2014年10月29日水曜日

應徳4/寛治元年(1087)11月14日 藤原清衡・源義家連合軍、清原家衡・武衡の金沢柵を攻略(後三年の役終結)。 「寛治五年十一月十四日の夜、ついに落畢(おちおわん)ぬ。城中の家どもみな火をつけつ。烟(けむり)の中におめきののしる事、地獄のごとし」(『奥州後三年記』)

江戸城(皇居)東御苑 2014-10-28
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寛治元年(1087)
11月14日
・藤原清衡・源義家連合軍、清原家衡・武衡のたてこもる秋田の金沢柵を攻略(後三年の役終結)。

■後三年合戦第3段階
沼柵攻防戦で勝利した家衡勢は、叔父の武衡の応援を得て、要害堅固な金沢柵(横手市)に拠点を移す。
最終局面での戦いの構図は、義家・清衡連合軍に対し、清原氏の有力者武衡が家衡に加担したことで、かつての安倍と清原の因縁の争いという側面を有するにいたる。

義家は、この年寛治元年(1087)春から夏にかけて準備をすすめ、「国のまつりごとをとどめ」て総攻撃を開始。
同年9月、数万騎の兵力を動員し、金沢柵へ進撃。しかし、弟新羅三郎義光の来援もあったが、戦いは難航。
この間、義家は清原氏との戦いを俘囚清原氏の国家への反乱と報じ、追討の官符を申請するが、政府はこれを認めなかった。
長期戦の様相を呈したこの戦いも、兵糧攻めにより11月14日金沢柵は陥落。
「煙の中にをめきののしる事地獄のごとし」という惨状であった。

義家は、家衡・武衡をはじめ主な郎等4人を臭首し、翌月には陸奥平定の国解を進め恩賞を申請。
しかし、朝廷はこれを私戦とみなし賞をおこなわず、翌寛治2年正月には、藤原基家を陸奥守に任じた。

■力攻めから兵糧攻めへ:
出羽は元来、清原氏の拠点でもあり、仙北3郡の一族を結集しての必死の抵抗だった。単純な力攻めでは、攻撃する側の損害が広がるばかりだった。陸奥方面からの義家軍への兵端の確保も大きな課題だった。
そんななかで、義家は戦略を兵糧攻め(持久戦による金沢柵の孤立策)に転換する。
提言したのは吉彦秀武。
清原氏内紛の契機となった人物で、出羽に住した秀武は、金沢柵の難攻ぶりをよく知っていた。
「吉彦秀武、将軍に申様、城の中かたく守りて御方の軍すでになづみ侍りにけり。そこぱくの力を尽すとも益あるまじ、しかじ戦をとどめてただまきてまもり落さん」(城中の守りが堅固で、戦闘は膠着し苦戦している。これ以上の兵力投入は無益なので、戦闘を止めて、包囲して陥落させてはどうか)と提案。
「糧食尽きなば、さだめて身(おの)づから落ちなむという。……二方は将軍これをまく、一方は義光これをまく。一方は清衡・重宗これをまく」(兵糧が尽きれば、おそらく落城するだろう。だから、四方のうち二方を義家が、一方を義光、そして一方を清衡・重宗が包囲した)。

「重宗」は、名から推して争乱勃発当初、清衡の親族として登場した重光と近い人物と思われる。重光は、清衡に「一天の君と雖も怖るべからず、況や一国の刺史(しし)をや」と清衡に進言し、義家と戦うことを主張した人物で、途中死去している。

清原氏内部ではこの重宗の存在が象徴するように、結束は必ずしも一枚岩ではなく、清原一族の血縁から最も遠い清衡が、金沢柵包囲戦に参加していることは当然としても、清原氏内部でも吉彦秀武・清原重宗が、家衡・武衡に敵対している。

族外の清衡に秀武・重宗などの清原一族が加担したことからすれば、この戦いは清原氏内部の族縁対立に基づいていたわけで、義家の介入は火に油を注ぐことにつながった。
義家はこの後三年合戦を公戦と主張し官符を申請したが、政府はこれを認めず私の戦いとした。、前九年の安倍氏の場合とは異なり、清原氏は、官物の対捍(たいかん)をふくめ、国司への敵対行為をしたわけではない。

