2018年9月21日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その8)「窓の外のせまいつきあたりの道では、凄惨な殺戮がほしいままにされていた。4、5名の日本のやつらがおのおの竹槍をもち、1人の韓国人を手当り次第に刺していた。.....やつらはむしろ、留置場の中にいる私たちに見せつけるためにそんなことをしているのが、明らかだった。なぜかといえば、そんな殺人劇が一度ではなく、9月10日まで何度もくり返されたからである。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その7)「私の知っている朝鮮人で、朱某という早稲田へ通っている男があった。〔略〕その男はあの騒ぎの最中に、友人6名とともに巣鴨方面へ避難する途中で民衆警察のために捕えられ、6人の友人はすべて殺され、彼1人は辛くも付近の交番へ駆け込んで、危うく一命を助けられた。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;新宿区/戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉
友納友次郎〔国語教育学者。勤務先の向島の小学校で被災〕
〔1日夜、戸山ケ原の高台にある自宅へ帰り、2日午前2時過ぎ〕「○○○が隊を組んで押寄せているそうです。東京市内があんなに焼けるのも、○○○が爆弾を投げたためだそうです。東京を焼き払ったら隣接の町村にも押寄せて来るという報せがありました」
「○○が押寄せるという事を誰が知らせたのですか」「今警察から言って来たのです。警官が触れ回っています」
「警察が言うんだから確かだろう。ぐずぐずしていると、どんな目にあうかも知れない」
4時を過ぎたかと思う頃、不意に〔自警団の〕本部の方から「○○だ。坂口の方を注意したまえ。今原っ場の方から○○が2人入りこんだそうだ」
「ソレ、そちらに行った」
「ソラ向うに逃げた」
〔その2、3日後〕「○○○が2千人、隊を組んで長野県の方から押寄せてくるそうだ」
「千葉県の方からも○○が隊を組んで押寄せてくる。もう途中の村はみんな○○の手に焼払われてしまった」
「○○が女を捉まえて凌辱した上惨殺した」
「○○が井戸に毒を入れて歩きますから、井戸の水を飲まないようにして下さい」と自警団から知らして来る。「それはどこから、そんな通知があったのですか」「警察から一般に知らしてくれるように通知がありました」
(友納友次郎『教育革命焦土の中から』明治図書、1925年)
早川雅子〔当時牛込区早稲田尋常小学校6年生〕
2晩目の9時頃だった自警団の人が提灯をかざして大声に「○○人がこの学校に入った形跡が有りますから怪しい者を見たらすぐ本部まで御通知を願います」と警告した。さあ薄気味が悪くなってしまった。
それこそねむれない。どの家庭も蓙の上に黙々と目を光らして薄暗い夜の校庭の八方に注意していた。
学校に火をつけられたら大変。逃げ出す口がなくなるというので3晩目にはここの野宿を止めて皆自分の家を警戒した。夜が明けると○○○人捕縛で大騒だ。「この機に乗じて○○○○が爆弾を投げたのだとは怪しけらん。こ奴どうしてくれるか」と、若者の意気はすごかった。
軍隊も出動して辻を固め通り人を誰何した。3日目に家へひなんしてきた小父さんは、着物も何も丸やけで、南洋の服を苗子叔母さんに貰って着て歩いたら、朝鮮人と間違えられて、やっと通して貰った。
(「大地震の記」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常六年の巻』培風館、1924年)
牛込早稲田警察署
管内は、9月2日午前10時前後に於て、「不逞鮮人等の放火・毒薬物撒布又は爆弾を所持せり」等の流言あり、同時に1名の男本署に来り、「昨日下町方面に於ける火災の大部分は不逞鮮人の放火に原因せるものなれば、すみやかに在郷軍人をしてその警戒に当らしめよ」と迫りし。〔略〕未だ数時間を出でずして、所謂自警団の成立を見るに至り、鮮人の本署に拉致せらるるもの少なからず。
