2013年11月19日火曜日

1778年(安永7)1月~3月 モーツアルト、マンハイムでアロイジア(17)に惹かれていく マンハイムからパリに移動 【モーツアルト22歳】

江戸城(皇居)二の丸雑木林の紅葉 2013-11-19
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1778年(安永7)
この年
・豊後の岡藩で井上主水左衛門の改革。
農民救済のため「助け合い米」「御預け牛」「産着料」下付等を実施。
また、商人10人に領内の穀物・たばこ等の独占的な集荷・出荷権を与え、代償として年銀500貫を藩に納めさせる。
藩財政は改善できず。
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・スペイン、植民地における自由貿易を認める勅令。
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・ブエノスアイレスの本国との直接交易認可。
ブエノスアイレスは対英仏密貿易なども通じ発展、ペルーとの北西ルートは衰退(一説に35年)。
ブエノスアイレスの人口は1800年には4万5千人。
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・フィリピン、バスコ総督着任。経済振興政策を推進(~1787)。
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年初
・モーツアルト、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタト長調(K.301(293a))、変ホ長調(K.302(293b))、ハ長調(K.303(293c))作曲。
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1月
・モーツアルト、ドゥ・ジャンのために、フルート協奏曲(第1番)ト長調(K.313(285c))、(第2番)ハ長調(K.314(285d))作曲。フルートのためのアンダンテハ長調(K.315(285e))作曲。フルート協奏曲第2番はオーボエ協奏曲K.314を編曲したもので、作曲依頼したドゥ・ジャンは200フローリンの契約を96フローリンに値切る。

・この頃、モーツアルト(22)、マンハイムで知り合った写譜家ウェーバー氏と彼の一家と親しく交際するうちに、次女のアロイジア(17)に惹かれていく。
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この頃、モーツアルト、ウィーンで皇帝ヨーゼフ2世のドイツ・コミック・オペラを設立計画知り、父にウィーンで就職できるよう推薦状を書いてほしいと頼む。 それを受けて父は積極的に知人に働きかけたが、うまくいかなかった。
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1月10日
・スウェーデン、博物学者リンネ(70)、没。
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1月15日
・オーストリア、バイエルンのファルツ選帝侯に南バイエルン割譲させる協定締結
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1月23日
・モーツアルト母子、オラーニエン公妃を訪ね、キルヒハイム・ポーランドへ出発
(写譜家フリドリン・ウェーバー、次女アロイジア・ウェーバー父娘を連れる)

24日、モーツアルト(21)、オランニエ公妃の御前でアロイジアと共に演奏する。
31日、モーツアルト、キルヒハイム・ポーランド出発
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2月
・モーツアルト、「マンハイム・ソナタ」。
K.293a (301) ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第25番(ト長調)、K.293b (302) ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第26番(変ホ長調)、K.293c (303) ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第27番(ハ長調)、K.293d (305) ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第29番(イ長調)。
1777年10月6日の手紙に書いているように、K.300c (304)とK.300l (306)を合わせて6曲セットになる。
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・ベンジャミン・フランクリンのヨーロッパ使節団。フランスは名士として扱う。
民衆指導者ド・ボーマルシェは「アメリカに武器を」送る募金運動開始、政府にアメリカ支援強化を要請。ナントがヨーロッパにおけるアメリカの補給基地となる。近郊には海軍省がアメリカ向けの大砲鋳造工場を建設。
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2月2日
・モーツアルト、マンハイムに戻る
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2月2日
・英、ロッキンガム派フォックス、アメリカとの和解を提案、否決。
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2月4日
・モーツアルト母より父への手紙。
「ヴォルフガングは新しい知合いができると、もうすぐその人達のために、ありったけ打ち込んでしまおうとするのです。 ……息子は、ウェーバーさんの家族と知り合ったとたんに、考え 方が変ってしまいました。」
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2月6日
・パリで米仏友好通商条約調印。
米ベンジャミン・フランクリン(72)と仏外相シャルル・ヴェルジェンヌ(61)間。
翌年、スペインがフランスに同調。

