2018年9月18日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その5)「翌日は、「放火」の噂が益々ひどくなり、町内の顔役の人々から、いろいろと警告をして来ます。井戸の中に毒を入れられるから井戸の警戒をも申して来ます。 〔略〕日は次第に暮れて行きます。町の角には号外がいくつも張られていて、それの中には秩父連山噴火というのが、いちじるしく恐怖をそそります。八ヶ岳も活動している、大島には7ヵ所煙が出ている、その他××主義者の扇動による××の襲来、横浜の全滅、その他いろいろの号外が、世界の終りの日もこれに近い事を想像させます。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その4)「〔略。2日〕夜が明けるが早いか巡査がやって来て、一軒一軒に「かねてから日本に不安を抱く不逞〇人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなことを知って、それにつけ込んで暴動を起こそうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じ急に起って市中各所に放火をしたのだそうです。又横浜に起ったは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺してしまい、段々と東京へ押し寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう怖くて怖くて生きた心地もなく.....」 
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;渋谷区〉
藤田佳世〔道玄坂大和田横丁で被災・裏の空地へ避難〕
〔1日夜〕そのうちに闇の中をメガホンで「朝鮮人の襲撃があるかも知れませんから気をつけて下さい。井戸に毒物などを投げ込まれる恐れがありますから十分注意するように」と、言い触らす声だけが聞えて来た。
私たちはますます恐ろしくなり、今にもこのうしろの大きな榎の樹の陰から武器をたずさえた朝鮮人が飛び出して来るのではないかという不安で背筋が凍った。明日はあの釣瓶(つるべ)井戸の水もうっかり飲めないと思うと、急に喉がかわいて来るような気もした。弟たちの眠っている台の端の方に腰かけたままの位置で静かにあお向けになると、こまかい星がキラキラとまばたいていた。このまま眠ってしまったら夜なかに朝鮮人に殺されてしまうかも知れないと思うと、すウっと泪が流れた。だが、ぼそぼそと話し合っている大人たちの声を聴きながら、いつの間にか私は眠っていた。ふと目が覚めたのは9月2日の未明であった。
〔略。2日夜〕丁度7時頃であったろうか、母が裏の大家さんへ何か相談に行っている留守へ、
「今ここへ朝鮮人がくるからすぐ逃げる支度をするように」と触れが回った。私は薄暗い家の中に駆け込むと仏壇からお位牌を取り出し、手早く風呂敷に包んだ。そして一升ぴん2本に水をいっぱいつめて、それも木綿の風呂敷で固くしばった。今朝、道玄坂で見た人たちの姿からも、水だけは持って行かなければと思いついたからである。そして私は母を呼びに行った。
帰って来た母は幸二を背負うと、手回りの物を包んだ風呂敷を私の背に結わえ、7歳であった妹のそのと、10歳の弟貞道の手を引き、
「さあ、どんなことがあっても手を離しちやいけないよ。まさ、おっかさんのここへ掴まって」と、自分の帯に通した手拭いの端を私につかませた。
私は片手を母の腰に、片手は一升ぴんを抱えてこの空地を出た。父と岩吉叔父はここにいて、町内の人たちと夜警に当たらなければならなかった。
そのころ今の百軒店が中川伯爵の屋敷であったのを箱根土地が買い取り、分譲地として売りに出されていた時で、建物や庭を取りこわされた屋敷跡は、皮をむかれたように赤土の禿山となり、そこここに一とかたまりずつ雑草が茂っているばかりであった。
家を出る時、私たちは山と川の合言葉ということを教えられ、誰かがもし山と言ったら、すぐ川と答えなければ朝鮮人とみなしてすぐ殺されると言われた。家は出たものの行く当てもないので、母はまず中川邸の跡に行こうと思ったらしい。奥吉の角を出て道玄坂をのぼり始めると、ものの半町とも行かないうちに、
「そらツ、朝鮮人が来たぞツ」と、誰かが叫んだ。ぞろぞろ歩いていた人達はわっと浮き足立って駈け出したが、先きの1人が物につまずき、みる間に10人程の人が将棋倒しになった。「わあッ」という子供の泣き声、「助けてえ」という大人の叫びに、俄かに凄惨の気がみなぎって、私たちは生きた心地もしなかった。それでも気丈な母に励まされて中川邸跡にたどりつき、小高い丘の雑草の上に腰をおろした。
見れば昨日から燃え続けている下町の火は衰えも見せず東の空を焦がし、余震は絶え間なく大地をゆすっている。悲しいとも恐ろしいとも、魂がしぼんで行くような心細さで、じっとしていられなかった。母もそう思ったのであろう。ここにいても仕様がないから大向小学校へ行ってみようかと言い出した。
私たちは再び反対側の坂を降って大向小学校へ足を向けた。円山町から今の栄通り消防署の方向におりて来ると、急にうしろで人が駈け出した。私たちはそれが朝鮮人ではないかと俄かにうろたえ、ともかくどこかへ身を隠したいと、学校手前隣りの家の門を叩いた。そしてかたわらの潜り戸に手をかけると、さっと内に開いた戸の陰にはッとするような大男が立っていたのに、「あッ」とばかり肝を冷やし、飛ぶようにそこを離れた。
大向小学校に来てみると、暗い学校の庭は黒い人影で埋まり、姿ばかりで顔もはっきりとは見定め難いお互いが、時折り名前を呼び合ってはその位置を確かめていた。
私たちはしばらくそこに身をかがめていたが、母が「こんな、人の顔もわからないような所にかたまっていて、万一殺されたり焼け死んだりするようなことがあったら、誰が誰やらまるでわからなくなってしまう。自分の家の跡ならたとえ骨になっても、ここの家の者だろうと、線香や花の一本くらい上げてくれる人もあるだろうから、家へ帰ろう」と、言った。
そのうち、私たちの安否を気づかってここへ尋ねて来てくれた父の「貞道、貞道」と、弟を呼ぶ声を頼りにやっと私たち親子は一緒になり、大向小学校からまた大和横丁へ帰って来た。
(藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』青蛙房、1978年)

