ウツギ 江戸城(皇居)東御苑 2014-05-20
*明治37年(1904)
7月21日
・清国、会党夏延義、江西の楽平で挙兵。
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7月21日
・シベリア横断鉄道全線開通。
ペルミ~ウラジオストク間結び、敷設距離は8,314キロメートルで世界最長。
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7月22日
・東清鉄道の軌間改築工事、南山のさきの金州まで、8月1日、普蘭店まで、12日、瓦房店まで開通。
旅順支線は、8月1日営城子まで、8日長嶺子まで開通、第3軍司令部は青泥窪と直接鉄道で連絡できるようになった。
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7月23日
・旅順総攻撃準備。第3軍、旅順の前進陣地攻撃命令を下す。
26日攻撃開始。
30日までに双島湾東北岸から郭家溝にいたる線に進出、旅順包囲線を完成。
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7月23日
・満州軍総司令部(総司令官大山巌)、南関嶺の北、南山まで進出。
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7月23日
・義和団の乱償金問題に関する1904年の連盟公書に調印。
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7月23日
・清国の天地会、永福・永寧州占領。
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7月23日
・この日発行の博文館「日露戦争実記」第23篇に花袋が7月1日に送稿した「観戦私記」が掲載される。以後続いてこの雑誌に彼は蓋平、大石橋などの戦線に従軍した報告を書き送る。
「生は今ある事情の下に、暫時この私信のみを以て満足せねばならぬ境遇に遭遇致し候。得利寺の戦勝は金州南山にも増してわが興味を惹きしもの、これを記せし筆は実に三十余枚に余りぬ。されど今はこれを以て把つて諸兄に示す能はず、遺憾此上なく候。されどわが見たる得利寺の戦、いかで此まゝにわが胸にのみ包みてあらるべき。/請ふ聞け。
「わが軍は金州南山敵塁攻陥の後、全軍を挙げ、全速力を以て、北の方蓋平を指したるに候。これ、蓋し敵わが軍の金州を攻むるを諜知して、その大兵を南下せしめたるに基因することにて、予めこれに備へたるわが○聯隊及び新に上陸したる某○○は、それを防がんが為め、普蘭店以南の山地に堡塁を設け、塹壕を穿ちて以てこれに対せしに有之、わが主力は敵のわが堡塁を圧して進み来るを聞き、則ち疾風枯葉を捲くがごとき勢を以て、驀地(まっしぐら)に北進の途上に上りたるもの、是に於て、彼我の衝突は遂に免るべからざる勢と相成候次第に有之候。(略)」
以後、続いてこの雑誌に彼は蓋平、大石橋などの戦線に従軍した報告を書き送る。
ある時花袋は大石橋から外人居留地のある営口へ遊びに行き、そこの雑貨店の一隅でドイツ語とフランス語の本を見つけた。それはハインツ・トウオテの短篇集「死体マリイ」と、アナトール・フランスの「蜂姫」とであった。それを彼は買いとって、鴎外のところに持って行ってやった。
鴎外は「うん、これはありがたい」と言って、戸板を並べた上に白毛布を敷いたテーブルに載せ、蝿を追う払子を動かしながら読みふけった。
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7月24日
・週刊『平民新聞』第37号発行
・幸徳稿「与露国社会党書」の「イスクラ」(在ジェノヴァ、メンシェヴィキ)応答「露国社会党より」。 露国社会民主労働党機関紙『イスクラ』第65号(5月14日)は、その外国欄に、「ロシア社会主義者への日本社会主義者の手紙」と題して「与露国社会党書」(「平民新聞」第18号、3月13日)の全文を訳載し、それに『イスクラ』編集部の回答が付された。
この回答文書を7月24日付け『平民新聞』第37号に「露国社会党より」という見出しで全文を紹介。
「日露両国の好戦的叫声の間に於て、彼等の声を聞くは、実に善美世界より来れる使者の妙音に接する感あり。」
普仏戦争のときドイツのリープクネヒトやべーベルが、フランスのアルザス・ロレーン2州をドイツが併呑することに反対して、インタナショナルのために尽したが、日本の労働者階級の進歩的代表者の言動は、まさにそれにも劣らない功業といえようと日本の同志を誉める。
そして、日本の社会主義者の忠告に対しては、こう答える。
「力に対するには力を以ってし、暴に抗するに暴を以ってせざるを得ず」。
