2017年9月10日日曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その1) 足立区、荒川区、江戸川区、大田区の証言 「.....小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、.....」

【増補改定版】 大正12年(1923)9月3日(その2) 永代橋付近(東京都江東区・中央区) 暖昧さに埋められているのは / 朴烈(25)、東京世田谷署に保護検束。翌日、金子文子(20)も / 内務省の警告書 / 戒厳令を東京府、神奈川県全域に適用
より続く

大正12年(1923)9月3日

〈1100の証言;足立区〉
A〔当時東京在住、その後韓国へ帰国。ソウル在住〕
Aさんは都内下町の皮なめしの小さな町工場に働いていた。震災から2日後、親方に頼まれ、千住に家財道具を運ぶ途中、自警団の検問につかまり、「おまえ朝鮮人だろう。君が代を歌ってみろ! 10円50銭といってみろ」とこづかれ、そこにいた警官からも、背中を警棒でしたたか殴りつけられた。そのあと、針金で後ろ手に縛られ、荒川放水路まで連行された。
〔略〕「この野郎、悪魔! 朝鮮人!」と、割烹着を着た主婦が持っていた竹槍でAさんの右足を刺したという。身動きがとれないでいるところを、今度は鳶口を持った男に背中を切りつけられ、別のステテコ男からも日本刀で肩口をきりつけられた。
そのとき、どこからか死体を積んで運んできた大八車が脱輪し、首なし死体や身重の女の裸死体が数体ずり落ちた。自警団の数人が今しも倒れそうな大八車を起こすために、Aさんのそばを離れた。さいわい日本刀で切りつけられた際、針金がはずれていたため、這いつくばって岸辺のヨシのなかに逃げ込み、誰もいなくなった深夜、水でふやけた足をひきずりながら、やっとの思いで工場に帰りついた。
そのあと憲兵隊によって習志野に連行されだが、そこでもむごい拷問をうけたという。〔略〕突然壇上のAさんは制止を振りきって上着を脱ぎ、上半身裸になり会場のみんなに背中を見せた。おびただしい鞭の傷跡や焼けただれたような皮膚、肩から腰にかけての刀傷、この傷を60年間背負ってきていたのかと思うと、撮影を許されていた成田氏は、どうしてもシャッターを切ることができなかった。
(「関東大震災記念集会」セジョン文化会館、1982年→『東葛流山研究』第22号、崙書房出版、2003年)

堀口登志〔父親が荒川放水路工事の現場監督〕
震災のあった時父たちは、本木のはずれ、今の寺田病院のそばの空き地を内務省が借りてくれて、そこに住んでいたそうです。あのあたりは昔はまだ家も少なく、吉祥院から寺田病院にかけては大きな竹やぶがいくつもありました。〔略〕3日ごろか、父の顔見知りの数人の朝鮮人がきて、「追われている」と言う。本木にはかなりの数の朝鮮人がいたのです。父はそこをはなれられないので、その朝鮮人たちは友達や仲間を集めに走りました。たちまち50人ほどの人が集まったそうです。
すると青年団や消防団の人たちが竹やりをもって集まり、この人たちをとり囲んだそうです。そこへ梅田で紙スキをしていて「おかしら」と呼ばれていた叔父の深井も来てくれました。父の〔菅原〕徳次が「この者たちは悪いことはしない。内務省の仕事をしているんだから。私は内務省の役人だから、この者たちのことに責任を持つ。もしやるなら俺の命と引きかえにしろ」とどなったところ、誰も手出しをしなかったと聞きました。〔略〕結局最後は警察に渡したのではなく、「それならいい」と了解して終わったそうで、この人たちの中からは一人の事故者も出さなかったそうです。だからこの人たちはなつかしがって、この後もよくお盆などにきてくれました。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第62号、1992年)

『報知新聞』(1923年10月20日)
〔3日〕李順風(イスンブン)は府下南綾瀬村字柳原の自宅で同居隣人6名と共に千住町自警団友野済蔵(47)山崎濱吉(20)田口清三(22)中山金治(36)村松治(21)等の為めに日本刀で虐殺され更に同家から逃走した李興順(イフンスン、31)は翌朝同地付近の田圃で伊藤金次(26)吉野市五郎(41)等に殺害された。

『報知新聞』(1923年10月20日)
李熙玄(イヒヒョン)は9月3日夜10時頃避難の途中西新井村役場前で同村在郷軍人内田傳蔵(30)吉沢亀太郎(38)手塚分会長の3名に猟銃で射殺された。