金沢柵攻防戦は、兵糧攻めへの戦術転換により新しい局面を迎えた。
迎撃する家衡側は義家軍を攪乱するため、”言葉戦い”をさかんに仕掛けてきた。
『奥州後三年記』では家衡の乳母子(めのとご)千任(ちとう)は義家を罵倒している。
「お前の父頼義は、貞任・宗任を打倒できずに名簿をささげ、故清将軍(清原武則)のもとに援軍を求めてきた。その力添えで貞任たちを滅ぼすことができたのにもかかわらず、その恩義を忘れ相伝の家人(けにん)として、重恩の主君をせめるのは不忠不義の極みだろう」と。
『奥州後三年記』の場面。
「汝すでに相伝の家人としてかたじけなくも、重恩の名をせめたてまつる不忠不義の罪、定めて天道のせめをこうぶらんか」。
怒った義家は千任の生捕を命じた。金沢柵陥落後、千任は義家の前に引き出され、金箸で舌を切られ処刑される。
義家はまた捕虜になった武衡にこの件を切り出し、
「軍の道にあっては、勢を借りて敵を討つのは古今の習のはずだ。そのためお前の父武則が官符により、わが父頼義将軍に参じたのも当然のことではないか。それを先日僕従の千任が名簿があるなどと称したが、そんなものがあるなら主人たるお前のもとにあるはずだろう。早く差し出せ」と語ったという。「武則えびすのいやしき名をもちて、かたじけなくも鎮守府将軍の名をけがせり」とは、義家の気持を代弁した。

金沢柵の陥落
「寛治五年十一月十四日の夜、ついに落畢(おちおわん)ぬ。城中の家どもみな火をつけつ。烟(けむり)の中におめきののしる事、地獄のごとし」(『奥州後三年記』)。
(概略)
糧道作戦が功を奏し、武衡が義光を頼り降伏を願い出る。
義光の温情を期待してか、義光を城中に招き、真意を説明したいと申し出る。
しかし、兄の義家はこれを許さず、義光の郎等で武勇の誉れ高い藤原季方が義光の名代として派遣される。
季方は武衝と面会し、その勇者ぶりを人々に印象づけたという。

武衡は金沢柵陥落のおり、城中の池の中に身を隠していたが発見された。
家衡は下郎に紛して逃亡をはかったが、県小次郎次任(あがたのこじろうつぎとう)なる人物に誅され義家のもとに首級が持参された。

武衡の処遇に関しては、義家と義光の間で意見の対立があった。
義光:
降人(こうにん)として捕えられた人間を、この上に排するとは合点が行かぬ。武衡の命を助けて頂きたい。
兵の道においては、降人たる者を宥すことは古今の例でもある。武衡一人をあえて頚を切ろうとする心底が推察しかねる。
義家:
〔爪をはじきつつ(意に違う所作を見聞したときの行為)〕降人と申すは、戦場を逃れて人の手にかからず、その後に罪を悔いて自ら降じた者のことをいう。かつての安倍宗任がそうだ。この武衡は戦場で生虜され、自分の命を惜しむ輩である。それをどうして降人とよべるか。

義家・義光の問答は、「降人」の定義が争点となる。
義光は、陥落以前に降伏交渉に臨んだ前歴を考慮して、戦意喪失の武衝は降人と同じであるとの立場。
義家は、抗戦して捕縛されたものは、降人たり得ないと主張。
兵の道という戦場作法からすれば、義家に分がありそうだが、そこには清原嫡惣家の誅減という既定方針があった。義家には積年の怨みが強く残っていた。

■『奥州後三年記』に義家伝説
【新羅三郎義光の来援の話】
義家の苦戦を知った弟の義光は、「身の暇を給いてまかりくだりて死生を見候わん」と申し出たが、許されず単身奥州に下向し、義家と対面。義家は大いに喜び義光に対し、「君已(すで)に副将軍となり給わば、武衡・家衡が首をえん事、掌にあり」と語ったという。

