から続く
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;江東区/亀戸〉
江口青龍
「百余名の鮮人を危地から救出す 大院君から名を貰った江口青龍君 警視総監に表彰方申請」
亀戸警察署では今回亀戸町3700待合業龍光亭江口青龍(32)氏を表彰方申請した。〔略〕氏は永く朝鮮に住み朝鮮人の気質をよく知りかつ鮮語にたくみな事から、9月1日地震と同時に朝鮮人に対する流言蜚語が盛んに行われた時、深くそれを憂い危険を顧みず、2日の夜同町コークス会社跡にふるえている鮮人5名を救助し、7日ごろまで亀戸町大島、吾嬬、小松川その他で無慮百余名の鮮人を自警団群衆の中から救助して、神明町検問所の増永巡査に託し警察の保護を依頼した。
現に4日の夜柳島妙見橋で鮮人を救助した時などは、猛り狂った群衆の一人に竹槍で前頭部を刺されて負傷した程で、氏の一身を犠牲に伏しての働きに助けられた鮮人等、何れも涙を流して感謝して今日に至るまで真心をこめた礼状が続々と舞込んでくる。これにつき亀戸町栗原橋で助けられた一人羅凡山(24)の如きは、目下亀戸署で月給30円で通弁をつとめている。
〔略〕氏は「日本へ来ている鮮人労働者の多くは無智のもので日本の国を賛美こそすれうらみに思っているものは少ないので是非たすけずにはいられなかったのです。幸い朝鮮語が出来るので厳重に訊問したが全く彼等は私の予想に同じく純良な人間ばかりでした」
(『東京日日新聞』1923年10月23日)
越中谷利一〔作家。当時習志野騎兵連隊に所属〕
〔習志野騎兵連隊が〕亀戸に到着したのが〔2日の〕午後の2時頃、おお、満目凄惨!亀戸駅付近は罹災民でハンランする洪水のようであった。と、直ちに活動の手始めとして先ず列車改め、というのが行われた。数名の将校が抜剣して発車間際の列車の内外を調べるのである。と、機関車に積まれてある石炭の上に蝿のように群がりたかった中から果して1名の朝鮮人が引摺り下ろされた。憐むべし、数千の避難民環視の中で、安寧秩序の名の下に、逃れようとするのを背後から白刃と銃剣下に次々と仆れたのである。と、避難民の中から、思わず湧き起る嵐のような万歳歓喜の声(国賊朝鮮人はみな殺しにしろ!)。これを以って劈頭の血祭りとした連隊は、その日の夕方から夜にはいるにしたがっていよいよ素晴らしいことを行(や)り出したのである。兵隊の斬ったのは多くこの夜である。
(「戒厳令と兵卒」『越中谷利一著作集』東海繊維経済新聞社、1971年)
岡村金三郎〔当時青年団役員〕
2日になって焼けなかった亀戸の境橋近くの長屋に引き返してきました。そのうちに戒厳令がしかれて、一般の者も刀や鉄砲を持てと軍から命令されたんです。それでみんな家にある先祖伝来の刀や猟銃を持って朝鮮人を殺(や)った。それはもうひどいもんですよ。十間川にとびこんだ朝鮮人は猟銃で撃たれました。2日か3日の晩は大変だったんですよ。朝鮮の人があばれて井戸に毒を入れたとかいうんです。ボンボン燃えている音を聞いては朝鮮人が火をつけたと言ってね。
〔略〕その時分、私は青年団の役員でした。「境橋近くのガラス屋で15、6人の朝鮮人を使っている。青年団は見に行ってくれ」と言われて、そのガラス屋に行ったんです。
すると社長は 「朝鮮人はいるけど、この人たちは決して悪いことはしないんだから、なんとか助けてくれ」と言う。「どこにいるんだ?」と言うとね、ガラス屋にはかまがあるね、その火を取っちゃってね、そん中にぶっこんでいるんです。だから外からはわかんねえ。「この人たちは決して悪いことはしていないんだから、青年団は助けてやってくれ」と社長は言う。
「ああいいですよ。だけどね、野次馬が取り囲んでいるからあんたとこぶっこわされちゃう。だから一応ね、渡すこと渡したらいいだろう」と社長に話してね。
