この年
・藤原宗忠は伊勢神宮に公卿勅使として下る。
近くに私領のある平正盛が鈴鹿関においてこれを接待する。
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・摂関家忠実の荘園形成。
この年、摂関家忠実年の祖母である京極北政所麗子(れいし)と後三条皇女で堀河天皇中宮であった篤子(とくし)があいついで没し、遺領「冷泉宮領」「堀河中宮領」は忠実の管領するところとなる。
また、この時期、かつて頼通の荘園で、没後に分割されていたものも、すべて手中におさめている。
頼通の時代に大宰府府官平季基(すえもと)が開発・寄進した島津荘は、忠実の時代に大幅に拡大し、やがて薩摩・大隅・日向の三ヶ国にまたがる八千町歩の大荘園に成長していく。
また、この頃、九州東部に散在する宇佐八幡宮領が摂関家領とる。
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・源(新田)義重、誕生か。
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・ヘンリ1世、ロチェスタ司教ラルフをカンタベリ大司教に任命。
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・ヘンリ1世、長女マティルダ(12)を神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世(33)に嫁がせる。
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・ヘンリ1世、教皇カリクストゥス2世にノルマンディー公領支配を認めさせる。外交的成功。
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・ケルン大司教がライン地域の反乱を扇動、内乱発生。
皇帝ハインリヒ5世、フリースラントに勝味のない遠征。司教達は皇帝ハインリヒ5世に敵対的もしくは冷淡。
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・カスティーリャ王国アルフォンソ6世重臣アルバル・ファーニェス(アルフォンソ6世没後、トレード大司教ベルナールと共にトレードを守っていた)、キリスト教徒間の争いでセゴビアで殺害。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、サラゴーサに近いエル・カステリャールよりサラゴーサの南の町(ピタルケ、ベルチーテ、モレーリャ)攻略。ガスコーニュ人・ノルマン人の十字軍が参加。
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・ムラービト朝コルドバ総督マズダリー、トレード攻撃、撃退される。バルセローナを攻撃の途中のマルトレル近くで敗死。
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2月14日
・民間の摺衣(すりごろも)着用や博打を禁止。以後、摺衣は高貴な者の着用となる。
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2月25日
・甲斐の運上物、駿河の者に奪われる。
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3月
・権中納言藤原宗忠の子宗成が、小野宮の子孫藤原顕仲(あきなか、実資の養子資平の孫)から材木と引換えに「小野宮記」日記41巻を購入、白河法皇が見たいというので奏覧。
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6月7日
・京で地震。19日にも。
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6月27日
・権中納言藤原宗忠、若狭守に付して強盗10余人逮捕の旨を白河法皇に報告(「中右記」)。
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6月29日
・白河法皇の御所の鳥羽殿の車副、刃傷され搦取られる。これを沙汰するようにとの院宣を若狭守高階宗章が奉る(「中右記」)。
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7月
・バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世(位1076~1096)率いるカタルーニャ軍、ピサ海軍支援によりバレアーレス諸島イビーサ島(デニア沖)攻略。
翌年1115年、マリョルカ島(マジョルカ島)攻略。イスラム海賊退治の十字軍、被害者のジェノヴァとピサ及びカタルーニャやプロヴァンスの有力者が参加。後、マヨルカ島パルマを包囲・攻略、占領せず。
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7月6日
・延暦寺に山上で武器を所持することを禁じる院宣が出される。
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8月3日
・ 皇居大炊殿、焼失。
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8月16日
・上野国国司、藤姓足利家綱を訴える。
源義国と源為義、家綱を自分たちの郎党ではないと主張。
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8月16日
・権中納言藤原宗忠、白河法皇の所に行く。物忌により若狭守高階宗章に付して奏上(「中右記」)。
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9月
・アレッポの宦官ルウルウ、狂気の王アルブ・アルスランを殺害。故リドワーン王のもう1人の息子(6)を王位につける。
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11月9日
・石清水と祇園の両社の神人が乱闘。
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11月29日
・白河法皇の発願で建立した法勝寺の新阿弥陀堂の供養。
弥陀尊像9体は越前守藤原顕盛が作ったもの。また若狭が花筥を調備。
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永久3年(1115)
聖ベルナール:
ディジョン近傍フォンテーヌ城主の子として誕生。シャティヨン・シュル・セーヌのサン・ヴォルル修道参事会で教育。教皇エウゲニウス3世(位1145~1153)はシトー会出身で、ベルナールの弟子。
コンラート3世:
シュヴァーベン大公フリードリヒ弟、ホーエンシュタウフェン朝創始者。1093~1152、対立王1127~1135、ドイツ王1138~1152。
この年
・奥州藤原秀衡、鳥羽上皇命で平泉羽黒山本堂を再建。
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・この頃、スコットランド北部のマリ、西部のマーンズの反乱。アレグザンダー1世の過酷な鎮圧。
