2014年5月22日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(33)「王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場」(6終) 「ゴヤは、・・・、三〇歳のときから四六歳まで、一六年間にこの王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場のために、約六三点のカルトンを描いている。・・・それは彼の生涯にあっても幸福な時期に属すると言わなければならないであろう。」

コアジサイ 江戸城(皇居)東御苑 2014-05-20
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三つの約束事を、ゴヤは実に忠実に、一つも見落すことなく順守している
「さて、また『待ち合せ』のカルトンに戻るとして、ここでの三つの約束事、つまりは頬杖をついていること、足先を組みあわせていること、それから樹木に葉がないか、散りかけているか、という、この三つの約束事を、ゴヤは実に忠実に、一つも見落すことなく順守しているのである。こういう約束事は、おそらくサラゴーサでの徒弟時代に、師のルサーンから叩きこまれたものであったろう。・・・」

著者が平板な絵『待ち合せ』を選んだ理由
「・・・このカルトンは、色の配合もそれほど面白くもなく、横にいる男どものちょっかいが、主人物の孤独を強調するためとはいうものの、少なからずうるさいくらいのもので、あまり冥想などというテーマにふさわしからぬほどのものである。」

地下生活者、まだ彼自身によっても認知されていない、同居者のようなもの
「・・・私は、わざわざ『待ち合せ』などというさほど出来もよくなく、ほとんど莫迦莫迦しいと言いたくなるほどの、この平板な、ゴヤ以外の誰かの作品であっても、一向に痛くもかゆくもないこの作を選んだについては、一つの重要な、と私に思われる理由があったからである。
この無邪気、かつ約束通りの平板な絵から、あたかもゴヤ以外の誰かが、永遠の精神の闇のなかに、その闇よりも一層暗い一つのトンネルをでも穿ったかのようにして、ここから十数年の歳月の後に、この『待ち合せ』の物思い・冥想形式から、暗い人間精神のトンネルの涯で、まことに異様な現実に達する結果になるからであった。
それは、無邪気で幸福な民衆の生活情景を描いているゴヤ自身にとっても、想像しがたい現実であったろう。彼は、一人の地下生活者を、彼自身のなかに内蔵していたのであった。
それは、いまのところは、まだ彼自身によっても認知されていない、同居者のようなものであった。
社会にあっても、また仕事の上のことでも、慣習と約束事を忠実にまもり、ひたすらに宮廷と貴族社会を仰ぎ見て向日心に燃え、そこへ自らを押し込むことに全精力を傾けている男のなかに、もう一人の地下生活者がいて、この男は、陽のあたる部分とはまったく関係なく、人間精神の闇のトンネルのなかをひたひたと歩きつづけているのである。ゴヤはまだ、その跫音にも気付いていない」

『医者』と題されたカルトン
「ここでもう一枚、『医者』と題されたカルトンを見てみたいと思う。
・・・
・・・、現代の眼から見て医者の表象としてはまことに異様なものであるが、実はこれが一八世紀スペインの典型的な医者の在り様なのであった。かたわらにおいてある四冊の本は、おそらくヒポクラテスと、これも西暦一世紀のギリシャの医学理論家であったガリエンの著作の、アラビア語からラテン語への重訳本であろう。当時は、なお、ヒポクラテス=ガリエンの体液説なるものが信じられていて、人間の健康はすべて体液のバランス、血と胆汁と黒胆汁と粘液のバランス次第であるということになっていた。従って、医者の役割は主としてこの体液バランスの世話をすることであり、だから瀉血や吸いフクベで血を吸いとることや、浣腸、嘔吐剤をのませたりすることなどであった。」

