2014年10月3日金曜日

1783年(天明3年)9月18日~10月11日 安倍清騒動 三国の米騒動 信州百姓の強訴 上州農民の強訴 松平定信(26)の家督相続 【モーツアルト27歳】

千鳥ヶ淵 2014-10-03
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1783年(天明3年)
9月18日
・スイス、数学者オイラー(76)、没。
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9月19日
・安倍清(あべせい)騒動。仙台城下、町人が米の値下げを要求して米商大国屋と安部清右衛門宅を打ち毀す。

安倍清右衛門は町人だったといわれるが、仙台藩に献金して士分に取り立てられ、その後もたびたび上金して400石の知行取に成り上がり、手腕を買われて藩の財政に関与するようになった。
彼は、藩の財政改善に腐心し、天明の大飢饉に際して領内の貯米を残らず江戸へ廻送して巨利を収めた。
それに味をしめて領内郡村の津留を行ない、米の買上げを図ったので、仙台城下に米が入らず、白米1升108文から128文、更に300文以上に暴騰した。
町人や家中の軽輩にも餓死者が出て、上級藩士も空腹のあまり町角で武士に似合わぬ買食いをする者も現われた。
ところが清右衛門は、御納戸金で買い上げた米を、金1両に2斗の相場なのに1斗8升で売り払い市民の激昂を買った。
9月19日、市民は大挙、安倍清右衛門の屋敷に押しかけ米の廉売を要求したが、清右衛門は逃げ隠れて要領をえないので、遂に屋敷を打ち毀した。
結局、清右衛門は改易に処せられた。
翌4年3月、釈迦堂の花見をあてこんで、大谷龍右衛門という役者が安倍清騒動をしくんだ狂言を演じて大当たりをとったが、4日目に禁止されたといわれる。
この騒動は、民衆に天災は政災であることを身をもって体験させた。
「此窮民に仁政あらば、右体の天災も降るまじきか」(『世事見聞録』)といわれる。
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9月19日
・モンゴルフィエ兄弟、熱気球飛行に成功
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9月23日
・三国の米騒動。
この年正月、前年1俵銀20匁程が33匁に高騰。しかも販売が途絶え物乞が出歩くようになる。
8~9月、米価は下がらず、米の抜売りが発覚。
この日暮、抜売りに関わった川端惣次郎・番匠屋七郎兵衛・平野屋勘兵衛の家が打毀される。他に新郷屋・池上屋平七・茶屋などの家が抜売りの疑いや塩買占め等を理由に少々壊される。
この夜は三国近くの加賀宮越の町家23軒も1千余の蓑虫に壊され、各地で騒然とした状態となる。 *
9月29日
・武蔵国本庄宿に呼ばれた川越藩役人は、五料関所の普請に関して元来は領主の任であるけれども今回は公儀御普請で行うことになった旨内示を受ける。
但し、砂が1尺程積もった旗本相給の下磯部・東上磯部・西上磯部3ヶ村の場合、同月22日に見分便根岸鎮衛一行の旅宿板鼻宿へ赴き、自力での田畑の開発困難を訴え、見分して欲しいと願書を差し出したが受け付けられていない。関所は別格扱いとされたようだ。
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9月末
・噴火して間もない頃、上州吾妻郡・碓氷郡・群馬郡の村々の飢えた人々が数十人ずつ、食べ物を求めて安中・板鼻・高崎・倉賀野辺の村々に押し寄せ、家々に乱入した。
この騒動はいったん収まったが、9月下旬、再び大勢の百姓が磯部・安中宿などの穀屋を打ち毀した。穀屋が米を買い占め、そのため米の値段が高騰していると彼らは判断していた。

