からつづく
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;墨田区/原公園〔現・橘銀座商店街内〕
小野内寿松〔吾嬬町請地で被災〕
2日になっても誰が言い出したか「津波が来る」という流言に驚かされ一時右往左往、大騒ぎをした。まもなくこれは消えたが、今度は外国人が一団となって襲来するとか、井戸の中へ毒を入れたから井戸水を飲むなとか誰が言いだしたか、又それを信じて急遽自警団を組織してちょっとでも怪しいと思われる人を誰何し、仲間同士は合言葉まで作っていた。実際、原公園や雨宮の原、四ツ木橋下、京成電鉄の線路上などで奇禍に遭った人を見た。
(墨田区総務部防災課編『関東大震災体験記録集』墨田区、1977年)
南厳〔労働運動家〕
〔2日〕夕刻に到り鮮人来襲暴動の噂あり、猶海嘯起りたりとの声あり。次で夜8時頃には原公園付近にて警官の鮮人を多数殺すを見受けたり。
(亀戸事件建碑記念会編『亀戸事件の記録』日本国民救援会、1972年)
〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉
平山昌次
〔被服廠から安田邸へ行き、2日〕朝になって一番怖いのは流言蜚語ですね。何々人が爆弾を放り込んだとか、蔵前のガス栓を抜いたとか、井戸に毒物を入れるとか、高波がくるとか。これはみんなデマだね。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)
堀晴雄
私の父(堀紫朗、震災当時30歳)は、震災の翌日から数日間、東京市内の被害状況を見て回ったそうで、その様子を私が小・中学校の頃に色々と話してくれました。話の中に朝鮮人虐殺がありました。その話の内容を以下に報告いたします。父が実際に見た状況です。正確性を重視して、文章でなく箇条書きと致しました。
時:震災直後
場所:本所被服廠近傍
加害者:日本人の、自警団員を含めたグループ
犠牲者:朝鮮人男子(人数不詳)
虐殺方法:荒縄で犠牲者の右手首、左手首をそれぞれ縛り、2人の男が荒縄を左右に引っ張り、一人の男が犠牲者を数回刺して虐殺した。 以上。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第79号、1997年)
本多茂〔軍人〕
〔2日、被服廠跡から厩橋へ行く〕その途中、棒を持った男が追いかけてきて、「井戸へ毒を投げこんだ朝鮮人があそこへ逃げていく。兵隊さん、つかまえて下さい」と呼びとめられた。見ると100メートルほど右手の焼け跡を逃げる男と、これを追う数人。私は関わり合うのを避け、返事もしないで先を急ぎ、鉄骨だけになった厩橋を渡った。
(関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)
宮崎勝次〔本所南二葉町で被災〕
〔2日朝まで被服廠に〕2日に小松川まで私達ゾロゾロ歩いて行ったのですが、向こうに知り合いがあり、そこに行ってそこの離れを借りてケガ人も集まりました。その夜には朝鮮人騒ぎで、刀を持ったり竹槍を持ったり、寝ていられずそれは大変でした。その間に地震がありまして、ですから庭に蚊帳を吊って寝たような始末でした。
どこへ行っても朝鮮人騒ぎで、あまり言いたくありませんが、被服廠の中でも殺されました。2日の朝にはもう、朝鮮人とわかると殺されるのです。凄かったです。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)
本所相生警察署
9月2日正午猛火の余炎未だ鎮まらざるに突如「海嘯襲来す」との流言伝わり、人心の動揺甚しく、殊に歩行不能なる傷・病者・老・幼・婦女の如きは何れも色を失えり。本署は即万一を慮り、傷・病者を避難せしむるの準備を整えると共に、他面流言の真相を探査せるに、事実無根なるを確知し得たるに依り、直にこれを民衆に告げ、以て人心の安静を図れり。然るに同日夕更に「鮮人襲来」の蜚語喧伝せられ、午後1時頃に至りては「鮮人300名厩橋方面より押し寄す」との情報を為すものあり、続いて同10時頃、一青年団員来りて割く「只今鮮人50名製来す、警戒あれ」と。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
