より続く
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;江東区/深川〉
石井進太郎
9月1日はガラス工場〔深川西町(現・森下町)。使用人は70人、うち25人が朝鮮人〕の連中と大島9丁目に避難しました。その夜はどんどん燃えてきたので小名木川ぞいを小松川まで提灯を持って逃げました。
燃えたあくる日、親戚を頼って渋谷に行きました。〔略〕そこから大井の星製薬という大きな会社のガラス工場に朝鮮人を預けました。道中は朝鮮人をかくすため、口をきかないようにさせ、3人の若い者が3つに分けて連れて行ったのです。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とかうわさがあったが、うちにいた朝鮮人は皆子供だったからね。朝鮮人の小僧たちは表に出さないようにし、口もきくなと言っていたので大丈夫でした。深川には日本人の小僧が残っていましたよ。〔略〕朝鮮人の小僧は深川には置いておけないんです。
その朝鮮人の小僧はね、親元に金やってそれで買う。そのね、周旋屋がいたんですよ。専門にね。朝鮮に行ったり来たりして、そういう人にたのむと10人でも世話してくれる。で、そのときに周旋屋が親元にいくらって置いてきてやる。日本人でもおなじですよ。
〔略〕本所、深川には朝鮮人が多かった。ガラス屋に多かったよね。でもまわりのガラス屋にいた朝鮮人で、震災のとき殺されてしまったいう話はとくに聞いていない。顔見知りでひどい目にあった人はいないんだ。
殺されてることはずいぶん殺されてたね。道路で殺されたり、手をしばられてね、後ろに材木や鉄の棒をのせられたりしてほうぼうにいたりね、川に浮かんでいたりね、とにかくあすこの川がまっ赤だったんだから、血で。小名木川でもなんでもね。もう血でまっ赤だったんだから、体じゅうが。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
深川西平野警察署
9月2日の夜、午後8時頃本署に急報するものありて、曰く「鮮人数10名門前仲町方面に襲来せり」と、即ち警部補以下20余名の署員を特派し、深川八幡神社又は古石場方面等に在りて徹宵警戒に任ぜしのしが、遂にその隻影(せきえい)を見ず、而してこの前後に於て「鮮人等が爆弾に依りて火災を起し、財物を掠(かす)め、婦女を辱め、或は毒薬を撒布する等暴虐到らざる所をなし」との流言行われ「清澄遊園の魚類の多く弊死せるは鮮人の毒物に因れり」等と称して人心兢々(きょうきょう)たり。かくて民衆の手に依りて逮捕し、本署に同行せるもの少なからざりしが、概ね沖縄又は伊豆大島の人なりき、然れども人心はこれが為に興奮して自警団の横行を促せり。これに於て本署は館内鮮人の全部を検束して保護を加うると共に、民衆の戎(じゆう)・兇器を携帯するを厳禁し〔略〕。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉
戸田芳栄〔港区三田四国町で被災、戸越へ避難〕
2日の昼頃、多摩川の方から暴徒が攻めてくるのですぐ不動様の山へ逃げるようにとの知らせで、道不案内の私たちは逃げる人たちのうしろについて、不動様の林や竹薮の中へかくれていました。警護の人が見張っていて、子供が泣き声を出すと叱っていました。薮蚊がたくさんいて、かゆくてたまらず、地震よりこのときがいちばん恐ろしかったと両親なども話していました。
(「地震よりデマにおののく」品川区環墳開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月2日午後5時頃、府下荏原郡大崎町星製薬会社人夫鮮入金容宅(41)苦学生金承中(19)鮮人女工朴一順(23)同高鳳児(20)同朴守人(25)に挙動不審のかどで重傷を負わせ、被害者は赤十字病院で手当を加えたので生命は助かった。右犯人府下大崎町桐ケ谷3茶商市川治三郎(36)同西洋料理業松田仁太郎(35)同322大工職長谷川桝次(25)は何れも令状執行収監す。
〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉
安藤嘉一〔大井倉田町3368で被災〕
翌2日には余震も治まり、人心も幾分落ち着きを取りもどしていたが、その夕暮れ、突然思いがけぬ噂が湧き起こった。それは、外国人が暴動を起こし、3千人が六郷の橋まで押し寄せているとか、立会川駅付近に50人が立て籠っているという風説に再び騒然となり、大勢の人々が薄闇のなかで竹槍を造り、道角を5、6人で立塞ぎ、徹宵警戒に入った。私は眠れぬまま夜空を見ると、東北方向から南へかけ薄紅を刷(は)いたように染まり始めていた。