「・・・血をとることと、口と肛門から吐き出させること、これが医者の仕事であった。あとは患者に向って、ラテン語の呪文とも言うべき、警句のごときものを吹っかけておしまいである。
・・・
要するに、少しでも電い病気になったら、それでもうおしまいということである。一九世紀の半ばでも、マドリードでの死亡率は年間二八人に対して一人、ロンドンでは同じ頃に四二人に対して一人であったから、如何に医療というものが、他のヨーロッパ諸国と比べても劣っていたかが明らかになるであろう。・・・
医者たちは、民衆には恐れられていた。ラモン・デ・ラ・クルースの芝居のなかで、「人間の敵」とか、「(死の)大鎌」などとも呼ばれている。要するに血を取るか、吐かせるか、下剤をかけて浣腸をするか、それしかしないでいて、あとは効くとも効かぬとも万人にとってはっきりしない薬や膏薬を無限に飲ませたり、はりつけたりするだけで、薬ビンと膏薬の箱とが病人の部屋に一杯にごちゃごちゃしていさえすれば、死人は薬石効なく、神のお召しにあった、ということになるのだから、病人たるもの、それはたまったものではなかった。」

「ゴヤは、生涯に何度もの大病をした。このおしゃべり専門の「医者」のカルトンその他を描いていた頃、一七七八年のはじめ頃に重病にかかり、同年四月、サバテールにあてて「幸運にも助かった」と書き送っている。
彼は要するに、自分でなおしてしまった人だったのである。血を取ることと、吐かせることと、浣腸と、あとはラテン語の警句だけの、この火鉢にあたっている呑気そうな医者を見ていると、われわれは彼の「幸運」を神に感謝しなければならない羽目におちいる。」

彼の生涯にあっても幸福な時期に属すると言わなければならない
「ゴヤは、・・・、三〇歳のときから四六歳まで、一六年間にこの王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場のために、約六三点のカルトンを描いている。すへて、主題も大きさも、タピスリーに織り上げられて飾る部屋の壁も指定された上でのことてある。彼がそれになりたいと翹望(ぎょうぼう)してやまぬ宮廷御用の画家であることもまた、なかなかに容易なことではない。
ともあれ、彼はこれに成功をした。宮廷に入り宮廷画家になりたいという慾望と、彼自身がもっともよく熟知しているスベインの民衆の生旅情景を描くこととが、ここで幸福にもぴたりと一致して、頗る楽観主義的な、色彩豊かなカルトンを制作することが出来たのである。それは彼の生涯にあっても幸福な時期に属すると言わなければならないであろう。彼のなかに宿っている一人の地下生活者もまた、まだまだ眠っていてくれているのでもあったから・・・。
カルトンの仕事をはじめてまだ何年もたっていない時期に、すでに、

彼は活力ある仕事師であり、才能も機略も豊かで、つねに仕事の上での進歩が約束されている。

という賞め言葉をメングス師からもらっている。こうなればもう占めたものてある。・・・彼は一七八〇年、メングスべったりの『十字架上にキリスト』を描いて、とにもかくにもアカデミイの扉をこじあけさせたことも先に触れたところてあった。」

サンタ・パルバラの工場でのゴヤの評判
「・・・で、そのサンタ・パルバラの工場での評判はどうであったかというと、実はあまり評判がよかつたとは言えないのである。
特に一七七八年制作の、彼の傑作の一つである『盲目のギター弾き』などは、織り工にとっての甚だしい難題で、どうにもタピスリーに織りかねるという苦情が工場の監督官から出ている。

変幻きわまりない色調をもった光沢の色価はまことに扱いにくく、たいへんな時間と忍耐が必要となる。

まことにその通りげあったろう。
カルトンとは、要するに図案のようなものなのである。なにしろ一本一本の羊毛を染めた糸でもって丹念に、毎日ほんの少しずつ織って行くのであるから、あまり面倒で込み入った下絵、とくにあまり動きの要素の多いものは不向きなのだ。だから、たとえば、『日傘』のような静止した情景などは比較的に織りやすくても、『瀬戸物売り』などのように、馬は技術的に面倒だから省略してはあるものの、馬車がいて、馬車のうしろにいる従者の一人がのけぞって落っこちそうになっていたり、そういう動くものを前に置いて、そのまた前面の路上に瀬戸物をならべて売る、おまけに犬までが眠っているなどという複雑さわまりないものは、タピスリーには向かないのである。」