それで亀戸警察署に通告したら、警察からトラックで「うちのほうに引き渡せ」と来た。だけどね途中でみんなけんけんごうごうとしているから殺されるというので「自警団とか青年団ついて行ってくれ」と言うんで、私はついて行きましたよ。トラックの隅に乗って、15、6人全員、縄でしばってまん中に乗せて青年団がまわりをずっとかこんで亀戸警察につれて行きました。〔その後小松川土手で部隊に機関銃で殺されたと聞く〕
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
坂下善吉〔当時16歳。被服廠跡で被災〕
〔2日〕その日アタシ達4人〔弟と女中2人と自分〕は、今の京葉道路を通り亀戸の方へ逃げました。その辺の学校へ入ったのが、夕方か夜でした。夜に朝鮮人襲撃の話をハッキリ耳にしました。「今、小松川橋に朝鮮人が船3ぱいで上陸した。16歳以上の男は棒を持って立ちあがれ」という大きな声が聞こえました。それで16歳以上の男は棒を持って学校の囲りを一晩中立番しました。アタシも立番しましたが大島の方でウワァーという声がして、なぐり合いの音が聞こえたり、頭を血だらけにして両手を後ろ手に縛られた人が何人も連れてゆかれるのを目にしました。地震とその後に続いた火事よりも、この夜が一番恐かっだですね。
アタシが若い人に言いたいのは、地震そのものより、火事とデマが恐い。朝鮮人襲撃云々も、ありやデマじゃないの。アタシはそう思ってる。
(『ビルメンテナンス』 1981年9月号、全国ビルメンテナンス協会)
篠原京子〔当時11歳〕
〔避難先の亀戸で〕1日の夜からそうそう朝鮮人のうめきがたちはじめましたね。2日の昼間は屈強な男の人が、すごい竹槍をヒューと切ったのをかついで、どこへ行くのか、行ったり来たりやっているのですよ。そして、夜になると、私たちは、あぶないから歩いちやいけないって、大きな家の縁の下に、むりやり入れられました。小さい子供なんか泣くとひどくしかられてました。「泣き声出したら殺される」からと親も真顔でそういっているんですよ。「子供が泣いたら朝鮮人につかまって、皆殺しになるんだから子供に泣かせちやいけない!!」ってどなってね。そのとき、うち合うんだか、おどかすんだか、パンパンというピストルのような昔がしました。
(日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)
杉浦文太郎〔当時南葛労働会員〕
〔2日夕方〕朝鮮人騒ぎの流言飛語も出はじめていて、夜間の外出は危険なので、夕暮れに、今夜泊めてもらう松丸三次君の家へ行くべく、白米5升を手にさげて半壊の家を出た。錦糸町~小松川間の城東電車の浅間前停留所近くの田の中に、ポツンと建っている二戸建長屋の一軒が松丸君の住居で、新築して間もない平屋であるし、火事の延焼の心配もない最も安全な場所である。日立亀戸製作所の横を通り抜けて電車通りへ出ると馬蹄のひびきが耳につく。千葉街道を騎兵と思われる一隊の驀進してくるのに出合う。人にきけば、今日早朝より数隊が千葉方面から駆け抜けて通ったという。また、この先の空地で小休止をしていた隊もあったが、みな殺気立っていて傍へも寄付けなかったともいう。
〔略。3日の朝〕電車通り(現・亀戸1丁目)といっても両側は一面の青田でちょうど稲の花盛り、田の中の僅かばかりの里芋畑の中に大勢の避難民が屯(たむろ)していて、朝鮮人の毒にやられたという怒声がきこえ、大騒ぎがはじまったようだ。松丸君と共に飛び出して行ってみると、14、5歳の女の子が口から泡を吹いていて、父親らしい人が抱きかかえて、毒ではない、違う違うと言いながら介抱しているのだが、群衆は、確かに毒だと殺気立っていた。飢えと乾き、睡眠不足、恐怖の中の野宿と疲労の身体には夏の終りの陽は強烈で、そのため女の子は持病の癲癇を起こしたのだという。陽を遮る何ものもない田の中で苦しんでいるのを見かねて、松丸君の家の陰に運び込み、暫く安静にさせたらなおった様子であった。血迷った群衆の一部には、あいつらも朝鮮人の一味ではないかという、白い目でにらむ奴もいた。