【大宅光任、出陣を見送る話】
大宅光任は80歳の高齢だったために、国府に留まることになった。頼義時代からの郎従であった光任は将軍の馬の轡に取りすがり、涙をぬぐいながら「年のよるという事は口惜しくも侍るかな」と嘆き、従軍できない辛さを語って人々の哀れをさそったという。

【剛臆(ごうおく)の座の話】
金沢柵を攻略したおり、義家は将兵の士気の高揚に力を尽した。義家は戦闘にさいし、勇敢にふるまった者と臆病な行為をした者との二つの座(「剛の座」と「臆の座」)を定め、将士たちのプライドを鼓舞したという。
そうしたなかで、義光の郎等の藤原季方は常に剛の座につき、一度たりとも臆の座にはつかなかった。しかし末割四郎惟弘(すえわりのしろうこれひろ)は剛の座についたことがなかったために、意を決し、剛の座につくべく戦場に赴いたが、先駆けをして敵陣に向ったものの、敵の矢が頸骨に当り戦死した。不様にも惟弘の頸から飯つぶが出てきて人々の嘲笑の的となった。義家はこれを聞き勇なき者の死様を指摘するとともに、勇者たる者の心構えを説いたという。

【右眼を射られた鎌倉権五郎の話】
金沢柵での逸話で、16歳で出陣した鎌倉権五郎景正(景政)は、敵の矢で右眼を射られたものの敵陣に突撃し、帰還後に仰向けに倒れた。
同じ相模出身の三浦為次が、景正の矢を抜こうと、草鞋で顔面に足をかけたところ、無礼に怒った景正は刀を抜き為次を刺さんとした。為次はこうした景正の剛勇に感じ、膝をかがめて膝で顔をおさえ矢を抜いたという。

【雁の乱れで伏兵を知った話】
金沢柵攻略中、飛び行く雁の列が乱れたのを見た義家は、先年兵学者の大江匡房から学んだことを実践した。「兵(つわもの)ノ野ニ伏スル時ハ雁列ヲ破ル」という話を想起し、部下の兵に付近の野を探させたところ、30余騎の敵兵が潜んでいるのを見つけ討ち取ったという。
かつて大江匡房は義家を評して、「器量はよき武士の、合戦の道をしらぬ」と語ったことを謙虚に受けとめ、兵学を学んだ成果でもあった。武の道ばかりで文の道に暗かったならば、伏兵のために敗北し武衝の術中に陥ちるところだったと、義家は語ったという。鎌倉権五郎の話とともに、戦前の国定教科書などに必ず登場する有名な話。

■伝説の深層 - 義光下向のこと
官職をなげうって奥州に参陣した義光の行為は、美しき兄弟愛の物語とされる。
『吾妻鏡』で、奥州から頼朝のもとに参じた義経について、「今の来臨もつともかの佳例(かれい)に協(かな)う」(治承4年10月21日条)と語り、後三年の世界が投影されている。
『源平盛衰記』他の軍記作品でも必ず顔をのぞかせる「天下の美談」(『源威集』)でもある。

・辞職ではなく罷免
『為房卿記』に「身の暇を申さず、陸奥に下向す、召し遣わすといえども、巳に参り対せず、よって解却(げきやく)せらるなり」(寛治元年8月29日条)とある。
辞職を許されなかった義光は、許可を得ずに奥州に赴いたため「解却」されている。

・奥州下向の真の理由
この1年前に朝廷では義家に代り、弟の義綱の奥羽派遣のことが議された(『後二条師通記』応徳3年9月28日条)。関白藤原師実も義綱を召し、奥州の合戦のことを問うたとの記事もある(『後二条師通記』応徳3年11月2日条)。

義家の暴走に対し、弟の義綱を対抗勢力として用い牽制・鎮圧しようとしたが、結果的には、河内源氏内部での抗争を拡大することにもなった。強大化しつつある義家の武力を制するための人事と考えられる。
一方、奥州の義家には、義綱派遣の情報が入っていたと思われる。この時期、義家が冬期もかえりみず出羽の沼柵を力攻し失敗したのも、どうやら政府側の状況を察知した義家のあせりがあった。
こうした諸点を考え合わせると、義家からの義光への来援打診の可能性も否定できない。