・この頃、スコットランド北部のマリ、西部のマーンズの反乱。アレグザンダー1世の過酷な鎮圧。
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・クレマンとイヴラールの兄弟、ソワッソン司教法廷で神明裁判により異端判決。処置をボーヴェの教会会議で決定するとして投獄。市民、聖職者の弱気を恐れて2人を町の外で処刑。
・クレマンとイヴラールの兄弟、ソワッソン司教法廷で神明裁判により異端判決。処置をボーヴェの教会会議で決定するとして投獄。市民、聖職者の弱気を恐れて2人を町の外で処刑。
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・ソワソン会議。ルイ6世、トマ(マルル城主)の鎮圧を決定。
・ソワソン会議。ルイ6世、トマ(マルル城主)の鎮圧を決定。
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・聖ベルナール(25、1090~1153)、シトー会修道院長ステファヌス・ハルディングに命じられクレールヴォー修道院開設。
・聖ベルナール(25、1090~1153)、シトー会修道院長ステファヌス・ハルディングに命じられクレールヴォー修道院開設。
この時、シャロン・スール・マルヌ司教ギョーム・ド・シャンポーがベルナールを「司祭」に叙階。最初の冬はとりわけ厳しく、シャロン司教ギョーム・ド・シャンポーが規則を緩め辛うじて一同の餓死が免れる。
聖ベルナール:
ディジョン近傍フォンテーヌ城主の子として誕生。シャティヨン・シュル・セーヌのサン・ヴォルル修道参事会で教育。教皇エウゲニウス3世(位1145~1153)はシトー会出身で、ベルナールの弟子。
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・ハインリヒ5世、ホーエンシュタウフェン家コンラート3世(22)をフランケン大公(マインツ~フランクフルト~ヴュルツブルク~バンベルクのマイン川流域)に任命。
・ハインリヒ5世、ホーエンシュタウフェン家コンラート3世(22)をフランケン大公(マインツ~フランクフルト~ヴュルツブルク~バンベルクのマイン川流域)に任命。
コンラート3世:
シュヴァーベン大公フリードリヒ弟、ホーエンシュタウフェン朝創始者。1093~1152、対立王1127~1135、ドイツ王1138~1152。
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・ルッカ、コンスル制成立。
・ルッカ、コンスル制成立。
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・頃、フィレンツェ、自治体制確立。周辺諸地域に対して勢力を拡大し始める。
・頃、フィレンツェ、自治体制確立。周辺諸地域に対して勢力を拡大し始める。
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・バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世、バレアーレス諸島マリョルカ島(マジョルカ島)攻略。ムラービト朝、間もなくイビーサ島とマリョルカ島をピサの守備隊より奪取。ムラービト朝コルドバ総督マズダリー、敗死。
・バルセローナ伯ラモン・ベレンゲール3世、バレアーレス諸島マリョルカ島(マジョルカ島)攻略。ムラービト朝、間もなくイビーサ島とマリョルカ島をピサの守備隊より奪取。ムラービト朝コルドバ総督マズダリー、敗死。
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1月9日
・正五位下蔵人右中弁源雅兼に越前介を兼任させる。
・正五位下蔵人右中弁源雅兼に越前介を兼任させる。
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1月28日
・金の建国
中国東北地方奥地にいたツングース系女真族の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)、女真諸部族を統一し遼に叛旗(1114)、独立して皇帝となり、大金国を建国。
1月28日
・金の建国
中国東北地方奥地にいたツングース系女真族の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)、女真諸部族を統一し遼に叛旗(1114)、独立して皇帝となり、大金国を建国。
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2月11日
・ザクセン大公ロータル・フォン・ズップリンブルク(40、1075~1137、ザクセン大公1106~1127)指導下、ザクセン諸侯の反乱。
ヴェルフェスホルツの戦い(マンスフェルト近郊)。ハインリヒ5世軍司令官マンスフェルト伯、ザクセン軍に大敗、戦死。
2月11日
・ザクセン大公ロータル・フォン・ズップリンブルク(40、1075~1137、ザクセン大公1106~1127)指導下、ザクセン諸侯の反乱。
ヴェルフェスホルツの戦い(マンスフェルト近郊)。ハインリヒ5世軍司令官マンスフェルト伯、ザクセン軍に大敗、戦死。
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4月
・スルタン軍、フランクに対するジハードのためシリアに到着。
エルサレムのボードワン、ダマスカスのトゥグティキンが同盟してこれに対抗。更に、アンティオキア、アレッポ、トリポリ軍も加わる。
スルタン軍、退却。
・スルタン軍、フランクに対するジハードのためシリアに到着。
エルサレムのボードワン、ダマスカスのトゥグティキンが同盟してこれに対抗。更に、アンティオキア、アレッポ、トリポリ軍も加わる。
スルタン軍、退却。
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6月27日
・藤原忠通(19、この年大納言になる)、東三条邸に作文と和歌の会を持つ。
10月26日歌合を主催。
その後、永久5年5月、元永元(1118)年10月、2年7月にも歌合。
永久~元永年間に和歌の精進。
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7月
・トスカナ女伯マティルダ、没(1046~1115)。
6月27日
・藤原忠通(19、この年大納言になる)、東三条邸に作文と和歌の会を持つ。
10月26日歌合を主催。
その後、永久5年5月、元永元(1118)年10月、2年7月にも歌合。
永久~元永年間に和歌の精進。
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7月
・トスカナ女伯マティルダ、没(1046~1115)。
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7月30日
・「松尾社一切経」書写始まる。
7月30日
・「松尾社一切経」書写始まる。
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