里見勝蔵《室内(女)》 1927昭和2年
*1908年(明治41)7月25日
吉井忠、福島県福島市陣場町に生まれる。
福島第四尋常小学校から、福島県立中学校に進学し、同校で英語教師をしていた阪本勝(後の兵庫県立近代美術館館長)に影響を受ける。
1912年(明治45年=大正元年)4月19日
松本竣介、東京府北豊多摩郡渋谷町大字青山北町七丁目弐拾七番地(現在の東京都渋谷区渋谷一丁目六番一号)に生まれる。
父は(佐藤)勝身(盛岡藩士の家系)、母はハナ、2歳年長の兄彬との2人兄弟。
「松本竣介はもと佐藤俊介といった。姓が変ったのは、昭和十一年に松本禎子と結婚して妻の姓を名のってからである。「俊」を「竣」とあらためたのは、さらにそのあとである。」(『池袋モンパルナス』)
1914(大正3)
峻介2歳の時、一家は花巻に転居(父は盛岡出身)。
勝身のここでの事業は、シードル(発泡性林檎酒)製造販売で、勝身はその仕事を友だちと共同で始めていた。
竣介は小学校3年生の終わりまで花巻で過ごす。ゴムマリのように肥えて、生まれてこのかた泣いたことは殆どなかったという。
1919(大正8)
4月(7歳)、花巻川口町立花城尋常高等小学校入学
小学校の成績は抜群。3年生の学芸会の日、全校児童と父兄に見まもられながら壇にあがり、「大江山 佐藤俊介」と書いた雄渾な筆跡に拍手が鳴りやまなかった。
図画はもっとも得意な科目で、教室で手本を几帳面に写し、校庭に出ては、そびえるポプラや、この花城小学校のシンボルの鐘楼を描いた。
当時のライヴァルは砂賀(さが)光一といった。砂賀はのちに東京で偶然に竣介と再会し、以後その死まで深くつきあうのだが、小学校のころはときどき、とっくみあいをした。
非のうちどころのない子だった。理解力抜群、よく勉強し、いつもにこにこしていた。級長選挙では毎回満票を得ていた。図画は友たちのぶんも描いてやるほど巧みだった。
竣介は、算術や理科が好きだったから将来は技師になりたいと思っていた。
1922(大正11)
3月、一家は盛岡市に移る。
4月、岩手県立師範学校附属小学校に転校。のちに東京の自由学園に転じる佐藤瑞彦の教え子となる。佐藤は峻介を卒業後も支援し続ける。
1925年(大正14)
3月18日、一番の成績で卒業し、エリート校である岩手県立盛岡中学(現、盛岡一高、卒業生に宮澤賢治や石川啄木ら)に一番で合格。
入学式の前日(4月5日)、母ハナと兄彬と3人でちかくの警察官の家に招かれた。その家の子も盛岡中学に合格したので、両家そろってお祝いしようということで、ちらし寿司をご馳走になった。
帰途、中ノ橋のうえで彬が浮かれて弟の背中を軽くぶつと、竣介は悲鳴をあげ、涙をう浮かべて兄をみつめた。その夜、竣介は激しい頭痛に襲われ一睡もできなかった。翌朝は牛乳1本を飲むのがやっとだった。
家族は入学式を欠席するよう勧めたが、竣介はどうしても行くと主張したので、母は人力車を呼び、竣介は父に抱きかかえられてそれに乗った。式では校長の訓話の間、頭を揉み続けていた。教室で担任の話をきくうちに、父は無理やり竣介を連れ出し、待たせておいた人力車で家に帰った。
呼ばれた医師は鎮痛剤を打ったうえで、明日入院するように言った。
翌朝、医師は脳脊髄膜炎と診断し、助かる望みは少ない、助かっても知能は回復しないと言った。
医師は脊椎の間に太い注射針を射し込んで混濁した液を吸い取り、その後へ血清液を注入した。竣介は悲鳴をあげた。父の頭髪は真白になり、母は病院の中庭の木の下にうずくまり耳を覆っていた。竣介は以後、脂汗をながしながら激痛に耐えた。
3日目、耳が聞こえと訴えたが、病気が治れば耳は聞こえるようになると家族は思い、法華経を唱えながら、ただただ予言の14日目を待った。
14日目の午後1時頃、うめき声が薄れて眠りに入った。深夜、目覚めてサイダーが欲しいと言った。それまで何も口にしてなかったので家族は驚き、喜び、兄の彬が夜の町に買いに走った。竣介はそれをうまそうに飲んで微笑み眠りに入った。医師はいい兆候だと言った。病状は快方に向かったが、聴力は戻らなかった。"
初秋に退院し、10月に登校したが、耳が全く聞こえないので勉強は無理だと言われた。しかし、盛岡中学の校長は翌年の新学年から1年生として通学することを許可した。
1926年(大正15年=昭和元年)
5年生の兄と連れ立って通学。
毎学期末に成績が貼り出された。竣介は聴力と同時に平衡感覚も失っていたので体操と武道は免除されて席次をつけてもらえなかったが、その他の科目の成績は全て甲だった。教師も友も、耳が聞こえないのにこの成績と驚いた。竣介は、正規の学科の柔道・剣道がやれない悔しさから弓術倶楽部に入った。
父は竣介にカメラと現像・引き伸ばしの機器一式を買ってやった。父は、竣介を陸軍士官学校に進めたいと思っていたが、その望みが断たれたため、本人の希望通り工学の道に進ませてやりたい、それにはカメラが役立つだろうと思った。
竣介は戸外に出て写真を撮り、本でしらべて現像液、定着液を調合し、押入を暗室にして現像、焼き付け、引き伸ばしまでやったが、やがて興味を失った。父は、こんどはドイツ製のスケート靴を買ってやった。その頃の盛岡の少年たちは下駄スケートを履いていた。竣介は喜んで池に行って滑ってみせた。スキーも買っても貰って、滑った後は丁寧に手入れしてみせた。
しかし、竣介の心は沈んでいた。
小学校卒業までは耳が聞こえたので、教科書を読むと日本語が聞こえてくる。ただ、英語は聞いたことがないので、リーダーを読んでいてもどう発音するかわからず、先生や友たちが読んでいるときにどこまで進んでいるのか見当がつかない。英語が出来なくてどうして技師になれるんだと竣介は思った。
1927(昭和2)年
竣介が2年生になった年、兄・彬は卒業して上京し、府立一中の補習料に通い始めた。兄は、同郷の画学生(古沢行夫=のちの漫画家岸丈夫)に勧められて神田神保町の角の画材屋で小さな木箱に入った油絵の具一式を買って弟に送った。竣介は洋画の技法書を読み、やがて細かい唐草模様の大皿を写生し始めた。描き終えてそれを写真に撮って八つ切りに引き伸ばし、大皿も写真に撮って同様にして、この2枚の写真を父母に見せて、どちらが実物写真かと尋ねた。
両親は判別ず絵の出来栄えに感嘆していると、竣介は、「みた物をそっくり写せないようでは絵を描く能力があるとはいえないんだよ。でもそれだけではだめなんだ」と言った。
この年、中学生の展覧会に二度小品が入選し、画家への道を考えはじめる。
10月30日、市内中学生を対象にしたスケッチ競技会で2等賞を受賞、この頃行われていた七光社展に作品が展示される。
11月、男子師範学校生の美術団体白楊会を中心として開催された市内中学校絵画展に出品した。
1912年(明治45年)1月3日
寺田政明、福岡県八幡市に生まれる。
1912年(明治45年)2月5日
古沢岩美、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。
1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡る。
つづく
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