鷲崎藤四郎〔千駄ヶ谷で被災〕
〇〇〇〇〇〇〇の報が帝都及び近県一帯を震撼した。2~3○○の者があって○○を所持したり暴行を働いたりあるいは○○を所持していたとの風評はあったが、真実とも思われない。仮にあったとしてもこれら少数の人のために宣伝は更に恐ろしい宣伝を生み、遂には善良なるものまで迫害された。内地人の遭難者もまた幾分かあるらしい。今から考えてみれば、私共のいる千駄ヶ谷は亀戸や品川方面に比し非常に静かであった。それでも2日夜のごときはいろいろな噂に怯えたものだ。まさかとは思ったが、これを打ち消すべき材料もないので、半信半疑で恐ろしい一夜は明けた。こうした物凄い夜が幾日か続いた。
〔略〕この数日後であったと記憶する。私は向側にいる○○学生に感想を聞いた - 11人で自炊生活をしている真面目な学生である。私共と一緒に夜を徹して夜警もやった、またその相談の場所にも席を列したのである ー 白く「私共が知っている範囲では浅草方面で30~40人一団となって〇〇〇〇いる事や、本所深川方面で迫害されているという事くらいで、充分に知ることができないが、友人で神田にいた学生3名が行方不明である。種々探しているが今に判らぬ。私共はこうしているが近所の某という下宿にいた3人は - 私も前にその下宿にいた - 2日夜庭に避難しているのを青年団から引き出されて淀橋警察署に送られた。その途中で何等の抵抗もしないのに暴行を加えられ重傷を負った。幸にして警察で手厚い看護を受けて後に習志野に送られた。私はその前日同署に見舞いに行って、包帯を外して傷口を見て以外にひどいのに驚いた。」
(「大震災に面して」『専売協会誌』1923年12月臨時増刊号、専売協会)