義光にとって奥州下向には、軍事貴族として地域基盤の拡大が意図されていた。
義光と常陸北部との関係だ。陸奥の南に位置する常陸国久慈郡佐竹郷を基盤とした雄族佐竹氏は、この義光を流祖としている。
義光と常陸の関係は、前九年合戦以来の因縁によると思われる。父の頼義と常陸大操氏の致幹(むねもと、宗基)の関係も(致幹の娘と頼義との間に生まれた女は、清原真衝の養子成衡に嫁した)基盤となっていると思われる。
致幹の弟の清幹(きよもと)の娘と義光の子義業(よしなり)との間には昌義が誕生し、これが佐竹氏の祖となっている。後三年合戦の終了後、義光と常陸との関係を語る史料は少なくない(『殿暦』長治2年2月6日条、『永昌記』嘉承元年6月10日条)。この点を考慮すれば義光の奥州下向には、奥州とこれに隣接した北関東への勢力扶植という思惑があった。義光の下向は単純な兄弟愛の所産ではない。"

・合戦後の義光
後三年合戦後は刑部丞などに復帰(『尊卑分脈』)。
康和年間(12世紀初頭)には、常陸などの北関東を中心に拠点経営をすすめていた(『殿暦』長治2年2月18日条)。
『佐竹系図』『古事談』(第一「王道后宮」)、『十訓抄』(第九)などからも、義光が陸奥国の菊多荘(勿来関付近)の所有をめぐり、白河院の近臣六条顕季と争い、院は顕季の身の安全を思ってこれを放棄させ、その恩義により、義光は顕季に名簿をさし出し臣従を誓った。
義光がこの常陸に接した陸奥南部の菊多荘にこだわったのも、義光の北関東方面での地盤形成と無縁ではない。
顕李と義光がその所領をめぐり対立関係にあったことは、両者の領有権が同質のものであったことを示す。
その点では、義光のような軍事貴族(棟梁級の武士)が保持する所職は、常陸国のような地方にあっては、郡郷司職や下司職とはならず、より上位の領有権となったと理解できる。

また、藤原為隆の日記『永昌記』には、この時期、常陸国での義光と義家の三子義国との闘諍事件が見える。
「常陸国合戦の事……義光併びに平重幹等の党は東国に仰せこれを召し進ましむべし、義国は親父義家朝臣をしてこれを召し進ましむ」(嘉承元年6月10日条)。
ここに登場する義国は義家が後三年合戦の下向途中、ないしは、下野国司在任中に同国の足利在の領主足利基綱(秀郷流藤原氏)の息女との間に生まれた子とされ、のちの新田・足利両氏の祖となる人物である。
ここでは、叔父・甥という源氏一門同志での勢力圏の争いが起きている。その背後には常陸には義光や大掾流の重幹の勢力が、下野は秀郷流の足利の勢力があり、その両者の対立が「常陸国合戦」をまねいた。

ちなみに源氏の王朝的武威は、東国各地の豪族的領主との統合に促進的役割を持った。
常陸の大掾流平氏や、下野の秀郷流藤原氏と源氏との関係がこれである。
少し時期は下るが、武蔵における秩父平氏と為義の子義賢(義仲の父)や上総平氏と義朝(頼朝の父)との関係も同じ。
この時期、義家と義光の関係は、右の点から推しても良好な関係が持続していたとは断言できず、義綱の問題をふくめ複雑な関係が形成されつつあった。

■鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ)の世界
金沢柵の戦闘中に右眼を射られながら奮戦した武勇が語り草となり伝説化され、それがさらに御霊(五郎)信仰とも結びつく。
「生年十六歳にて、右の眼を射させて其矢をぬかずして、答の矢を射て敵をうち、名を後代にあり、今は神と祠られたる鎌倉の権五郎景政が四代の末葉……」と、『保元物語』の大庭景能(かげよし)兄弟が名乗りあげる場面は、大庭一族の祖たる景正(政)の位置づけを示す。源義朝とともに保元の乱に従軍した大庭一族の祖が景正だった。
大庭景能・景親(かげちか)兄弟は、その後、頼朝挙兵にさいしては景親が平氏に参陣したことで、兄弟敵対の関係となる。大庭氏は神奈川県藤沢市の懐島(ふところじま)を拠点とした鎌倉党の一族で、ルーツは良茂(よしもち)流(良文(よしぶみ)流とも)平氏とされる。

源氏との因縁は、流祖の権五郎景正の後三年合戦以来であるが、頼義が相模国守となったことが、その主従化を促進させた。景正が眼を射られたおり、これを抜こうとした三浦為継(次)もまた良茂流(良文流とも)に属した。
良文・良茂流は相模に拠点を有し、景正も為継もともに「相模国住人」として義家に従軍した。
そこには開発所領が近接し相互に対抗関係もあったはずで、矢を抜くためとはいえ、土足の為継の所為を不名誉と怒った景正の心中には、ライバル意識も潜んでいた。

為継は三浦郡を拠点とした一族で、他方の景正は鎌倉・高座郡を本拠としていた。
『水左記』(源俊房の日記)によれば、前九年合戦後の承暦3年(1079)、相模国住人権大夫為季と押領使景平とが合戦し、為季が景平を殺害したため、景平一族は「数千軍兵」をもって為季を攻撃したとされている(同年8月30日条)。

後三年合戦での両一族の従軍は、そうした対立を封印した形でなされた。
この両一族は、その後の義朝の時代にも対立・競合の事件があった。

大庭御厨(みくりや、伊勢神宮の荘園のこと)事件
天養元年(1144)相模の鎌倉を拠点とした義朝郎従が、鵠沼郷一帯の大庭御厨に乱入したもので、三浦吉次・吉明などがこれに加わっていた。
大庭御厨は、景正が長治年中(1104~1106)に高座郡大庭郷を開発・寄進したことに由来する。その後30年を経てこの事件が勃発した。事件当時は景正の孫景宗が御厨の下司(げし)の地位にあった。
その後、この両者の対立は解消されたらしく、保元の乱では義朝とともに従軍した。大庭景能は景宗の子。
後三年合戦や保元の乱のような大きな戦争は「住人」相互が生み出した敵対関係を一時的に解消させたようだ。

■その他の義家の従者たち
大三大夫光任(だいさんだいぶみつとう)は80歳の老武者として紹介されている、『陸奥話記』に登場する大宅光任と同一人物。
この子に当るのが光房で、「傔杖」(陸奥国守の護衛の官人)の肩書を有した。駿河国の出身で父子ともども頼義・義家に仕えた。光房は金沢柵陥落後に武衝の斬首を命じられた人物。
光任・光房が駿河出身であった点は(『中右記』天永2年8月20日条)、頼義以来の源氏の家人化ルートを考えるうえで重要。光房は相撲人(すまいびと)として『中右記』に見えている。
康和4年(1102)7月28日に鳥羽殿で左右の相撲人の催覧があり、右方の「最手(ほて)」(横綱格)としてその名がみえる。光房は義家の郎等で「すこぶる強力の聞こえあり」とされた。後三年合戦に参加した光房は13歳であり、この時期には30代の壮齢だった。

光房の例でもわかるように、義家のような武門の郎等には、騎射のほかに相撲などの格闘技に秀でた強力の者の存在も指摘できる。いわば職能としての武芸も武士たることの要素だった。
腰滝口季方(こしたきぐちすえかた)は、剛の座の勇者として知られ、滝口武者としての官歴を有した。その名は『十訓抄』(第十)にも見える。『百錬抄』には源氏の内紛事件で、義家の嫡子義忠謀殺事件に関与した人物として、義綱が謀主とされた。季方はその義綱の三男義明の乳父であったという(天仁2年3月16日条)。秀郷流藤原氏に属し、その父季俊は前九年合戦で、貞任の首を京送した人物である。