それは、すでに絵画である。カルトンではない。
「それは、すでに絵画である。カルトンではない。
特に、ここで工場側から文句の出ている、『盲目のギター弾き』の場合、音楽における音階のように、黒、赤、青、きわめて明るいブラウン、白、その白もたとえは陰の部分におかれた、絹靴下の場合と、陽光のあたっている女の前掛けの白の場合などでは、織り工の側としては糸の選択にさえ困ったであろう。それに厄介なことには、陰の部分に黒人の水売りさえがいる。
色調、それからその色の扱い、色の移行の仕方なども、まずもって単純、かつ単調でさえなければならない筈である。それがきまりである、約束事でもあった。
ゴヤは、調子がのって来ると、たちまちそれらの約束を無視してしまう。彼は彼の絵を描いてしまうのである。工場側が苦情を言うのも当然であろう。
この『盲目のギター弾き』の城合、苦情は認められて彼はカルトンを修正することを正式に求められている。修正後のものは、暗色系のものはすべて削って、明るい極彩色天然色カラー式のものになっている。」

そうしてこれが、彼の最初期の銅版画の仕事であった
「そうして、そのこと、つまりは修正を求められたことが、おそらく癇にさわったのであろう。彼はこの〝絵〞を銅板に刻み込んで、最初の、修正以前のものと思われる微妙な明暗のコントラストを強調している。
・・・
そうしてこれが、彼の最初期の銅版画の仕事であった。」

彼(サバティニの奴)は、出来のいいデッサンにとびかかって(もって行ってしまい)、ぼくは虫のように裸にされてしまった。
「この頃に、彼は友人のサバテールあてに手紙を書いて、次のように言っている。

彼(サバティニの奴)は、出来のいいデッサンにとびかかって(もって行ってしまい)、ぼくは虫のように裸にされてしまった。

サバティニというのは、王の建築と装飾の御用掛であった。
タピスリー工場のための注文仕事ばかりをさせられているあいだに、彼は自分の仕事を着々とやっていたのである。建築と装飾の御用掛には、わかったのである。彼のアトリエを訪れてみて、多くのデッサン ー 着色をしたものもあったであろう ー を見て、おそらくあっと声に出しておどろいたものであったかもしれない。サバティニ氏自身も、ゴヤをただのタピスリー工場に雇われている下絵描きの職人くらいにしか思っていなかったものであったかもしれない。建築と装飾の御用掛と言えば、美術については玄人中の玄人でなければつとまらない。またこの人は、ゴヤにとっての財布の掛け金でもあった。彼はいまだに、出来高払いで支払いをうけていたにしても。
だから、「虫のように裸にされてしまった」という言い方にも、なにやら得意満面のおもむきが匂って来ると思われる。・・・」

『瀬戸物売り』:民衆生活情景のロココ化としては最上のもの
「かくてわれわれの主人公は、一七七四年から一七七九年までの五年間に三五枚のカルトンを描いてサンタ・パルバラの工場に提出をしている。
このうち一七七九年の一月五日には、四枚のカルトンを王と王子、王子妃のの立会いのもとにお見せをするという光栄にあずかることになった。はじめて、あこがれの王とその息子夫婦のお手に接吻をすることになる。・・・」

