を研究していたはずだ。今さらに慌てるのは、いかに研究が独善的であったかを示すものにすぎぬ。
九月十八日朝刊発表 - 伊藤海軍中尉が、工事、捗(はかど)らずとて割腹自殺した。新聞は大書して徳を称した。海軍葬が執行された。死そのものが尊敬される道徳の一表現である。
比良からラウレル、アキノ、パルカスの三氏来る。
野村重臣は『読売新聞』においていっている。イタリア上層部はアングロ・サクソンであるとは奇妙である。
米英思想を嗤う 日本の場合 野村重臣
戦局は必ずしもイタリアにとってのみ苛烈であったのではない。それは日独両国にとっても米英ソ聯にとっても等しく容易なものではなかった。従って戦局の困難が戦意を挫折するも、かえって昂揚するも一にかかってそれぞれ国民の心構え如何にあるのである。イタリアは戦況の不利に戦意を喪失した。しかも戦況の不利は初めから戦意の不足に原因したものと思われる。この意味において、イタリアの不名誉はイタリア国民の自ら招いた報いであったのである。
イタリアの場合に比べて、ドイツならびに日本の戦意が益々旺盛であることについては些(いささか)の懸念もない。就中アッツの玉砕に鑑みて、さらに護国の忠霊に応えて立ち上った皇国民の敢闘精神に顧みて、日本がイタリアの覆轍(ふくてつ)を踏むものだとは絶対に考えられない。イタリア上層部の親英主義はその血管を流れるアングロサクソンの血に原因したのである。しかるに皇国一億の皇民はこれすべて大和民族なのである。イタリア国軍の幹部は親英的貴族に占拠されていた。しかるに皇軍はいうまでもなく、天皇の軍隊であり、同時に皇軍将兵は皇民と完全に一体なる軍隊である。イタリアの場合、その上層部のみならず、その国民も相当に厭戦気分に捉われ、反戦的平和熱に浮されていた。この点、米英に対する宣戦の大詔を拝した以上、承詔必謹を本旨とする皇国民が戦意を喪失する惧れは全くないと確信する。この意味において、戦局が如何に苛烈となろうとも、仮りに戦局が万一不利となろうとも、皇国日本は必ず最後まで戦い抜くもの、戦い抜き得るものと考える。
しかしながら、昭和十六年十二月八日、米英に対する宣戦の大詔を拝するに至った瞬間まで我が国内にも甚だ根強い親米英論が存在した事実は、決してこれを無視すべきではない。日米交渉の当時、その妥結を欲した者は少くなかったのである。日米交渉を妥結するためには、支那事変を放棄し、三国条約を破棄し、従って新秩序建設の理想を断念しなければならなかった。しかもその妥結を欲した事実は、新秩序の建設よりは英米との国交調整を一層重要なりとしたからに外ならない。しかるに大東亜戦争の戦争目的は実に新秩序の建設にあるのである。かかる戦争目的に対する深刻なる自覚なくして、戦争を継続することは甚だ困難であり、不可能でありさえもする。固(もと)より米英に対する宣戦の大詔は、この親米英論者に対して反省を促したものと思われる。しかしながら、その反省がどの程度まで深刻に、かつ具体的に加えられたかは、なお考えて見る要がある。・・・〔『読売報知』十月一日〕
マクァーサーは比島で死ぬべきであったか、それ〔と)も生きて米英軍を指揮すべきであったか - むろん、米英の立場よりして。
日本の新聞はマルクス主義〔の〕影響から抜けず、ステチニアスが米国務次官になったというと直ちに、かれがモルガン財閥の一人だといった批判をする(『中部日本新聞』)。ベルリン電報でもさように唯物的ではない。この連中の困ったことは、公式論をやるだけで、それを打破する気持のない事だ。」(清沢『暗黒日記』)
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10月1日
・連合軍・第5軍ナポリおよびペネヴェントを占領
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10月2日
・11軍、広徳占領
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10月2日
・第1軍、十八秋太岳地区粛正作戦(「モ号作戦」)を実施(10月2日~12月10日)。
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10月2日
・学徒の徴兵猶予停止
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10月2日
・コロンバンガラ島第2次撤退。
大発5隻沈没、300名行方不明。5600人撤収。南東支隊司令部(佐々木登少将)、八連特司令部(大田實少将)、チョイセル島中部西海岸スンビ経由ブーゲンビル島ブインへ。3日ブイン着。
中部ソロモン(ニュージョージア、コロンバンガラ、ベララベラ)は完全に米軍の手中に落ちる。
「八連特」は、防備手薄のニューアイルランド島方面防備部隊として、司令部は島西端のカビエン、横七時は中部東海岸ナマタナイ、呉六特はムンダで消耗しているので敵から遠い所で戦力を回復させよう、とカビエン西約420km、アドミラルティ諸島マヌス島ロレンゴーに配置(翌19年5月マヌス島玉砕)。
ブーゲンビル島に米軍が上陸すると、第8艦隊司令部は、12月1日ビスマルク島強化の為、カビエンの八連特中心に第14根拠地隊を編成、太田少将を司令官とする。しかし、昭和19年2月10日付けで軍令部出仕となり、内地に引き揚げる。
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10月2日
・オーストラリア、フィンシュハーフェン奪回
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10月2日
・英軍コマンド部隊テリモリに上陸、第8軍と合流
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