更にその日の午後に及びては、「鮮人等は東京全市を焦土たらしめんとし、将に今夜を期して焼残地たる山の手方面の民家に放火せんとす」との流言行われ、早稲田・山吹町・鶴巻町方面に於ては、恐怖の余り家財を携えて避難するもの多し、これに於て署長自ら部下を率いて同地に赴き、民情の鎮撫に努め、かつ曰く、「本日爆弾を携帯せりとて同行せる鮮人を調査するに爆弾と誤解せるものは缶詰、食料品に過ぎず、その他の鮮人もまた遂に疑うべきものなし、放火の事、けだし訛伝(かでん)に出ずるなり」とて反覆説明する所ありしも、容易にこれを信ぜず。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
淀橋警察署戸塚分署
9月1日午後6時40分頃、戸塚町字上戸塚に放火せるものありとの訴えに接したれども、実は誤伝に過ぎざりしが、翌2日未明に至りて鮮人放火の流言始めて起る、會々(いよいよ)同日午後1時頃に及び、戸塚町字諏訪神社境内に挙動不審の鮮人潜伏せりとの密告に接するや、直に署員20余名を派遣したるにその言の如く鮮人87名を発見してこれを検束せしかども、もとより不逞の徒にあらざるを以て取調の上、翌3日午後3時これを放還せり。
しかれども鮮人暴行の流言は益々盛んに行われ、遂に戎・凶器を携えて所在を横行する自警団の発生を促したりしが、数組の巡察隊を編成して戎・兇器の携帯を禁止せしめしに、その不可を論ずるもの少なからず、これに於て同4日自警団、在郷軍人団の幹部を招きてその旨を懇諭し、且警戒方法其他に就きて指示する所あり、更に一巡査派出所部内に2ヵ所の臨時警備所を設け、各巡査2名を配置してその取締に任ぜしめたり。
しかるに陸軍当局に於ては鮮人と社会主義者との連絡、通謀の事に対して疑を懐き、この日近衛歩兵第三連隊に命じて下戸塚なる長白寮の止宿鮮人全部並に諏訪鉄道工事場にある鮮人大工20余名を引致せしが、同6日に至り近衛騎兵連隊は社会主義者の検挙を為さんが為に本署の援助を求めしかば、同7日互に協力して要注意人8名及び鮮人1名を検束せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
〈1100の証言;新宿区/淀橋・角筈〉
石川泰三〔青梅で被災、2日、肉親・知人を探しに東京市内へ〕
〔2日〕土方の細君が「〔新宿で〕怪しげな者が現れまして、いきなり瓦斯タンクへ、爆弾をなげようとしたというので、この話をきいた私たちは、〈もう、とても駄目よ!あれを投げたら最後、一同助からない。死ぬなら共に死のう!〉と、手に手をとって覚悟しました。すると、新宿の青年会員らしい若者や、在郷軍人が出まして、いきなり、1人が、その男を背中から抱えました。すぐまた1人が、短刀で脇腹を突刺しました。とたんに、男は両手を挙げて倒れました。実に、物凄いたらありませんよ!」呼吸もせわしく語るのであった。(1923年記)
(「大正大震災血涙記」石川いさむ編『先人遺稿』松琴草舎、1983年)
金泰燁(キムテヨブ)(金突破キムトルバ)〔労働運動家。角筈の労働同盟会事務所で被災〕
〔1日午後3時頃〕李憲が通ってきた途中の警視庁の前と鶴巻町のあちこちに、「不逞鮮人が暴動をおこし、井戸に毒を投げ入れ、殺人・放火をするので、警戒せよ」という立看板が立っていたというのである。日本人は村ごとに自警団を組織し、また青年団、消防隊、警察などが韓国人を割り出し始めたという話だった。彼は、このことを伝えながら、街に出ず、養生しているのがよかろうという言葉まで残して、あわただしく消えていった。
〔略〕日が暮れて電気をつけようとしたが、つくはずがなかった。その時、淀橋区管轄の淀橋警察署高等係主任である松本警部補が4、5名の刑事を率いて事務所に入ってきた。前から監視を受けていた私たちは顔なじみだった。だが、この日の松本の表情は冷ややかだった。彼は鋭く事務所の中を見回して、私以外の同盟会の他の幹部の所在をたずねた。朝から私1人だったことをありのままに話すと、彼は私を連行すると言った。理由をきくと、保護するということだったが、予備検束が明らかだった。
刑事たちに引きずり出されて警察署に行く途中に見た光景は本当に殺伐たるものだった。あまりにも変貌した街の姿は、あたかも戦争を経た廃墟のようだった。のみならず、あの街この街には、いまだに災難に泣き叫ぶ女や子供の痛哭がたえなかった。特に目につくのは額に手城を巻いた青年たちが群をなしていききしながら殺気立った雰囲気をかもしだしていたことである。それがまさしく、韓国人を見つけ出そうと往来する暴力化した集団の姿だった。