松丸君が自転車を駆って争議団長国府庄作君を小松川の自宅へ迎えに行っている間に、奥さんが1日、2日のこの辺り〔城東電車の浅間停留所近く〕の出来ごとを話してくれた。この近くの東洋紡績第二工場の煉瓦造りの工場が倒れて、大勢の女工さんがその下敷になって死んだ話、昨日自警団が白昼朝鮮人を何人も切殺した話など、無残なことばかりである。
〔略。5日亀戸第一尋常小学校で〕この仮収容所に収容されている患者のほとんどは本所、深川地区の人で、隅田川以西の人は極めて少なかった。収容者は、火災から逃げてくるとき煙で眼をやられた人が多く、その上火傷を負った者は20パーセントくらい、重傷で身動きできない人は極めて少ない。重傷と思われる人は主に、地震のさい倒壊した家屋などの下敷になった人や、避難中ここへ運ばれた人びとであった。中には朝鮮人と間違えられて暴徒(血迷った自警団員)に襲われて重傷を受けた人も何人かいた。
(「広瀬自転車の争議と関東大震災の思い出」労働運動史研究会編『占領下労働運動の分析』労働旬報社、1973年)
波辺美波〔当時上野高等女学校1年生〕
〔2日夜〕亀戸停車場の客車の中に入って寝ていると不逞鮮人騒ぎ。せっかく助かったのに又ここで苦しむと思えぱくやしくてくやしくてたまらない。翌朝千葉へひなんした。
(『東京日日新聞宮城版』1923年10月5日)
〈1100の証言;江東区/亀戸警察署〉
全虎岩(チョンホアム)
私は亀戸の福島ヤスリ工場に工員として働きました。そして大正11年南葛労働組合の亀戸支部が結成され、そこで活動をしました。
〔略。2日夜〕炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことをいっていました。〔略〕夜になって朝鮮人が多数逃げていくというので、私は近くにある飯場へ行ってみました。飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が20人ばかりいました。行ってみると、黒竜会の連中が日本刀などを持って飯場を襲撃し、ハス沼の中へ逃げ込んだ人まで追いかけ、日本刀で切り殺していました。
私は恐ろしくなってすぐその場を逃れましたが虐殺は3日の明け方まで続き、そのうち女性一人を含む3人はやっと逃げのび亀戸警察署に収容されました。私はあとでこの人たちにあい虐殺の実態を確かめることができました。
あちこちで朝鮮人殺しのうわさが頻繁に伝わってきました。工場の人達は私に外へ出たら危いから家の中にいるようにと言って無理に押し込み、外で見張りまでしてくれました。
翌日(3日)の昼頃になってこのままでは危いし警察が朝鮮人を収容しはじめているからそこへ行った方が安全だと言う事をきき、工場の友人達十数人が私を取り囲み亀戸警察へ向いました。街に出てみると道路の両側には武装した自警団が立ち並び、兵隊も出動していて険悪な空気が充満していました。そして連行される同胞が道で竹槍などで突き刺され、殺された死体があちこちにありました。私も何度か襲われましたが、やっとの思いで午後3時頃亀戸署に着きました。
〔略〕4日明け方3時頃、階下の通路で2発の銃声が聞えましたが、それが何を意味するのか判りませんでした。朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。
〔略〕朝になって我慢できなくなり便所へ行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに30~40の死体が積んでありました。
〔略〕虐殺は4日も1日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。〔略〕亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも50~60人に達したと思います。虐殺された総数はたいへんな数にのぼったと思われます。