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午後5時頃府下千住町2ノ881番地にて鮮人韓龍祈(ハンヨンギ、29)を撲殺した犯人同町中組605鳶職高橋義興(24)同町松井榮之助(27)の所為と判明収監さる。

『法律新聞』(1924年1月30日)
「鮮人殺し自警団員の判決」
昨年9月3日の夜府下西新井村興野通りで鮮人1名を猟銃で射殺した自警団員同村内田傳之助(30)及び製紙業吉澤亀太郎(27)に係る殺人事件の判決言渡は、去月30日午前11時東京地方裁判所刑事3部宮城裁判長帯金検事係で開廷され被告両名に対し懲役2年但し3年間執行猶予の判決言渡しがあった。

〈1100の証言;荒川区〉
H〔当時12歳、満州島生まれ。渡日2日日に被災〕
3日目に、とにかく警察と軍隊が朝鮮人と中国人を皆殺せと言ったもんだから、そこを出るの皆いやになったんです。その学校には40日間おったですよ。荒川区立第二はけ田〔峡田〕小学校に。表に出なかったので震災のことはぜんぜんわかりません。〔略〕ここの学校に着いてみたらほうぼうの人が40人位いたけれども言葉が通じないですよ。今は韓国もみな同じ言葉になったけれど、その時分は「陸地」〔本土の意〕にいた人の言葉は絶対わからないですよ。〔略〕米だって3日位たってからきたんだ。ごはん炊く所にもちゃんとおまわりと軍隊が立って番しているでしょう。入り口にも二人ずつ立っているし。表には竹槍を持ったやつがいっぱい立ってて飛び込んで来るんだからね。
ケガした人はいなかったね。皆、平和になってからバラバラに表に出てきた。〔略〕隣村の人も皆、オフクロの村だの、顔を知っている人は大勢いたから、その人らと一緒に帰ったんですよ。その人達は皆別々に他の学校に持ってかれたんだ。〔略〕そのおじさんと一緒にいられなかったのかって、ついて行こうったってだめなんだ。自分の付き合っている人間だけ隠していたんだ。防空壕みたいなものを床下に掘って、そこでやっぱり40日位過ごしたんだもの。隣近所の人達は、そこに朝鮮人を使っていたということを知っているから、皆見張ってるから、出て来れないですよ。一所懸命働いたから匿われたんじゃないですかね。〔略〕三河島で中国人2人を殺すのを見たな。今の常磐線が下を通ってた頃、その上に夜泊っていたから。近くに中国人が3人か4人住んでいたんですよ。その人かどうか知らないけれど殺された。すごい声で泣いているの聞えたよ。鉄道の上でやられているらしくて。軍隊とおまわりに皆連れて行かれたんですよ。縄でつながって行ってるのを後ろからぶち殺された人も随分いたらしいですよ。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第28号、1985年)

内田良平〔政治活動家〕
3日朝尾久町大字上屋久に於て2名の怪しき鮮人あるを認め〔略〕一人を撲殺し、一人は半殺しのまま同町佐藤病院に入院せしめたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

中村翫右衛門〔歌舞伎俳優〕
〔3日、日暮里へ向かう〕私たちはのどがかわいて、水をもらいたいと思ってももらえなかった。その家ののむ水だけでもいっぱいなのだ。井戸に張札がして、不逞鮮人が毒を投げこんであるから、のんではいけないと記してある。
私たちはわけはわからないが、不逞鮮人を憎いと思った。こんな苦しいときに、こういう惨虐なことをやる、ちくしょう! どうしてやるか見ろ! こういう怒りが、時が時、自分が苦しんでいるときだけに、いっそう強くこみあげてくるのだった。私は後にこのときの真相を知ったとき、身ぶるいした。
〔略〕歩いて行く道々も、自警団があって、竹槍を持っている人、日本刀を腰にさしている人、朝鮮人とみれば惨殺するし、歩く人々の中から、ちょっとでももつれた変なことばがあれば、朝鮮人として引きずってゆく。どのくらい罪もない朝鮮人民が虐殺され、日本人民が、朝鮮人民とまちがえられて殺されたかしれない
(中村翫右衛門『人生の半分 - 中村翫右衛門自伝』筑摩書房、1959年)

潘瑞発(バンルイファ)
地震から3日目に3人で電車に乗って三河島へ出かけた。駅へついて一人が降りかかるといきなり鳶口でたたき殺された。われわれは降りないで逃げ帰った。
(仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年)