この条約により、イギリスが合衆国の独立を承認するまでフランスは合衆国を軍事的に援助することになる。
しかし、フランスはカナダの再征服はしないと約束。
この条約は経済・通商に関わる条項も含み、フランスと合衆国の貿易は発展していく。
ネッケルは増税に頼らず、借入を行い、人気を得る。
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2月12日
・モーツアルト父からモーツアルトへ手紙(4日の返事)。
「実際お前は誰でも最初のひと言で信じてしまう。お世辞や体裁のいい言葉を聞くと、お人好しの心をむき出しにする。 お前はその娘をプリマ・ドンナとしてイタリアへ連れて行こうとしている。……パリへ立て! 今すぐに。
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2月13日
・カンナビヒ邸でモーツァルトの作品による音楽会。モーツアルトとアロイージア
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2月15日
・モーツアルト友人ヴェンドリングとラム、パリへ出発
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2月21日
・モーツアルト父レオポルト、パリのグリムにモーツアルトへの援助を依頼。この日、返事。
「会えれば何かしてあげれる」と言いながらも、「誰も本当の父親の代りはできないこと。 もし彼が自由主義に染まっていれば間違いなく危険な目にあうこと」を伝える。
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2月23日
・23日以前、モーツアルト、クリスチャン・バッハのアリアのために作ったカデンツァをウェーバー嬢の練習のために、K.293e 19のカデンツァ作曲。

24日、モーツアルト、アロイジアのためにレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、わしはそれを告白する/わしは知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか」(K.294)作曲。
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2月25日
・サンマルティン、コリエンテスで州知事の息子として生まれる。
8歳でスペイン本土に戻り、そこで教育を受ける。
軍人となり、08年からはナポレオン軍と戦う。
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2月27日
・モーツアルト、ラーフとヴェンドリンクの母ドロテアのためそれぞれに、アリア「もし私の唇を信じないなら/悩み苦しむ心だが」(K.295)、レチタティーヴォとアリア「もうたくさん、あなたが勝ったのだわ/ああ、私を見捨てないで」(K.295a)作曲。
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3月
・モーツアルト、ホルツバウアーのミゼレーレに付した8つの楽曲(K.Anh.1(297a))(散失)作曲。
マンハイムで、ヴェントリングの娘アウグステのためにK.295b (308) アリエット「寂しい森の中で」(変イ長調)作曲。
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3月2日
・フランス、タレイラン(24)、神学士となる
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3月7日
・クック、ハワイ島を発見。
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3月9日
・英、ノース和解案可決。カーライル和平使節団派遣決定。4月21日出発。
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3月11日
・モーツアルト、ピアノの生徒テレーゼ・ピエロン(15)のために、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタハ長調(K.296)作曲。
後に5曲のソナタK.376~380と纏めて1781年にアウエルンハンマー嬢に献呈される6曲のソナタの第1となる。

この日、雇い御者と契約が成立。
モーツァルト母子の馬車を御者が40フローリンで買い取り、その馬車で御者は母子を11ルイドールでマンハイムからパリへ運ぶことになる。

12日、カンナビヒ邸、モーツアルトの告別の音楽会開催。
14日、モーツアルト母子、マンハイム出発。
23日午後4時、パリ到着

(パリのモーツアルト)
かつて神童をもてはやしてくれたパリではない。
父レオポルトが頼りしたグリムもすでに個人秘書ではなく(宮廷に仕える外交官)、時流を鋭く読み抜く彼の目に映ったのは技量に優れた一青年音楽家に過ぎなく、商品価値はなかった。
さらにパリの音楽界は、グルックとピッチーニの論争に明け暮れしていて、上流階級は二分され、かつての神童を思い出す余裕などなかった。
グリムはピッチーニ派であったが、そんな事情に疎いモーツァルトにとって、パリでの就職活動は無理。
機会がある限り作曲したが、紛失したり、演奏する機会がなかったり、辛いことが続き、そして母を失う。
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3月26日
・ベートーヴェン(8)、初めて公開演奏会に出演、ピアノを演奏。ケルン
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