辻善之助『田沼時代』
「信州百姓の強訴
天明三〔一七八三〕年九月の末から十月初に掛けて、信州において、また百姓の強訴があった。これはその頃、浅間山噴火が起って、信州から上野両国の田畠が悉く荒廃したので、農民らの飢渇を叫ぶ者多く、四、五百人から、千余人党を組んで、各々その領主の城門に集って、賑救を乞うた。しかるにその請が容られない。上野・安中の農民が殊に激しかった。そこで嘆き訴うる事三度に及んだけれども、領主から捗々(はかばか)しい返答もなかったので、農民らは憤って、城内へ押入ろうとした。止むを得ず、言い諭して漸々に引取らしめた。これに紛れて、近国の兇民どもが多数集って、党を組んで、無辜の民の家に乱暴に及んで、金銀・米穀・衣服・器具の類を掠め、九月から十月に及んで、殊に激しく、信州の小諸辺を劫掠して、まさに進んで上田城へ入ろうとした。城主松平左衛門佐忠済兵を以てこれを逐い、数十人を生捕った。残りの者は四方に逃げ散じ、これによって一揆が漸々静まった。
ここにおいて幕府は同年十一月の四日を以て、また令を発し、徒党を組んで、良民の家に放火しまたはその居宅を打毀(うちやぶ)らんなどと紙に書いて、壁に張、良民を劫(おびや)かす者が近頃しばしばあるようである。総て此の如き者があったならば、その村々はさらなり、近村の者どもその地に至り、徒党の頭を捕うべし、もし捕え得難き時には、その居所と姓名とを聞糺して、公領私領を問わず、その地の代官或は最も近い土地の代官に訴える可し、という令を出した。」

浅間山噴火後の村方の動きとして、7月8日の「山津波」後、被災村々に対し援助の手を差し伸べた近隣の人々の行為にも注目される。

根岸鎮衛『耳袋』によると、大笹村の名主長左衛門、千股村の名主小兵衛、大戸村の百姓安左衛門の3人は大被害を受けた鎌原村でかろうじて生き残ったものの途方にくれている男女93人を引き取り食事などを与えて介抱した。
少し落ち着いてからは小屋がけ2棟を作って住まわせ、麦・粟・稗などを少しずつ送った。
そして百姓は家柄を気にするものだが、93人はまことの一族と思うべしと、親族の契約をさせ、夫を失った女へは妻を失った男を取り合わせ、子を失った者へは親を失った子を取り合わせて新しい家族を作らせた。
長左衛門らは鎌原村だけでなく、ほかの村々も救済し、こうした行いが認められて褒美が与えられることになった。
3人は11月19日に出府し、それぞれ銀10枚が与えられ、その身一代の帯刀と、子孫まで苗字を名乗ることを許された。このほか原町の六兵衛と五郎兵衛にも銀3枚ずつが与えられた。

なお長左衛門はすでに9月の段階で幕府に願い出て、鎌原村の荒所の内、公儀御普請の行われない57町8反2畝3歩について、出百姓を募って再開発を計画している(「浅間焼一件留」)。
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10月
・上州農民の強訴
10月2日、上州の百姓たちは碓氷峠を越えて信州に押し寄せた。坂本宿・軽井沢宿で人を集め、追分宿で炊き出しをさせ、周辺の村々でさらに人を募り、岩村田藩内藤家の城下に至り、富家13軒を打ち毀した。大人数となった百姓たちはそのあと佐久平から小諸藩牧野家の城下に迫った。
小諸藩の記録によると、一揆の報は10月5日江戸に届き、翌日幕府へ報告され、鎮圧できなかったら鉄砲を使用してよいか伺いを立てている。

一揆勢は3日には御馬寄村で穀屋2軒、八幡宿で3軒打ち毀し、家財や衣類を散らかした。この頃には人数は1,500人ほどに膨れ上がっていた。
小諸城下は説得を受け通り過ぎたが、村方に向かいその後も狼籍を続けた。
6日には北方の上田藩松平家の城下へ向かおうとしたが、途中警戒していた上田藩兵に30人ほどが捕えられ、一揆は10日ほどで鎮圧された。

同3年冬から4年にかけておきた上野・下野・武蔵・信濃4ヶ国にまたがる大規模な打ち毀し。
直接の発端は、浅間山噴火による降灰で作付不能となった貧農らの爆発的な蜂起だが、商人・地主・富商を襲撃しているところをみると、上州絹一揆と共通する要素をもっていたとみられる。

杉田玄白も、「近年諸国の騒動ハ、皆々公民どもの徒党にして、所の領主へ要訴するにて侍りしが、是ハ夫に事替り、所の群盗の乱妨をなすなれバ、真の一揆の機(きざ、兆カ)しなりと、心有も心なきも皆々眉を顰(ひそ)めたり」とのべて、このころの一揆の変革的要素に注目し、「領主地頭の勢ひハ何となく衰へて下に権をとらる、に似たり」(『後見草』)と、幕藩領主制の危機が表面化したことを指摘している。