激しい警戒と恐怖のなかで、まんじりともせず3日の朝を迎えだが、恐れられた暴動も薄らぎ、避難者は明るさをとり戻していた。しかし、それも束の間で、昼近くには、またまた恐怖に襲われてしまった。当時、ほとんどの家が井戸水を使用しており、その井戸へ毒を投込むという噂が広まったからである。事実、井戸のある家々の塀に×○△等が白墨で書かれ、再び竹槍を持つ人々が警備に入った。×○△がはたして如何なる記号によるものかは定かでなく、こうした危惧も、その後、何ん等、事なく過ぎた点から考えるとき、大異変に乗じて画策せる悪質な悪戯であったように解される。
(「警戒と恐怖のなかで」品川区環墳開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
小林三谷樹〔大井山中町4152で被災〕
翌2日、朝食兼用の食事の準備を終えたとき、井戸に毒薬を入れた者がいるとの騒ぎで、食事を中止せざるを得なかった。「横浜に暴動が起こった」「暴徒が川崎、大森あたりまで襲って来た」「このあたりは今夜が危ない。早く分散して逃げたほうがよい」
このように噂が乱れ飛び、近所の人たちと現在の二葉町へ避難し、旧家の庭で野宿をした。ランニング1枚の肩は蚊に襲われ、また夜半の冷気はまったく無情なものだった。
翌3日になって、噂はデマとわかって帰宅し、2日ぶりに食事にありついた。
(「関東大震災を体験して」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1918年)
澤静
〔2日〕そうするうち、人がバタバタと走る。変な叫び声が聞こえる。何事かと思えば、朝鮮人が有無を言わせず殺される、という。大井町にもあった集落を何者かが襲撃し、見付け次第殺すと言うのだ。恐ろしくて様子を聞くどころはない。急いで家の中に駆け込んだ。
〔略〕今夜は家の中で眠れるかと思ったら、いきなり、「浅野さん、お宅の庭に朝鮮人が逃げ込みましたから協力して下さい」と警備の人の声がして、呼吸が詰まりそうなくらいにびっくりした。庭には、大勢の人が懐中電灯で照らしながら、ドヤドヤ入って来た。幸い何事もなかったのでほっとした。
(澤静『上野のお山に瓦斯灯の点る頃 - わが四代の記』サワズ出版、1994年)
竹内重雄〔画家。当時13歳。大井町1105で被災〕
その翌日〔2日〕興奮していた町人たちに一人の男が捕えられて縄で縛られて連行されていった。頭から汗を流し、血を滲ませていたのは多分逃げ回った時の怪我だろうか。また危害を受けたのだろうか。
〔略〕交番は旧東海道の浜川1060の角にあった。町人たちは捕えた男をこの浜川交番へ連行した。その時の交番にはこの付近の担当の佐藤巡査がいた。この地区受け持ちも5、6年と長く、顔見知りの巡査だった。巡査がこの男を見た時のハッとしだ驚き、そして困惑した表情を少年の私も感じることができた。捕まった男は受け持ち地区で顔見知りの朝鮮人だったのである。私もこのひとが付近で土工をしていたのを見たこともあった。男は泣きそうな顔をして佐藤巡査に何か喋り、哀願している様子が人垣越しに見えた。その後の事は人混みに押されてわからなかった。帰り道をたどりながら可哀想な人と思い、またあの哀れな顔が忘れられなかった。
(竹内重雄『東京あれこれ - 大正風俗スケッチ』国書刊行会、1987年)
深尾祥之〔〔大井町鎧が淵3581で被災〕
たぶん2日からだったと思うが、デマによる騒ぎが起こり、大人たちは日本刀や竹槍を持って町内を巡回して警戒に当たった。自警団といった。「警戒」という大きな声がするたびに、私たち子供や女の人たちは鶏小屋に逃げた。人の顔も判別できない暗さの中で鶏糞のにおいだけが鼻を刺激した。私は母の手をしっかり握っていた。
(品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
文戊仙(ムンムソン)〔当時大井町の長屋に住み紡績女工として働く〕
1923年9月1日の震災直後は、近くの親類と大家の庭にむしろを敷いて寝ていた。翌日には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人が放火している」などの流言が飛びかい、大勢の日本人が日本刀やとび口を持って「朝鮮人は皆殺しだ」と文さんたちのところにもやって来た。このときは大家が「この朝鮮人たちは何も悪いことはしていない。昨日もずっと私たちと一緒にいた」とかばってくれた。
2、3日後、文さんの父親を頼って来日したばかりの同郷の人が「朝鮮人は何も悪いことはしていない」と、父の制止も聞かずに「抗議に行く」と言って出かけた。数分後、日本人の一団がその父の友人の首に竹やりのようなものを突き刺し、担ぎながら私たちの前を通っていった。あれだけ行くなと言っていたのに、と父は嘆き、私は衝撃で声も出なんだ。
(『朝日新聞』1999年11月19日)
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