から続く
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉
丸山マス子
〔2日夜、避難先の雨宮の原で〕嫌な夜へ間近い黄昏時でした。小屋へ入ると間もなく「女、子児は夜中外出をするな。一軒から1人ずつ自警に出よ」と、触れが回りました。壮年者のいない理由で、私達は許されましたが、その夜は一晩中、方々に起る鬨の声や、呼子の笛、駆け出す足音で、怯えた心はいやが上にも募って、生きた心地はありませんでした。
(震災共同基金会編『十一時五十八分-懸賞震災実話集』東京朝日新聞社、1930年)
吉河光貞〔検察官〕
2日午後7時頃亀戸警察署に避難民風の男と在郷軍人の提燈を掲げた男が出頭し、「自分達は避難者であるが、自分達の避難場所から約10間位離れた雨宮ケ原には、鮮人が40〜50名集まって朝鮮語で良く判らぬが、何か悪事を相談している模様である。危険であるから早速保護してもらいたい」という申出をした。そこで同警察署勤務の警部補が右2名の男と同道して亀戸停車場に赴き、同所に駐屯中の軍隊にこの申出を通じるや、軍隊においては時を移さず、某中尉が26名の兵卒を引率して雨宮ケ原に向うこととなった。
あたかもこの時該軍隊に対し、戒厳本部から左の如き命令があったと伝えられている。即ちその命令は、唯今不逞鮮人約200名多摩川溝之口村方面より襲来し、煙草屋を襲撃しつつあり、目下討伐隊派遣中、軍隊は一層緊張せよとの趣旨であったとのことである。かかる命令があったという事実が伝えられるや、前記の如き「鮮人は悪い奴である」との風説に点火してたちまち不逞鮮人襲来の流言となり、江東方面一帯は同日午後7、8時頃、この種流言を以って蔽われるに至った。
(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府特別審査局、1949年)
〈1100の証言;墨田区/鐘ヶ淵周辺〉
江原貞義
〔2日夜〕枕橋は既に落ち東武橋を渡って寺島村に入るその時大島町、亀戸は盛んに燃えていた。白髯に出て鐘紡の工場の所まで行くと最早夜の8、9時の頃だったろう。ここで野宿をすることにして桜の木の下にモーフを引いて一同はねた。
余りの騒ぎにフト眼を醒ますと「この水の具合では来るよ、イヤ来るもんか - 」と十数人の工場の人と役場の提灯を持った人達が大騒ぎをしている。海嘯(つなみ)の騒ぎであることを知った。
こうした騒ぎをしている間に鮮人に強迫される - と土堤つたいに遁げくる人達が沢山いる。それ若者行け! と竹槍を持った若者が20〜30人飛んで行く、ピストルを乱射する音がきこえる、ここかしこにトキの声が上る。さながら戦場の様な騒ぎ。父も義兄も姉も一同が 「ここまで遁れてきて鮮人のために命をとられるのは残念だ」といっていた。倉庫に火をつけていたところを捕えてきたと堂々たる紳士の鮮人を自警団の5、6人が護衛してくる、2人3人、9人と一網にしてつかまえてくる。
刺し殺せ! と誰かがいう、ヤレヤレという声がすると鮮人の身体に穴ボコが出来る、何等手向うことなく彼らは死んで行く。如何に鮮人とはいえ、如何なる故あるか知れないが人類相愛から見れば暴に報いるに暴、血に報いるに血を以てせざる態度はまた尊くも思われた。
丁度真夜中の3時頃だったろう、こうした恐々たる所には長くもいられないので、一刻も早く安穏の地へと密行自警団の強者5、6人に護衛されて千住の町へと入った。梅島村に入ると小菅の囚人が逃げ出して狼籍をするというのでここもまた在郷軍人、青年団の人達が竹槍姿で隈なく警戒していた。
〔略。3日、埼玉の田舎で〕時しも鮮人の襲来というので警鐘乱打されて人心は戦々兢々としている、私達一行が寺橋という所まで来ると早速と誰何された。「日本人です」と丁寧に返答すれば、さすがは田舎の人達である、「失礼しました」と丁寧なものである。(1923年9月25日記)
(『若人』第4巻第10号、1923年11月「大震災記念号」、時友仙治郎)
大木□□子〔当時横川尋常小学校児童〕
〔2日夜、鐘ヶ淵の荒川土手で〕「もし事変があったら半鐘を打つから注意をして下さい」と男の人が言った。〔略〕1時間位たつと「つなみだ、つなみだ」と言って来たので、又も騒所ではない。「わあ、わあ、わあ」声ばかりしていて、人の顔が見えないので、何となく心細かった。やがて「つなみだ、つなみだ」も終って静かになった。又間もなく「朝鮮人があばれて来たから立退け」と言う通知があったので、又悲しい思いをして危ないがけの様な所から下りてどこだか知らない他の人の家へ行ってねかして貰って、明日になってから請地の家へ行ったところが、家は斜面に傾いていて、地震のある度毎に心をくだいていた。
(「悲しい一命をなくし損なった」東京市立横川尋常小学校『思ひ出』東京都復興記念館所蔵)
小宮寛〔当時23歳。本所石原町で被災〕
〔伝馬船を乗り継いで避難し、2日の明け方向島に上陸〕向島の家にもいられないんです。その流言蜚語のために。焼け残りのあの辺が最も激しい、井戸に毒を入れたとか、宮城に攻め込んだとかね。それと、津波がくるとか。鐘渕の方はまだススキがあった。その流言蜚語でみなさんが武装しちやってね。標準語のできない人は、大変なんですよ。「日本人じゃない」「やっちやえ」。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)
田播藤四郎〔当時寺島警察署管内墨田交番勤務〕
〔寺島署から〕9月2日には自分の交番に帰った。このときにはもう騒ぎはおさまりがつかない。流言蜚語で住民が極限状態になってるんだ。〔略〕交番にずっといた相棒の巡査は流言を信じこんでいて、自分で朝鮮人を引っ張ってくる。そしてこれを持っていたからって、役者が持つような刀を見せるんだ。「こんなもの切れるわけじゃない。おもちゃじゃないか」って言っても、「とんでもない、刺せば切れる。お前は朝鮮人の味方か」って夢中になってる。
〔略。その朝鮮人を寺島警察署に連れて行く途中で〕 いつのまにか鳶口を持ったりなんかして、あっちからもこっちからも集まってくる。〔略〕まわりを取りかこんで、一間もある鳶口でやられるでしょ。だから防ぎようがないんだよ。引っ掛けられて引っ張られて、結局死んじゃった。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