しかし、わが党がかく言うのは、虚無党やテロリストとしてではない。虚無党とはツルゲネフの小説から生まれて、ヨーロッパの上流社会が恐怖した空想にすぎない。テロリズムは不適当な運動であると認め、我々は社会民主党の結成以来、今日までこれと戦うことをやめなかった。だが、ロシアの上流階級はかつて道理の力に服従したことなく、また将来もそうするという多少の理由も見出せない、と。
しかし、この問題は今はさしたる重要事でなく、日本の同志がわれらに送ってきた書中にある一致連名の精神こそがもっとも重大なのである。わが党は満腔の同情を彼らに呈する。「軍国主義撲滅!万国社会党万歳!」
この後に、たぶん秋水の感想らしいものが付記されている。
「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す。然れども吾人がさきに、暴力を用ゐることに就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶終に暴力の止むを得ざる場合あると言ふを見て、深く露国の現情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず」
英文欄「銀行の国有」問題
「大阪の同銀行の破綻は銀行役員が個人的関係のある工場に、無分別な融資をしたためだといわれる。吾人はこれによって、銀行役員が銀行の資金をその個人的利益のために利用するのを防止するの、いかに困難であるかを容易に認め得る。もし銀行や保険会社の業務がこの伝で続けられるならば、預金者や被保険者はまったく安心できないであろう。おそらく政府は多大の熟練を要する事業を経営する上に、私企業のような便宜な立場ではないかも知れないが、しかし銀行業は既に煙草製造を国営化した政府にとって、決して困難な仕事ではない」
背景は、4月30日の八十九銀行の取り付け騒ぎ。
蜂須賀侯爵家の銀行として信用の厚い大阪最大の八十九銀行は、3万余円の手形交換尻不払いのために取付け騒ぎを起し、蜂須賀家の相談役芳川顕正、近藤廉平、松平康毅等が日本銀行・安田銀行に泣きついて救済につとめた。
銀行の破産騒動はこれ以降にも発生する。
政府の財政顧問松方正義や井上馨と腐れ縁のある松本重太郎の第百三十銀行が、放漫政策のために破産に瀕すると、元老の井上、桂首相、曽禰蔵相、松尾日銀総裁、阪谷大蔵次官、安田銀行の安田善次郎等は首相官邸に会同して救済策を協議。その結果、6分の高利を以てわずかに募債に成功した軍事公債のなかから、2分の低利、5年間据置き、今後10年間の返済という前代未聞の条件で600万円を松本に融資し、第百三十銀行の破産を食いとめるた。
なお、第百三十銀行は第2回国債募集に200万円の応募を申し込んでいた。
「平民社維持の方策」。「寄附金二千円」を募集。
明治38年1月29日の『平民新聞』終刊号(第64号)において金890円33銭の平民社維持金、および社会主義協会(明治37年11月6日、結社禁止)の委譲金73円31銭、合計金963円31銭の基金を有するに至る。
堺俊彦「平民日記」
「▲十八日(月)午後、大阪の婦人新聞記者にして社会主義思想を有せる管野須賀子氏来訪、氏は婦人矯風会大会に出席の為め、大阪支部を代表して来たとの事、兎にかく珍客の一人であった。序でに記して置くが、此の矯風会の大会には同志木下君が演説をやつて、最後に婦人問題の根本的解決を望むものは是れに依る外はないとて、平民新聞一枚を聴衆の眼前に示して壇を下つたとの事、追ひ々々婦人社会に此の主義の知られるのは愉快の至りだ。・・・」
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7月25日
・23日に行動開始した第2軍、この日、大石橋占領。
26日、営口占領。
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7月26日
・島崎藤村(33歳)、函館に向かう途中、青森で鳴海要吉(22歳、小学校教員)とその友人秋田徳三(早稲田大学性、のちの雨雀)に会う(妻冬子の父秦慶治から自費出版資金を工面してもらうための函館行き)。
秋田徳三は、この年6月「黎明」という小さい詩集を出した。それを鳴海要吉が藤村に送ってやった。藤村は、自分は詩壇を隠退したので、その詩集を蒲原有明に見せるとの返事を出していた。
藤村はこの2青年に好感をもった。鳴海要吉と秋田徳三は藤村に土産として林檎を贈った。
翌日、藤村は汽船で無事函館に着いた。冬子の父秦慶治は、娘婿の島崎の出版計画のために400円の出資を承諾した。
7月30日、島崎藤村は函館で、小諸にいた時に受け取った田山花袋の葉書への返事を書き、合せて自分の近況と文壇の様子を報じた。
「・・・今回はすこしく長き作(『破戒』)にとりかヽり、来年の春、小諸を去る迄に完結すべき見込にて、日々精励執筆致居候。