大滝トラ〔当時23歳。旧四ツ木橋の少し下流に在住〕
9月2、3日ころだったと思いますが、荒川の土手のほうからボンボンという音が聞こえました。そして土手のほうから、火葬場で死人を焼くのと同じにおいがただよってきたのです。「死んだ人を若い者がみるものじゃない」と言われたので、見に行ったわけじゃないけれど、旧四ツ木橋の水道鉄管のあたりだったと思う。人の話では線路のレールを渡して、その上に人を置き、燃えやすくして焼いたといいます。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
鈴木良雄〔当時25機。青森古川町出身、向島墨田村鐘紡工場募集員鈴木福蔵長男〕
〔2日夜、四ツ木橋辺で〕軍隊から又も急報あり「男子は全部後鉢巻して不逞鮮人逮捕の応援に出でよ、後鉢巻の無い者は銃殺刺殺の危険に遭うも致し方無し……」と云う事であった。素破(すわ)! と男子の一隊は直に後鉢巻に日本刀を提げて軍隊、警官隊の傍らに馳せ参じた。軍隊は着剣、警官は抜剣、青年団・軍人会は日本刀に提灯を忍ばせ殺気紛々として〔略〕。
(『東奥日報・函館日日新聞』1923年9月6日)
首藤安部男〔当時東京相互利殖株式会社勤務〕
「言語に絶せる 鮮人残虐の跡」
〔車中で記者に語る〕私は本所吾嬬町大畑に自宅があったのですが、あの辺は地震にも倒壊せず火災も起らないので安心して避難していたのですが、2日夜になって突然鮮人40名が押かけて〔略〕佐倉連隊に急報すると共に一同小学校に避難婦人を中心にして男子が周囲を警護し襲い来る鮮人を撲殺して防禦したが、奴等は泥溝の中に30分も頭を埋めているという有様、又出した所を一青年が竹槍で顔面を突き刺したら跳んで来て肩に喰いつかれたのを他の青年等が駆けつけて殴り殺した。
京成電車方面では鮮人と青年との格闘が猛烈で全く戦場の様、〔略〕この鮮人の暴虐比類なき蛮行には彼等の麘殺を図る外はないとて各所共青年団等の奮起を見たのであるが、真に意外とも心外ともたとえようがない蛮行で考えても身の毛がよだちます。
(『いはらき新聞』1923年9月5日)
中島碧川〔本所松倉町で被災〕
〔火災を逃れて船で白鬚橋に上陸し、大正新道を通って荒川堤をめざし、2日、四つ木の友人宅へ。そこで〕丁度〔午後〕7時半頃、俄然幾箇所かの非常警報が乱打されて、何処ともなく、海嘯だ ー 海嘯だ -。
〔略〕昨日から災難続きに怖気のついている幾万の群集はゆめやも分らぬ暗夜に、この海嘯には一層驚いて四ツ木の木橋と、京成電車の鉄橋を越えて幾万の堤上の人が我勝ちにと避難した。その混雑さ、鉄橋を渡る者は枕木と枕木の間に落込んで如何する事も出来ない、その上を後から後から人が逃れて来る、木橋を渡る人は押合い押合って欄干の外に押し出され数十尺の下に落ちるその混雑、私も肝を潰して里芋のご馳走所の騒ぎではない直ぐに起き上って逃げようとしたが、人で逃げられない。その内にこの海嘯は或者の流言であったが、これがその海嘯よりも怖しい事件の襲来の前提でありました。その事件の内容は、私にはここに書き現すの自由が許されておらないのです。
(中島碧川『帝都遭難から長崎まで』国糸之友社出版部、1923年)
長谷川〔仮名〕
2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。
旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
つづく
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