からつづく
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;新宿区/淀橋・角筈〉
徳原鼎〔当時淀橋角筈在住〕
〔1日〕日が暮れると、もう誰言うとなく「鮮人が襲ってくる」という恐ろしい流言が広がる。〔略〕あくる日は話は益々大きく「今鮮人が500人も大挙して八王子方面から襲って来る、手に手に鉄砲を持ち竹槍をしごいて実に物凄い、みんな警戒しろ」とか「多摩川の畔で内地人と朝鮮人と大衝突があって血の雨を降らしている、そして鮮人は何でも2千~3千人もいる」と誰やらメガホンで布令て来る、気が気でないような始末でした。
〔略〕郊外の角筈辺はまた格別の大騒ぎでした。その内に「あの徳原の家に鮮人が5、6人居る、けしからん、出せ」とギラギラ光る刃物を突きつけて怒鳴り込んで来る者もあった。〔略〕「何でも出せ、一息にやってしまう」と迫って来る〔なんとか守り通したが〕。
(『東京朝日新聞』1924年8月14日)
吉村藤舟〔郷土史象。角筈新町の下宿で被災〕
〔2日〕私がほとんど葵橋にかかった時に、2丁目の方から来る沢山の群衆を見ました。中に荷物自動車も徐行していた。それには巡査の白服も見えた。私はただ事ではないと思っている間に、とうとうこれと赤玉屋というつちや足袋の代理店の前で顔を合せました。見ると群衆は棍棒、竹槍を振り上げていました。
「ええ、やっつけろ、殺せ」
そしててんでがののしっている。それを自動車の巡査が、「なぐるな、なぐるな」と、いって、半分は自動車から体躯を出して群衆を制していました。
その群衆の前には黙々として歩いている30前後の背の高い男がありました。白い詰襟に、頂辺をとがらせた夏帽を被って、群衆に迫っ立てられていたが、ほとんど私は摺れ違った時に、後から出た棍棒が前の洋服男の頭に当った。と、思うと、次の棍棒が来たので男はそのまま仰向けに倒れた。
それを見ると群衆が「ワッ」と一時に鬨を作った。何という凄惨な出来ごとでしょうか。これが然も大正聖代の今日であるとは、私は実に泣き出したい程の感傷的気分にさせられたので、後を見ないで走って家に帰ってきました。
〔略。2日夕、近所の〕2人が話している前を、3丁目の方から1台の荷物自動車が走って来ました。内には4、5人の巡査がいて、その横手に大きな色の上を白い布で被ぶせたものがありました。
「おや、もうやられちやったのですね」
と、中村さんは一寸腰を浮かせてびっくらしたようにして話された。それで皆がその方へ眼をやりましたが、1丁目の角で消えてしまいました。私にはそれが人であったかどうか判りませんでした。
〔略。2日夜〕今夜も昨夜通り、無燈であるから、張り場は間なく(ママ)あやめも分かぬ闇となりました。そこへ1人の若い男が駆け込んで来ました。
「善ちゃんはいるかい、今ね、目黒(火薬庫の所在地)に鮮人が300人から押しかけて来たそうだ。それで兵隊と衝突して一戦争が始めて(ママ)いるそうだよ。ここも瓦斯タンクがあるから危険さ、逃げなくともいいかい。町ではもうてんでに支度をしとるぜ」
こういったので、一同は俄に狼狽しはじめた。子供などはそれを聞いて、今にも来るように思って泣き出した。闇の張場は更に物凄さを増した。〔略〕もう町の若い者の中には、さしこを着て長い棍棒を持っているものもあれば、日本刀なんかさしているものもある。まるで今にも戦争が始まるかと云った有様である。〔略〕ふとん屋の前に来て往来の様子を見ようとしだ。そこでは中村さんが若い町の男2、3人を相手に
「ここのタンクは大丈夫だ、蟻の這入る隙もない程に固めてあるから、でも太い奴じゃアないか、あの上に乗ってたというから・・・」
「え、奴はとうとうつかまって滅茶々々にやられちゃった。3丁目の方は荒いからね!」
「そうですか、一つはタンクがあるというので、自然気がそうなるのでしょう」などと話し合っていた。
もう町は、あちらでもこちらでもビール箱だの、物置台などが持ち出されて、それに来て夜番をする町の男がそれぞれ頑張って、往来する避難民を一々誰何していた。そこへ3丁目の方から、