「頃日、沿岸の航路殆と断絶、津軽海峡のみ僅かに滊船を通し居候。浦汐艦隊は先の日津軽海峡を通過して太平洋方面に出で、この二三日は房州附近に遊戈しつつありとの報あり。その目的は商船撃沈にありとか聞く。あるひは小生が当地に滞在中、この函館沖に於て海戦を観るの機あるやも知れず。小生は猶数日この地にとどまり、それより信州の山家へ帰るつもりに御座候。
「文界の事別に報ずべきなし。戦争に関する小説類は数多く出づる有様なれど、傑出せるものあるを聞かず。戦争劇とても亦同様の状態に御座候。但、新聞紙に於る科学的記述体の戦報、戦評等を争つて読むの今日の習慣は、今後の著述界に注目すべき事象と思はれ候。
「東京にては戸川君一寸出京せるあり、久し振にて快談仕候。猶馬場君、蒲原君、小山内君、三宅君等にも逢ひ申候。斎藤君の病死は御聞及の事と存候。馬場君の話によれば臨終の光景等悲惨なる生涯に候ひし。先は右まで、余は後便可申上候。折角御自重祈上候。
七月三十日 函館にて 春 樹
録弥兄」
戸川秋骨は、明治女学校の教師をしながら東京帝国大学の文科大学選科に学び、卒業後、山口高等学校教授をしていた。夏の休みに上京中、ちょうど上京した藤村に逢った。
藤村は、函館の秦家に一週間滞在して、8月3日に函館を出発。帰路は鳴海・秋田に逢わず、5日に小諸に帰着。帰ってすぐ、彼はこの旅の間に得た見聞と、前年華厳の滝で投身自殺した藤村操の事件とを結びつけた短篇小説「津軽海峡」を書き春陽堂の「新小説」に送った。それは12月号に掲載された。
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7月27日
・チベットのダライ・ラマ、ラサから青海に逃げる。
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7月28日
・(露暦7/15)内務大臣バチェスラフ・プレーヴェ、社会革命党員(戦闘団サゾーノフ)に暗殺。
後任ミルスキー公爵。「政府と全ロシア」の和解を訴え、宗教上の寛容、地方自治拡大、辺境政策転換、出版の自由拡大を主張。
「ミルスキーの春」という束の間の雪解け。12月末迄。
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7月28日
・独、墺・ベルギー・スウェーデン・スイスと通商条約締結。
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7月28日
・独露、新通商条約締結。
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7月28日
・コロンビア大統領にラファエル・ルイエス(54)就任。独裁政治始る。
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7月30日
・平民社演説会。上州本庄町常盤座。
石川「社会主義」、木下「社会党の運動」、幸徳「戦争と社会主義」。
同日、茨城県土浦町で演説会。
西川光二郎「土地私有の弊害」、山口狐剣「社会主義の要領」。
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7月30日
・田中正造(64)、谷中村問題に専念するため谷中村に移り住む。寄宿先谷中村川鍋岩五郎方。同村字下宮に「悪弊一洗土地復活青年事務所」設置、買収反対派青年を結集して調査開始。
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7月30日
・仏下院、閣議の在バチカン仏大使館閉鎖決定(29日)を受けて、これを決議。
バチカンと国交断絶。反宗教的傾向を強める政府と、教会との対立がエスカレートした結果。
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7月31日
・「平民新聞」第38号掲載寄附者氏名。
北輝次郎(2円)、麻布の洋食店竜土軒(5円)、徳富蘆花(1円)、今村力三郎(5円)、松尾卯一太(3円)など。
名古屋での大杉栄の通信掲載。
「去る十九日当地に在住せる同志相会して茶話会を開きましたから、その模様を通信します。初めは中原氏宅にて開会のはずなりしが、同氏病気のため急に会場を石巻篁氏宅に移しました。来会者はわずか十三名に過ぎなかったが、石巻氏からの御馳走なる清新な果物をかじりつつ『いかにして社会主義者となりしか、現今は社会主義のためにいかに働きつつあるか』等について愉しく談り合い、終りに当日徴収の会費は全部御社の遊説費に充て、なお御社の新聞書籍等を売ってその収入をもこれに加えんと決議しました。(名古屋、大杉生、矢木生)」。
夏休みに父の出身地の親戚にでも行っていたのかもしれない。
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