2016年10月17日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(109)「アトリエにて」(2) ; 1811年は、飢えの年(el ano de hambre)として記憶された。・・・ここに、時代の目撃者・証言者、さらには告発者としての芸術家の誕生を見るのである。・・・版画集『戦争の惨禍』の原題が、「スペインがボナパルトと戦った血みどろの戦争の宿命的結果(複数)とその他の強烈な気まぐれ」というものであった・・・

 公式画家としての仕事がない、あるいは相成るべくはしたくないということになれば、・・・珍しく静物画を試みる。そうして次には家族や友人の肖像画が来る。・・・

 まず、息子ハピエールの嫁の両親である、マルティン・デ・ゴイコエチェア氏とファーナ・ガラルサ・デ・ゴイコエチェア夫人である。このゴイコエチェア氏は、為替銀行を営んでいた、それこそ典型的なブルジョアである。為替を割引く金融業者とはいうものの、いわば高利貨の別名といったものであろう。夫人はでっぷりと肥って部屋渚か夜霜のようなものを着ている。
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 息子の舅と姑を描いたからには、両者にとっての孫である幼いマリアーノを描いてやらなければならない。
 一八〇九年頃に三歳ほどの幼児のマリアーノの立ち姿を描いたことがあった。ビロードの服を着て、広幅の襟つきのシャツを着たマリアーノは四輪車を引っぱっていた。幼児にしてはいやに思慮深そうな顔をしているのが気になるけれども、それはむしろ不安な時代をこれから生きて行かなければならぬ幼いものに対する、祖父の側の思慮の反映であろう。やや足を開いて立っている、その足はまだまだ大地をしっかりと踏みしめているものではなく、つねに何かの支えがなくてはならない。そういうものとしての幼児、まだ良くも悪くも人間になり切っていない人間は、つねにゴヤの心を顫動させた。それは如何にゴヤが老いてもいつまでもそうであった。

ゴヤ『マリアーノ・ゴヤ』1813

 次にこの同じマリアーノが七歳くらいになったときの肖像が来る。丈の高いシャレた帽子をかぶった坊やは、目許も、ぱっちりとしていて、行く先は多くの女を泣かせることになるのではないか、という要らざる心配をさせるほどに、これは少年の肖像として抜群によく描けた傑作である。
 白いレースの襟飾りもまた実に繊細なところまでが描けていて、実は、少年は黒の喪服を着ているのであるが、誰の喪に服しているのであるかは、いまは言うことを遠慮しておきたい。
 この少年は楽譜を前にして、紙切れを畳んだものを手にしてリズムをとっているのである。音楽の演奏をでもこの少年は習っていたものであろうか。そうであるかもしれない。音楽は、故アルパ公爵などの貴族社会から、ようやくブルジョアジーのところまでこの当時において下って来ていたのであったから。
 またこの当時、オーケストラの指揮は紙切れをまるめてタクトとしたものであった。

 このマリアーノ像と大体同じ頃の作品に、もう一人の少年、ペピート・コスタ・イ・ボネルス君の立像がある。
ゴヤはかつてこの子の母親であるアマリア・ボネルス夫人を描いたことがあったが、この母子を別々に描くについて、ゴヤの胸中にはおそらくは格別のものが動くのを覚えたであろう。それは胸中の埋み火のようなものであり、この母子には関係のないことであったが。
というのは、このペピート君の祖父で、アマリア夫人の父の、ハイメ・ポネルス氏は、故アルバ公爵夫人の生涯の侍医であったからである。人は老境に入ってからでも、実にさまざまなものに堪えて生きて行かなければならぬものであった。
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 ゴヤのアトリエのなかは、なるほど平静で訪れる人も少く、老画家は自分自身と、家族のための仕事に従事している。
しかし一八一一年に入って、マドリードの冬空が鉛色に閉ざされた時、この”悲劇的”な都市に真の悲劇が襲いかかり、ゴヤのアトリエもが鉛色の霧に包み込まれる。
先に一八〇八年の年末にナポレオン自身がこの都市に乗り込んで来たとき、パン屋に八日分の粉しかなかったことを記した、そのことを覚えておられるであろうか。英軍が各地の倉庫をカラにしたことも。
 飢えが襲って来たのである。
 一八一一年は、飢えの年(el ano de hambre)として記憶された