「王一家がこのときに彼の作品を見て喜んだのも自然であった。このときの四枚のうち一枚は、例の『瀬戸物売り』であり、民衆生活情景のロココ化としては最上のものであったからである。
民衆の側から言わせれば、ほとんど無茶苦茶な、と言いたくなるほどのひどい生活 - それはもうほとんど飢餓状態に近かったのだ-を強いられていて、それをロココ化だの、牧歌化、田園詩化などされてたまるかい、ということになるのであったが、そこはやはり永遠の我慢をしてもらうより仕方がないであろう。
またこの四枚のなかには『マドリードの市』も含まれていたものと推察されるから、こういう金物などを地べたに並べて売るガラクタ市へ、わざわざ夫婦づれで出掛けている物好きな貴族は誰だろう、誰がモデルかね、と言った問答もおそらくかわされたものであったろう。」

一七七九年には、彼は合計一三枚のカルトンを描いている。そうして、ここで彼のカルトンの仕事の前半が終る
「一七七九年には、彼は合計一三枚のカルトンを描いている。そうして、ここで彼のカルトンの仕事の前半が終るのである。というのは、王は、前の年にフランスがイギリスに宣戦を布告したことにブルボン家として義理を感じて、この年、イギリスとの戦争をおっはじめてしまったので、タピスリーなどの贅沢産業に払う金がなくなってしまったからでもあった。ゴヤは出来高払いではあったにしても、とにもかくにも定収の道を一時的に断たれてしまう。」

この優雅な宮廷芸術の範囲内で次第に自分自身のものを持ち出して来ている
「・・・年代順にこれらのカルトン画を見て行くとき、彼がこの優雅な宮廷芸術の範囲内で次第に自分自身のものを持ち出して来ていることに気付かざるをえない。
これは狩猟の図であります、これはピクニックの図であります、といった叙述的なものから、次第に絵画そのものでありうるものへと、目立たぬかたちで移行しはじめるのである。
御時勢順応主義(コンフォルミスム)を通して、独自性(オリジナリティー)へ、という方式が次第に確立しはじめているのである。
彼はこの年の翌年、一七八〇年に、メングスそっくりの『十字架のキリスト』を描いてアカデミイに受け入れられたことは何度も書いたことであった。
この頃のアカデミイというものは、実はカルトンに風俗画、民衆生活情景などを描いている者を受け入れたりするものではなかったのである。・・・
してみれlば、風俗画カルトンを主要な仕事としていた一七七四年→一七八〇年のゴヤのアカデミイ入りは、異例なものか。そうではないであろう。それはバイユーをはじめとする、このコンビの長年の根廻しによるものであったであろう。」

宮廷の仕事、つまり官許の仕事に従事してはじめて風俗画を描き出した
「そうしてゴヤの場合において異例なのは、この男は、宮廷の仕事、つまり官許の仕事に従事してはじめて風俗画を描き出した、という点にあったのである。
しかも、一旦アカデミイに受け入れられると、今度は一転して肖像画を滅多矢鱈と制作しはじめるのである。
なぜ肖像画のことを今頃もち出したかと言えば、それまでは、いや一九世紀の半ばに到ってもマドリードのアカデミイは、肖像画というものを、高貴な芸術とは認めなかった。従って肖像画でアカデミイに受け入れられることはありえなかったのである。
ところがこの、われわれの主人公であるゴヤは、アカデミイに人ってから、ばりばりと肖像画を描きはじめ、ついにはアカデミシアンでありながら最大の肖像画家になってしまうのである。」

さらにもっと悪いことには、後日彼は”漫画”(カリカチュア)までを描きはじめる
「さらにもっと悪いことには、後日彼は”漫画”(カリカチュア)までを描きはじめる。アカデミイ会員にして宮廷画家である男が、『気まぐれ』(Los Caprichos)だの、『妄(=ナンセンス)』(Los Disparates)だのという、漫画を描くにいたった。ひそかな、私的な楽しみとして描くだけならばまだしもというものであろう。ところがこの男は、描くだけではなくて、これを出版して売りにまで出す。
もしこの順序が反対だったならば、彼は絶対にアカデミイ会員にも、また絶対に宮廷画家などに任命はされない筈である。」

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