渋谷警察署
9月1日午後4時に至りて説を為すものあり、曰く「管内に接近せる芝区三田三光町衛生材料廠の火災は将にこれと相隣れる陸軍火薬庫に及ばんとす、火薬庫にして若し爆発せむかその一方里は惨害を被るべきを以て速に避難せざるべからず」と。宮澤署長はこれを聞くと共に署員をして偵察せしめ全くその憂なきを確めたれば民衆に諭して漸くその意を安んぜしむを得たりしに、翌2日午後4時頃「鮮人約2千余名、世田谷管内に於て暴行を為し、今や将に管内に来らんとす」との流言あり。これに於て各所に自警団体の組織を見るに至りし為、署長即ち署員を玉川方面に急派せしが、その途上駒沢村新井付近に於て鮮人20名が自警団の為に迫害に遭わんとするを見て直に救助し、一旦本署に護送せる後、更に進みて神奈川県高津村に赴きたれども、事実の補足すべきものなし。然れども民衆は固く鮮人の暴行を信じて疑わず、遂に良民を鮮人と誤解して世田谷付近に於て銃殺するの惨劇を演ずるに至り、騒擾漸く甚しく、流言また次第に拡大せられ、同3日には「鮮人等毒薬を井戸に投じたり」と云い、果ては「中渋谷某の井戸に毒薬を投せり」とてこれを告訴するものありたれども、就きてこれを検するに又事実にあらず、更に同日の夜に及びては或は「鮮人が暴行を為すの符牒なり」とて種々の暗号を記したる紙片を提出し、或は元広尾付近にその符牒を記せるを見たりとて事実を立証するものあり、人心これが為に益々動揺して殆んど底止する所を知らず、自警団の警戒また激越となり戎・兇器を携えて所在を徘徊し、且縄張を設けて通行人を誰何せるのみならず、挙動不審と認めらるるものは直に迫害せらるるなど粗暴の行為少なからず。
〔略〕同8日に至り「鮮人等下広尾橋本子爵邸に放火せり」との訴えあり、これを臨検するに何者かが同邸の便所に放火せしを直に消止めたるなり。尋(つい)て「中渋谷某の下婢が凌辱せられたり」との訴えあり、これを臨検するにその四肢を緊縛せられて同家の玄関前に横わり居しが凌辱の事実なく、又鮮人の犯罪にあらず、尋て同11日、「下渋谷平野某の雇人高橋某鮮人の為に殺さる」との訴えあり。これを臨検するに殺害は事実なれどもその手を下したるは平野にして所持金を奪わんが為に凶行を敢てせるなり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉 
生田花世〔作家〕 〔1日夜、牛込で〕そのうちに「放火」の噂が伝わりましたので、急いで、家へ帰って来て、その夜空地で、まんじりともせず、夜露にぬれて、暁をまちました。 〔略〕翌日は、「放火」の噂が益々ひどくなり、町内の顔役の人々から、いろいろと警告をして来ます。井戸の中に毒を入れられるから井戸の警戒をも申して来ます。 〔略〕日は次第に暮れて行きます。町の角には号外がいくつも張られていて、それの中には秩父連山噴火というのが、いちじるしく恐怖をそそります。八ヶ岳も活動している、大島には7ヵ所煙が出ている、その他××主義者の扇動による××の襲来、横浜の全滅、その他いろいろの号外が、世界の終りの日もこれに近い事を想像させます。 電灯がないので、わずかな蝋燭をともして空地で、集っていると、前の町には、軍隊が、抜身の剣で、30人位並びました。「今夜は特にこの付近は危険で、軍隊が来ましたから、みんなは、戸山学校の方にでも避難するように」と、町の人が申して来ました。 
(「避難の二夜」『文章倶楽部』1923年10月特大号、新潮社) 

石垣綾子〔評論家、社会運動家。市谷加賀町で被災〕 〔2日〕夜になる前に男たちは、わが家を守るため、自警団を組織した。〔略〕全くの闇の中で誰かが走ってくるのが聞え、叔母のところの下男が息切れしながら大声でいった。「今警察の告示を見てまいりました。朝鮮人の悪党どもがそこら中にいて、掠奪し、火をしかけ、井戸に毒をいれていると書いてございました。気をつけるようにと。家に戻る途中で、人が多勢集っているのを見ました。疑わしげな朝鮮人が打たれていました。朝鮮人がきいきい悲鳴をあげているのが聞えました。シャツはずたずたに破けていました。〔略〕まちがって日本人も何人か打たれました。通りの角々には自警団がおります。〈そこへ行くのは誰だ〉と聞かれて、すぐに自分の名前と住所を思い出せなくて、どもると、朝鮮人だと思い、自警団は散々なぐりつけます」 
(石垣綾子(マツイ・ハル)『憩なき波 - 私の二つの世界』佐藤共子訳、未来社、1990年)

石川泰三〔青梅で被災、2日、肉親・知人を探しに東京市内へ〕 〔2日、山吹町で〕表通りはいつもの通り賑やかであるが、皆不安な面色と、殺気に満ちた様子である。在郷軍人、青年会員が、手に棍棒を持ち、銃剣を携えて、今にも戦いが始まるのではなかろうかと思われた。 〔略〕一同戸外へ出て、棍棒を持って、「すは! 鮮人」と見れば、戦いの準備をおさおさ怠りなかった。すると、僕とすれ違いに通った怪漢は、警部のような制帽及服装で、指揮刀を吊り革でつらないで手に持ち、ゴムの浅い靴を穿いていた。色の黒い、顔の長い、頬鬚の生えた、見るから一癖あるらしい面魂である。僕は、これこそ不逞鮮人ではあるまいかと思った。 〔略〕勇みの熊さん、八さんのような連中が、跡をつけて行く。僕も様子を見るべく、後をついて行った。和倉温泉(銭湯)の角で、怪漢の姿は横へ切れたようであった。すると、やがて、「わあ・・・」という群衆のトキの声が聞える。怪漢は、ついに捕えられた。鮮人であった。(1923年記) 
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)

つづく







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