ある街を通りすぎている時、そのうちの一集団が私たちに接近してきて周囲をとり囲んだ。
「こいつは朝鮮の野郎だな、ここにおいていけ!朝鮮野郎はみんな、俺たち自警団にまかせて処理させることになっているんだ」
と、私をおいていけと警察に要求した。だが松本はこのように答えた。
「こいつは重大犯人だから、警察署に連行するので、渡せん」
だが、彼らのうちの一部は私のあとについてきていつまでも私を苦しめた。本当に私の生命は、猛獣の行きかうジャングルの中につかまっている裸の幼児にすぎなかった。警察署までわずか400~500メートルにしかならない途上で、こうした殺気立った集団に3、4度会ったわけだ。
警察署に到着して私は柔道場に連れられていった。そこに入ってみると、約300名にもなる韓国人留学生、労働者が収容されていた。彼らをながめて見ると、大部分が体に負傷した受難者たちだった。私に消息がわからず、心配に思っていた労働同盟会の幹部も何人かいた。そして、その中には日本人もまじっていたが、彼らは社会主義者、無政府主義者であった。私はそこで、労働同盟会の幹部である朴興坤・姜大権・李憲・馬鳴や朴烈と彼の妻の金子文子、そして鄭然圭らと会うことができた。朴烈と彼の夫人は、ここにいたが不敬罪で市ヶ谷刑務所に移送されたと記憶する。
翌日である9月2日、加納という古い刑事が名簿の書かれた紙片をもってきて、20余名を別々に呼び出し、柔道場ではなく留置場に入れた。この中には、私をはじめとして労働同盟会の幹部全員と、堺利彦の秘書で私の知っていた藤岡淳吉もまじっていた。留置場に移されて後、私たちは取調が始められた。私の取調を担当したのは、偶然にも、淀橋警察署の高等係で悪名高い、韓国人刑事の李某という者だった。名前は忘れたが、彼は韓国人労働運動家の仇敵であるのはもちろん、数多くの韓国人のうらみのまとのような男だった。
この悪質刑事に私は毎日拷問をうげた。本当に執念深く悪辣な拷問だった。
「おまえが主導して火をつけたか」「誰と共謀して井戸に毒を入れたか。吐かないか」
訊問の内容は寝てもさめても、この二つだけだった。
〔略〕こいつのする拷問というのは、この上もなく人をなぶりものにする、そんな方法だった。ひどくなぐったり罰を与えたりするのではなく、細長い板でできた椅子の上にまっすぐにねかせておき、顔につばを吐いたりタバコの火で顔を焼く、冷たい水をかけるなどだった。
毎日のようにそんな拷問をおよそ2時間もうけていると、本当にカつきてしまう。その上、私は何日か前に相愛会でいためつけられていた体だから、その肉体的な苦痛はもちろんだが、ほとんど狂ってしまいそうだった。
このように残忍な拷問をうけて監房に帰ってきて、精神的・肉体的に苦しんでいたある日の晩、私が横になっている監房の窓の外の裏通りから、突然胸を引き裂くような鋭い悲鳴が聞こえてきた。そのうえ、その悲鳴は「アイグ、オモニー」という韓国語ではないか。その凄絶で絶望的な悲鳴は一瞬にして、監房にいる私たち韓国人の頭をなぐりつけたようだった。私たちは真っ青になった顔を見合わせて、どっと窓の格子にぶらさがった。窓の外のせまいつきあたりの道では、凄惨な殺戮がほしいままにされていた。4、5名の日本のやつらがおのおの竹槍をもち、1人の韓国人を手当り次第に刺していた。その日本のやつらの表情と身振りは、本当に血に飢えた悪魔そのものだった。この言葉以外に表現のしようがない。
警察署から目と鼻の先の所で行なわれるこうした殺人劇に、留置場の監房の中にとらわれている私たちが何かを狂ったように叫んでみて、何の役に立つだろうか。いや。やつらはむしろ、留置場の中にいる私たちに見せつけるためにそんなことをしているのが、明らかだった。なぜかといえば、そんな殺人劇が一度ではなく、9月10日まで何度もくり返されたからである。
(金泰燁『抗日朝鮮人の証言 - 回想の金突破』石坂浩一訳、不二出版、1984年)


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