虐殺は5日の夜中になってピタリと止まりました。巡査の立話から聞いたことですが「国際赤十字」その他から調査団が来るという事が虐殺をやめた理由だったのです。
6日の夕方から、すぐ隣の消防署の車2台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四ツ木橋のたもとに運びました。あとから南葛の遺族から聞いたことですが死体は橋のたもとに積みあげ(死体の山二つ)ガソリンで焼き払い、そのまま埋めたそうです。その後私は遺族に連れられて現場にいき、死体を埋めたあとを実際に見ました。
死体を運び去ったあと、警察の中はきれいに掃除され、死体から流れ出した血は水で洗い流し、何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは7日の午前中でした。
〔略〕当時、荒川の堤防工事で四ツ木橋近くには朝鮮人労働者の飯場が沢山ありました。これは私が実際にみたのでなく震災直後に、習志野からやってきた騎兵隊が、橋の下で同胞たちを機関銃で虐殺したということを実際に見た人から聞いています。その他、亀戸の南の大島付近には中小企業が沢山あって多くの朝鮮人職工が働いておりました。その人達の多くも騎兵隊や自警団によって虐殺されました。ようやく生きのびて亀戸署に逃げ込んだ人もいました。
(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)
亀戸警察署
9月2日午後7時頃「鮮人数百名管内に侵入して強盗・強姦・殺戮等暴行至らざる所なし」との流言行わるると同時に、小松川方面に於て警鐘を乱打して非常を報するあり、事変の発生せるものの如くなれば、古森署長は軍隊の援助を索むると共に署員を二分し、一隊をして平井橋方面に出動せしめ、自ら他の一隊を率いて吾嬬町多宮ケ原に向いしに、多宮ケ原に避難せるおよそ2万の民衆は流言に驚きてことごとく結束し鮮人を索(もと)むるに余念なく、闘争・殺傷所在に行われて騒擾の衢(ちまた)と化したれども、遂に鮮人暴行の形跡を認めず、即ち付近を物色し鮮人250名を収容してこれを調査するにまた得る所なし、而して民衆の行動は次第に過激となり、警察官及び軍人に対してまで誰何訊問を試み、又は暴挙に出でんとせり。然るに鮮人暴行の説が流言に過ぎざることようやく明かとなりたれば、同3日以来その旨を一般民衆に宣伝せしも肯定する者なく、自警団の狂暴は更に甚しく鮮人の保護収容に従事せる一巡査に瀕死の重傷を負わしめ、又砂村の自警団員中の数名の如きは、良民に対して迫害を加えたる際、巡査の制止せるを憤り、これを傷けしかば、直に逮捕したるに、署内の留置場に於て喧騒を極め、更に鎮撫の軍隊にも反抗して刺殺せられたり。
〔略〕亀戸町柳島新地の某は平素より十余名の乾児(こぶん)を養いしが、是日兇器を携えて徘徊せるを以て、本署巡査のこれを制止するや、直に抜刀して斬付しかば、同巡査もまたやむを得ず正当防衛の手段としてこれを斬殺せり。かつ流言蜚語を放ちて人心を攪乱し、革命歌を高唱して不穏の行動ありしが為に、9月3日検束せる共産主義者数名も是日留置場に於て騒擾し、鎮撫の軍隊に殺されたるが如き、以て当時管内に於ける情勢を察するに足らん。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その6) 江東区/旧羅漢寺・砂町・州崎の証言 「もう2日にはいわゆる朝鮮人狩りが始まったのです。.....これらを羅漢寺の墓地へつれて行きまして、そこで自警団の連中が竹槍または刀で惨殺したのです。」 「砂町尋常小学校の校庭に.....」
に続く
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