「水道部が危ない。裏を固めろ、奴等が13人逃げ込んじゃったから・・・」と、伝令が来た。
「そいつは大変だ、ここを誰か固めておくれ」若い男は出て行った。
「13人の中には女もいるそうだから」と、伝令は走って行く男の後から更にこういって呼びかけた。
「さァ大変だぞ、水道部に毒でも入れられたら。東京市民は全滅だ・・・」
中村さんもこういって、それを1丁目の自警団へ報告に行った。
(吉村藤舟『幻滅 - 関東震災記』泰山書房仮事務所、1923年)
『東京日日新聞』(1923年9月3日)
「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く 300年の文化は一場のゆめ ハカ場と化した大東京」
〔2日〕午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ辛うじて追い散らしてその1、2を逮捕したが、この外放火の現場を見つけ取り押え又は追い散らしたもの数知れず。
『報知新聞』(1923年10月22日)
「鮮人襲来を巡査が触回る」
現に2日夜から3日午後にかけて浅草、巣鴨、淀橋方面ではオートバイに乗った警官や在郷軍人等が「鮮人が襲来するから女子どもは早く安全地帯に避難し壮者は・・・」と駆け回り人心を不安の極に達せしめ一層騒ぎを大ならしめた。警視庁でも2日夜には鮮人の暴動を全然事実であると信じたものの如く、府下某署では、わざわざ神奈川県下に偵察隊を発し、その虚説である事を本庁に情報すると、一部幹部は色をなして報告の杜撰である事を叱咤した位であった。
淀橋警察署
9月2日午前10時頃「今回の火災は鮮人と主義者との放火に基因するものなり」との流言あり、鮮人に対する憎悪の念漸く長ぜんとするを以て本署は角筈町なる労友社に止宿せる鮮人5名と柏木町その他に居住せる数名とを保護検束したるに、同11時頃に至り、「早稲田に於て鮮人4名が放火せるを発見せしがその内2名は戸山ヶ原より大久保方面に遁入せり」との報告に接す、これに警戒及び捜査の為巡査5名を同方面に派遣せしが、幾もなく又「鮮人等が或は放火し、或は爆弾を投じ、或は毒薬を撒布す」の流言盛んに行われて鮮人の迫害随所に演ぜられ、これを本署に同行するものまた少なからず、本署即ちその軽挙を戒めたれども効果なく、更に午後6時頃「中野署管内字雑色方面より代々幡町方面に向いて不逞鮮人約200名襲撃中なり」「代々木上原の方面に於て鮮人60余名暴動を為しつつあり」と訴うるものあり。不取敢右10余名の署員を急行せしめたれどもいずれも訛伝に過ぎざりき。
しかも民衆のこれに備うるや戎・兇器を携えて濫に通行人を誰何し、甚しきは良民を傷け、警察に反するに至れるを以て、午後8時暴行者の取締及びその検挙と兇器の押収とに着手し、更に在郷軍人と協力して流言輩語を誤信せざる様、戸別にこれを宣伝し、更に私服員をして流言者の内偵に従事せしめたり。かくて翌9日警視庁より自警団取締の達しありしが、その事項は本署の既に励行せる所なりき。当時最も粗暴の行動を恣にしたるは代々幡・代々木・富ヶ谷の各方面にして騒擾その極に達したれども、取締を厳にせる結果漸次平穏に赴きたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;新宿区/新宿付近〉
中西規策〔当時成蹊小学校5年生〕
「僕の家の方では2日の夕方頃から○○人が火をつけたとか言いだしました。そして3日には300人せめて来るなんて言って来ました。僕はねていたので知りませんでしたが、あとできいたら西洋料理屋に火をつけようとしていたのを、みつかってにげて今度は自動車会社ににげ込んでつかまったそうです。それから停車場の火薬に火をつけようとしてつかまったのも3人あったそうです。それから新宿のガードでつかまった女はバットでぶたれて目がふくれて血が出ていたそうです。」
(「〇〇人事件」成蹊小学校編『大震大火おもひでの記』成蹊小学校、1924年)
つづく
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