 これこそは、まさにゴヤが版画集『戦争の惨禍』の後半、第四八番から六四番までに刻んだ悲惨そのものであるo
 この悲惨 - これはまさに彼がマドリードの町で「私がこれを見た」として見た光景そのものである。
 ここに、時代の目撃者・証言者、さらには告発者としての芸術家の誕生を見るのである。
 彼は目の荒い画用紙に赤チョークでデッサンをしている。
 兵とゲリラとの、戦争の惨禍にもたちまさる、女、子供、要するに市民のかくまでの悲惨を、後年彼はこれらのデッサンをもとにして銅版に刻むであろう。それはマドリードの巷からのもっとも悲惨な告発である。いまはしかし、刻もうにも銅版も手に入らない。

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 ヨーロッパにおける戦争画の歴史は古い。公式画家の任務の一つは、戦争があれば戦争を、その勝利の栄光を描くことにあった。・・・スペインでのその分野の仕事の代表作は、ベラスケスの『プレダの開城』であろう。
 しかしゴヤは、戦闘も戦争も、まして会戦を描いてはいない。彼が描いたものは、すべて戦争の「結果」である。そこに版画集『戦争の惨禍』の原題が、「スペインがボナパルトと戦った血みどろの戦争の宿命的結果(複数)とその他の強烈な気まぐれ」というものであったことの所以が存する。この原題は、一八二〇年に友人の美術史家セアン・ベルムーデスが、ゴヤがひそかに刻んでいたものを、これもひそかにほんの少部数だけを刷ってまとめてみたときにつけられたものであった。公刊など思いもよらなかった。アカデミイによって公けにされたのは、画家自身の死後三五年もたってからであった。
 しかもここに、ひそかに告発されている「血みどろの戦争の宿命的結果」は、人間の、人間に対する告発としては、それは永遠のものである。

 マドリードを、いやスペイン全土を襲った飢えの惨禍もまた戦争の結果であった。
 そうしてゴヤは、それを描くだけではなく、そこにはじめて社会的、政治的な意味を見出した。
 ここに、告発する芸術家という、新しい存在が誕生をしているのである。

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 ゴヤは革命家でも啓蒙者でもなかったが、革命的芸術家でありえたのである。

ゴヤ『戦争の惨禍』49「ある女の慈悲」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』54「空しい訴え」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』61「家柄が違うのだろう」1808-14

『戦争の惨禍』の四九番と五四番と、特に六一番をよく見てみよう。
 四九番は「ある女の慈悲」と詞書されたもので、スペインの陽光に嚇ッと照らし出された前面に、 飢えと病いに仆れた男らしい人間と、それを嘆き悲しむ女とが描かれていて、そのまた前に背中だけを見せている女性が一皿のスープを両手に捧げて立っている。そうして影の部分に、大きな帽子をかぶった男と、そのつれの女が喋りながら通りがかっている。
 この後者の男女には、仆れている人に対する関心はまったくない。この大きな帽子は、当時の警官のものである。

 ついで五四番。「空しい訴え」と詞書されたもの。飢えと病いに骨と皮だけになり、立つことも出来ずに家の壁と石によりかかった人々。その後方を悠然と、人々の訴えにこれも何の関心もなく通りすぎて行く大きな帽子の男と女。
 すでにゴヤの胸はむかむかしている。

 六一番に来てとうとうそれは爆発する。
画面中央にうずくまった子供たちは、すでに立つ元気もなさそうであり、横になった一人はもう息絶えているのであるかもしれない。左にももう立てない女性らしい人"がいて、子供たちの横に、とにかく身をたてて施しを乞うている男も、頭はすでに骸骨である。そうして右側に、マハらしい女を一人まじえて談笑しているものは、またしても警官と身なりのいい紳士である。
 この一枚の詞書は、「家柄(あるいは種属)が違うのだろう」というものであった。

ゴヤ『戦争の惨禍』64「墓場へ運ぶ」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』63「積みあげた死体」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』52「遅すぎる」1808-14

ゴヤ『戦争の惨禍』60「誰も助けられない」1808-14

民衆は飢えて死に、やがて教会の荷車に足から引き摺り上げられる(六四番)か、それともただ積み上げられる(六三番)のみ。いずれにしても「誰も助けられない」(六〇番)のであり、もしそれが来たとしても、「遅すぎる」(五二番)のである。
 そうして片方の、警官と紳士は鱈腹食べて談笑にふけっている。

 それはすでに、革命的飢餓(ということばがあるとして)-なのであるが、今回はこれを革命的蜂起にまでもたらす、きっかけも指導者もいなかった。みながみな飢えていたのであろう。
 しかもこの革命的な飢餓が現実に革命を呼び起しうる可能性を察知して、革命については先輩であるフランス人たちは、新たに組織した警察(Guardia Civil)には鱈腹食わせていたものであろう。
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