・松平定信(26)の家督相続。
この時、白河藩は表高11万石余に対し10万8,600石余の減収という状況であった。
彼は、家中に対し、「わが領内にたとえ一人の餓死者をだしても、国君の天職に背くことである」と宣言し、家中一体になって倹約の範を示すため、率先して私生活を極度にきりつめた。
食事は一汁一菜、衣服から寝具に至るまで全て木綿一式とし、侍女の数を減らし、居間および諸役所の畳は安くて縁のない琉球表にかえ、襖・障子も粗末な紙に張り替えさせた。

定信は勘定頭松村仙蔵を越後の分領に派遣し、1万俵の貯米を廻送させようとしたが、通路である隣領会津も凶作で、人馬の継立ては出来ないと藩役人から拒否された。
そこで、定信は会津藩主松平容頌(かたのぶ)に特使を急派し、便宜を図ってくれるように懇請し、ようやく廻米の目途がついた。

更に大坂・兵庫・浜松などの約6,950俵、会津6千俵、磐城平3千俵、二本松・守山各1千俵を、値段にかまわず買い集めた。
家中へは人別扶持(にんべつふち)として、家老から足軽にいたるまで一律に毎日男5合・女3合を、町村の難民には10日に1回ずつ1軒に3升ずつ与え、凶作の翌年は伝染病が流行するため、薬を下付した。
また、男女を問わず阿武隈川築堤工事に割のよい賃銀で働かせた。

翌4年の春の端境期には、江戸から稗・ふすま・挽割麦・あらめ・かます干物・にしん・干大根などを買い上げて白河に送らせた。
この結果、定信は「仙台溝では四十万、津軽領では二、三十万の餓死者をだしたにもかかわらず、わが白河領では一人の餓死者もなかった」と自讃している。

定信は、剛直な能吏を登用して藩政刷新につとめ多くの改革を実施した。
特に農政に重点が置かれ、備荒貯穀の施設はもとより、田畑の耕作技術を指導し、早稲の有利なことを教え、畑作には穀類を多くつくるように命じた。楮(こうぞ)・漆・桑などの加工農産物の栽培や植林をすすめたのも、農民経営の安定と合わせて藩収入の増加をもくろんだものである。
また大飢饉で減少した農業労働力を確保するために、貧農のあいだでロベらしのためひろくおこなわれた間引きを防止したり、越後の領地から女子を強制的に白河に移して配偶者の不足をおぎなった。
こうした努力が奏功したのか、定信襲封のさい、白河城下の農民数は11万1,016人であったのが、約10年後には3,500余人の増加をみたといわれる。

また家中に対して武芸・武備の奨励に力をいれ、白河城内に藩祖越中守定綱の神霊を祀って大鏡神と号し、毎年2月・8月の24、25両日に武芸祭・武備祭を行なって出陣の訓練をさせた。
これは士風振興という目標を掲げているが、近辺に百姓一揆などが起きた時に、すぐにその人数を鎮定に派遣することができるようにするのが狙いであった。
白河藩主として定信のあげたこのような治績は、かれの「名君」の声望をひろめることになり、幕閣入りの一つの条件を作ったが、この経験はやがて幕政改革を担当するにあたり、貴重な教訓として生かされることになる。
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・モーツアルト、「交響曲(第36番)ハ長調(リンツ)」(K425)作曲。
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・7月~10月(ザルツブルクとウィーン)、モーツァルトは意欲的にオペラ・ブッファ「カイロの鵞鳥」(2幕7曲)(K422)作曲に取り組むが、それに応じてヴァレスコは詞を作らず、作曲を断念。
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10月1日
・ナンネルルの日記
「(十月)一日。午前、ボローニャとブリンガーが訪ねてくる。午後、ロービニヒ、チェッカレッリ、ブリンガー、ボローニャ、トマゼッリ、フィアーラ、ファイナーその他の人たちが訪問。ジンフォニー一曲、オペラの四重唱曲、ハ長調のクラヴィーア協奏曲、アンリが協奏曲を一曲ヴァイオリンで弾く。ボローニャはアリアを一つ歌う。そのあと芝居に行く。よい天気。」
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10月11日
・(露暦9/30)エカテリーナ2世、ロシア・アカデミー設立認可。ダーシコワ総裁。
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