藤原資通(すけみち)は『尊卑分脈』に見える山内首藤氏の助道。父助清は「三河国住人」とあり、その子孫に為義・義朝に従軍した鎌田通清・正清が、さらに保元・平治の乱で活躍した山内俊通・俊経がいる。秀郷流藤原氏の流れに属し、三河・尾張・相模を中心に勢力を拡大していた。「山内首藤系図」(『群書類従』所収)には、その姉は「八幡殿乳人」とあり、資道(通)と義家との関係が乳母関係にもとづいていたことも推測される。

源直(みなもとのなおし)は、嵯峨源氏にルーツを持ち、『尊卑分脈』には源宛(あつる)を祖としている。宛は、『今昔物語』(巻25-3)に見える平良文と「兵(つわもの)」のいくさぶりを象徴した。宛の子は渡辺綱(わたなべのつな)で、源頼光の四天王と後世に伝説化された人物である。綱の子の久(ひさし)は鎮西の松浦党の祖とあおがれる人物で、直はその孫にあたる。
『尊卑分脈』では「宛-綱-久-貞-直」という流れになり、直を「相撲名人」も注記している。

義家の郎等を中心に『奥州後三年記』に見える武士たちを概観すると。
①東国出身が多く、三河・駿河・相模といった東海道諸国が目立つ。
②大宅光房や源直が「相撲人」でもあったように、職能系の武芸人が少なくない。
③父子にわたる臣従化が多い。
①②は、源氏の郎等化が東国国守の歴任により促進されたこと、相撲人・滝口武者などとの主従結合も、軍事貴族たる源氏の中央での人脈が、大きかったことにもとづくもの。
③の父子にわたる主従関係は、頼義の前九年合戦での従軍が画期である。かれら従者たちの多くが諸国の「住人」と表記されている。「住人」は領主の別称である。

戦闘の形態
前九年の頼義、後三年の義家ともに主要な戦闘は秋から冬場であった。
従来指摘されているところでは、国守や鎮守府将軍の任期・任限の問題が大きく、その結果、不利な力攻めを行ったとされている。
大量の軍勢を動員しての攻撃は、輜重問題からしても不利で、頼義・義家ともに当初の戦闘では敗北している(前九年の黄海合戦、後三年の沼柵攻防戦)。
しかし、両戦争の最終局面での戦闘は、いずれも秋~冬の時節だった。
任期の問題もあったし、義家の場合は義綱派遣計画とも関連して戦闘の既成事実化が大きかった。
しかし、一番大きいのは兵力の確保だった。
後三年の金沢柵の攻防が長期包囲戦であったことは、わが国の戦争史上の最初のものであった。
それを可能にした条件は?
戦闘の中心勢力ともいうべき東国の「住人」たちと、これに従う兵力の多くは、種々の勧農業務を完了した段階での戦闘が現実的であった。
千人単位の武力動員には、一般民衆からの戦闘員確保が必要で、秋~冬の時節が選ばれた。

「随兵(ずいひよう)」
戦闘の中心である「住人」勢力は、それぞれが「随兵」を有しており、かれらは農民を軸として動員された軍事力とは別個の存在で、質的に区別される武力だった。
『陸奥話記』では、相模出身の佐伯経範の「随兵両三騎」が、経範の戦死に臨み「陪臣と云うといえども、節を慕うことはこれ一なり」と語っている。
「随兵」(=陪臣関係)が具体的合戦のなかで登場する早い例として、11世紀前半の寛仁3年(1019)刀伊入冠事件をあげることができる。
刀伊侵入にさいし、迎撃した側が①「府無止武者(ふのやんごとなきむしや)」(『小右記』寛仁3年4月14日条)とよばれる戦闘集団と②筑前・肥前などの「住人」系の武的集団により構成されていたこと、③そして前者について恩賞授与にさいし藤原友近とともに「友近随兵」として紀重方(きのしげかた)なる人物も列挙されていたこと等々から、この段階には地域レベルでの「住人」の誕生にくわえて、「随兵」の存在が注目されている。
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