和田本次郎
〔群馬県太田市から救護団として3日夕方日暮里に着くと、先輩の福長省三に注意された〕「君は白の詰襟で黒ズボン、おまけにつばの広い黒の帽子、そのうえ背がヒョロ高い。どう見ても君は朝鮮人と見られるぞ。朝鮮人はこの大地震に乗じてますます火災を大きくひろげ、手当りしだい日本人を虐殺して歩くので、われわれは朝鮮人と見たら助けちゃおけない。先方を殺さをけりやこっちが殺されるからだ。君は朝鮮人と間違えられたら大変だ」
(和田本次郎「かまきりの足跡 - 和田本次郎自伝』養神書院、1966年)

『下野新聞』(1923年9月4日)
「三河島上面より不逞鮮人が200名押寄す報」
3日朝3時頃三河島方面より下谷に向け不逞鮮人約200名集団を為し押寄すとの報に接し軍隊青年団消防等共同して極力この方面に向って警戒しつつあったが、集団して来らず三々五々やって来る。

〈1100の証言;江戸川区〉
遠藤三郎〔当時国府台野重砲第一連隊第三中隊長。参謀本部の指示で中国人労働運動家王希天(ワンシィティエン)の虐殺隠蔽にもかかわった〕
3日の朝、連隊に行ったら大騒ぎ。みな〔流言を〕本当だと思っている。私が〔郷里の山形から〕帰る前に、私の中隊の岩波〔清貞〕って少尉がね、部下20数名をつれて連隊から派遣されているんです。ところが私が留守だから、中隊長の許可も受けずにだいぶ殺しているんです。戦にいって敵を殺すのと同じように、朝鮮人、支那人を殺せば手柄になると思って。200名殺したか、何名か知りませんがね。
岩波は〔小松川の〕警備に派遣されたんです。連隊長の命令でね。どういう命令か直接には知らんけれども、とにかく朝鮮人が日本人を惨殺するって風評があったらしいんです。それで日本人を守るために派遣されたらしいんです。ところが岩波は士官学校出じゃないんです、兵隊出身の単純な男なんです。それが朝鮮人が日本人を殺すんだって、早合点しちゃって朝鮮人征伐やったんです。
だいたい連隊は大騒ぎ、「朝鮮人が暴動やっているから征伐せにゃならん」って、連隊長が血まなこになって出動させようとしている。私の部下は武装させませんでした。そうしたら連隊長にえらい叱られてね。「そんな状態じゃない。みんな武装して出ていっている。朝鮮人をやっつけなきやならん」。金子〔直〕旅団長もみんな、キチガイになっているんだな。恐ろしいもんだな。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

岡村金三郎〔当時青年団役員〕
〔ガラス屋にかくまわれた朝鮮人を亀戸警察に通告し、警察のトラックに同乗して連行する〕それから3、4日たって〔ガラス屋の〕社長に聞いたら、じつはあの朝鮮人たちは小松川の荒川土手に連れて行かれて軍隊が機関銃で撃ったらしいと言う。それで小松川の土手に埋めたということを私は知っているんです。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

久保野茂次〔当時国府台野重砲第一連隊兵士〕
9月29日 晴 望月上等兵と岩波〔満貞〕少尉は震災地に警備の任をもってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまり非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)

〈1100の証言;大田区〉
西河春海〔当時『東京朝日新聞』記者〕
これは7日に、大森で聞いた話しである。大森に住んでいる俺の同僚とその妹とが、その夜一晩泊めて貰った時に、かわるがわる話したのだ。話しは極めて短かい、こうである。「3日でしたか、4日でしたか、海岸で自警団の人達が、7、8人団を為して来た朝鮮人を生捕ってしまったのです。7、8人とかたまっていたので抵抗もしたでしよう。そのために只でさえ狂気のようになっている人達は、余計に昂奮したと見えて、全部を針金で舟へしばりつけて、それへ石油をかけて、火をつけて沖へ離したのですって、・・・どんなでしたでしょう」というのだ。
(横浜市役所市史編纂室編『横浜震災誌・第5冊』横浜市役所、1927年)


早川種三〔実業家、企業再建家〕
〔3日、上野から大森めざして歩く〕大森の駅のそばまで来ると、「川崎の朝鮮人労務者が暴れ出し、押し寄せてきた。駅前で闘っているが、わが軍利あらず」といった貼紙が出ていた。一瞬、私は緊張したが、これは結局、悪質なデマだった。さらに「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだので、水を飲むな」といったデマも流れた。
(早川種三『青春八十年 - 私の履歴書』日本経済新聞社、1981年)

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月3日(その2) 葛飾区、北区の証言 「荒川の船橋(渡し)のあたり、赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だと言われたのを覚えている。また、上野駅でトラック一杯の血まみれになった朝鮮人を見た。」
続く




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