からつづく
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;世田谷区〉
『東京日日新聞』(1923年10月21日)
「鳥山の惨行」
9月2日午後8時頃北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向って疾走する1台の貨物自動車があった。折柄同村へ世田谷方面から暴徒来襲すと伝えたので同村青年団在郷軍人団消防隊は手に手に竹槍、棍棒、鳶口、刀などをかつぎ出して村の要所々々を厳重に警戒した。
この自動車も忽ち警戒団の取調べを受けたが車内には米俵、土工用具等と共に内地人1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原土工親分二階堂友次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼がありそれに赴く途中であった。
鮮人と見るや警戒団の約20名ばかりは自動車を取巻き2、3押問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする兇器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時経てこれを知った駐在巡査は府中署へ急報し、本署から係官急行して被害者に手当を加えると共に一方加害者の取調べに着手したが、被害者の1名は3日朝遂に絶命した。なお2日夜警戒団の刃を遁れて一時姿をくらました2名の鮮人中、1名は3日再びその付近に現われ軽傷を受けて捕われ、他の1名は調布町の警戒団のために同日これまた捕えられた。被害者は3日府中署に収容されたが、同署の行為に対し当時村民等には激昂するものさえあり「敵に味方する警察官はやっつけろ」などの声さえ聞いた。
『国民新聞』(1923年11月10〜12日)
「鮮人18名刺殺犯人12名起訴さる府下千歳村の青年団員」
9月3日夜、府下豊多摩郡千歳村に起こった鮮人18名刺殺事件の嫌疑者として〔略〕取調を受けていた同村、青年団員並木総三(51)・福原和太郎(43)・並木波次郎・下山惣五郎(29)・宮崎龍助(50)・下山武市(24)・小泉春三郎(24)・駒沢金次郎(23)・下田久治(23)・下山馬次郎(00)・下山友吉(24)・志村幸三郎(50)の12名は8日いずれも殺人罪で起訴され〔略〕。
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
内田良平〔政治活動家〕
2日午前1時頃〔略〕小倉房一が浅草観音堂裏に避難中、2名の鮮人が〔略〕いるを見つけ、大声を発したるより避難者が騒ぎ立ちたるため1名の鮮人は捕えてこれを殺したるも、1名は伝法院の方へ逃れんとするを追い駈け遂にこれを見失いたり。
〔略〕同日〔1日〕夕刻朝鮮人が〔略。観音劇場を〕出て来る所を怪まれ群衆より殺されたるが、それは彼等前後の挙動及言語より察するに鮮人なること証明せられたり。
〔略〕不逞鮮人の行動に就ては〔略〕青年団員に攻撃せられ〔略〕その集団数十名なりし由なるが、その6名を斬殺したり。
〔略〕伝法院の庭の中〔略〕捕えられ鮮人なること明白となり、直ちに群衆より殺されたり。
〔略〕浅草公園にては1日夜より2日にかけ多数の鮮人出没しつつありしか飛行機館の助かりたりしは当時これを保護したる土木請負高橋秀次郎にして、同人はその子分等は共に抜刀を以てこれに当り、その警戒頗る厳重なりしによるという、その付近にては怪しき鮮人の殺されたる者頗る多数に上れり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
香取喜代子〔ひょうたん池のほとりで避難生活〕
・・・・・結局もう2日の夕方からね、浅草も、上野も、水を飲んじゃいけない、いっさい水を飲んじゃいけないっていうんですよ。その水にはね、朝鮮の方とかね、そういう方が毒を入れてあるから - そのころ割に井戸掘ってある家があったわけですよね - だから井戸水はいっさい飲んじゃいかんっていうわけでね、みんな朝鮮の方が毒を入れてあるからっていうんですよ。マイクでね。そういって怒鳴ってくるわけ。在郷軍人だとか、そういう連中がね、いっさい飲んじゃいけない、飲んじゃいけないっていってくるから、あたしたち水に困っちゃうわけでしょ。その憎しみと両方あったんでしょうけどねえ、もう朝鮮人とか支那人とかそういう人を見れば全部その、井戸に毒を入れたのは朝鮮人だと称して、いい朝鮮人もわるい朝鮮人も全部かまわずね、みんなつかまえてね、その場で殺しちゃう……。
でもいやでしたよ。みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池のなかでもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。夕方から夜にかけて。〔略〕ひょうたん池のそばに大きな木が2本あって、方々に木がありますからね、2本の木の股にかけて、材木を買ってきたのとトタンでね、焼けた劇場のドアですよね、ああいうの突っ立てて、一時そこに6畳ぐらいのとここしらえてね、12日ぐらいいましたか。そしたらね、毎晩なんですよ、朝鮮人を見たらとらえろ、ぶっ殺しちやえっていうのね。はな、みんなね、5日ぐらいはぶっ殺しちやえだったんですよ。2週間目ぐらいになったらね、今度劇薬をね、方々に置くとか、そいから燃えるようなもの、アルコールとか揮発油とかいうものを建物のそばへ置いて火をね、燃すから気をつけろ、気をつけろってね、触れて回るわけですよ。〔略〕
殺されたのは朝鮮人ですよ。殺されたのは朝鮮人。山でもどこでも。裏の山でも、全体がそうですって。もう朝鮮人だっていって、その場で殺されなくってもね、みんなに叩かれたり引かれたりしてぐたぐたに去って連れていかれた。
3人見ました。その場でもう、どどどーって逃げてきたでしょ、5、6人がだーっと追っかけて、そっちだー、こっちだー、って。ひょうたん池ん中逃げてったら、そっちだー、こっちだーって。そしてひょうたん池ん中から吊り上げて。あの時分夏ですからねえ、水ん中はいったってそう冷たくないでしょ、だからみんな水ん中はいってね、吊り上げて、その晩、そういうふうにしてその人、32、3の男だった。丸坊主で。毛長くしてないみたいでしたよ。夜であんまり、ほら全体が暗いですからあんまりよくわかんないですけど、丸顔の人でしたね。夏だからほんとに簡単なシャツと、ズボンとでしたけどね。もう叩かれるの可哀そうで見るも辛かった。〔略〕
ほんとにその人目に映る、あたし。血だらけになってね。ほんとに目に映りますよ。あれは。(1970年頃の聞き書きより抜粋)
(高良留美子「浅草ひょうたん池のほとりで - 関東大震災聞き書き」『新日本文学』2000年10月号、新日本文学会)
つづく
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