2018年9月26日水曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その13)「警察は自警団について歩いているようなもので、なんの役にもたたなかった。このあたりでは、朝鮮人が蓮田のなかに入ったといって、自警団の連中が追いまわしていた。玉の井のいまでいう暴力団の連中が先達でずいぶん切ったという話も聞いた。自分の親戚の家も朝鮮人を使っていて、そいつを逃がすのにえらい苦労をしたと聞いている。かくまっていることがばれたらやられる。なんせ警察で保護するといっても、警察に踏みこんでやっちゃうんだからどうしようもない。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その12)「戦争で中国や南方へ行ったが、その時「なぜ朝鮮人虐殺が起きたのか」わかった。明治以来、朝鮮の人たちに相当ひどいことをしてきたから、仕返しされると思ったからじゃないか。」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉
曺仁承
〔1日夜、荒川土手四ツ木橋上で自警団に捕えられ、2日朝に寺島腎察署へ連行された〕寺島驚察署までくると、門の両側には日本刀を抜いた巡査が、ものものしく立っていた。彼らの白い制服も同胞の血で染まっていた。警察の門脇には、血走った数百名の消防団がたむろしていて手に持った鳶口や日本刀をふりかざして、私達を殺そうととびかかって来た。だがさすがに巡査等はそれをとめさせ、私達は署の中に入る事ができた。
〔略〕 この日〔2日〕この警察署に連行された朝鮮人の数は360人余であったが、その内には負傷者が大変多く、そのまま放っておけば生命にかかわる者もいた。
〔略〕しばらく眠ったであろうか、耳のあたりをひどくけられて、ちぎれるような病さに思わず目を覚ましたが、いつのまにかあれほど多勢の人々が一人も見えなくなっていた。実は私が眠っている間にも、地震が続きあちこちで窓ガラスがこわれたり、ひどい騒ぎ声がワーワーと庭の中に聞こえてきたので、同胞たちは又殺しにくるのだという恐怖感で、いっせいに逃げ出したのである。
私もこのままおとなしく殺されてなるものかという気特で、無我夢中外にとび出そうと警察の塀にとび乗った。すると、外には自警団の奴らが私を見つけて喚声を上げてとびかかって来た。私はそのまま警察の庭の方に落ちて助かった。私は外に出ることも出来ず、そのままそばの杉の木に登りかじりつくようにしていた。
30分程して、私はそつと杉の木を降り、庭の中の方へ行ってみた。するとその時私の目の中に入った光景は、巡査が刀を抜いて、同胞たちの身体を足で踏みつけたまま突き刺し無残にも虐殺しているのであった。只、警察の命令に従わず、逃げ出したからという事だけで、この時8人もの人が殺され、多数の人々が傷ついた。
(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)
長谷川〔仮名。玉ノ井駅近くで被災〕
1日夜から流言蜚語がとびかった。ポカンと音がしたら爆弾を投げているとか。火事なんだから石油缶なんかが破裂しても音がするわけだ。井戸に毒を入れたとか、避難民が集まれば津波が来るとか言っていた。
2日ごろ、警察が毒物が入っているから井戸の水は飲んではいけないと言ってきた。〔略〕でも信憑性のある話はいま考えると一つもなかった。実際に見たものはなかった。みんな人から聞いたことだった。朝鮮人が集団で追っかけてきて逃げたという話も、よく聞くと、追いかけられた朝鮮人の前を歩いていてそういう状況になったということだった。
〔略〕2日ごろ避難してきた人たちを加えて自警団ができた。自分も自警団に引っぼぱり出されたが、在郷軍人会だからというわけではなかった。警察は自警団について歩いているようなもので、なんの役にもたたなかった。このあたりでは、朝鮮人が蓮田のなかに入ったといって、自警団の連中が追いまわしていた。玉の井のいまでいう暴力団の連中が先達でずいぶん切ったという話も聞いた。自分の親戚の家も朝鮮人を使っていて、そいつを逃がすのにえらい苦労をしたと聞いている。かくまっていることがばれたらやられる。なんせ警察で保護するといっても、警察に踏みこんでやっちゃうんだからどうしようもない。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

古谷考一〔本所中之郷で妓災〕
私達が泊まっていた晩〔2日、現向島郵便周辺〕なんかも、一人蓮田のところで殺されたんですよ。刀で切られて。朝鮮人だって。で、それからも3日か4日くらいでしたかなあ、曳舟川の土手のところをゾロゾロしばられて、四つ木の方へ向かって行く行列を見ましたけどね。あとで問題になった朝鮮人の虐殺ですね。私なんか、まのあたりに数珠つなぎにされて行くのを見ましたけどね。
(『江戸東京博物館調査報告書第10巻・関東大震災と安政江戸地震』江戸東京博物館、2000年)

寺島警察署
9月2日午後5時「不逞鮮人等四ツ木橋付近に集合し、放火その他の暴行を為さんとす」との報告あり、ただちに署員を派遣したるに避難せる鮮人160人を発見せしかばこれを検束して保護を加えしも、民心の動揺甚しく、鮮人にして自警団の為に本署に同行せらるるもの同3日既に236名に上れり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

本所向島署
9月2日の夕に至り、鮮人が変災に乗じて放火・掠奪・強姦等の暴行を逞(たくまし)くせりとの流言始めて管内に伝わり、自警団の組織を促せしが、翌3日益々拡大して午前零時には「飲料水中に毒を撒布せり」と云い「請地町の油問屋硲文七の倉庫に放火の計画あり」と称せるのみならず、午前3時に至りては「避難者の収容所たる大川邸を襲えり」「既に寺島署管内大畑方面を掠めて漸次吾妻請地方面より本署の管内へ襲来の途にあり」と伝え、人心兢々として其堵に安んぜず、而も万一の変を慮り、署長は署員を率いて現場に急馳せしに、徒らに群集の喧躁せるを見るのみにして何事もなかりき。同日正午頃に「海嘯将に来らんとす」の流言ありて、人心は倍々動揺したるもその無根なるを喧伝して鎮撫に努め、幸にしてこれを安定せしむるを得しが、鮮人襲来の流言は民衆を刺戟して彼等に対する迫害は至る所に演ぜられ、これが為に同胞の奇禍に罹れるものまた少なからず、鮮人と誤解せられたる護謨風船行商人某が請地町自警団貝の包囲暴行を受け、同所巡査派出所詰巡査の救護に依りて漸く免れしが如きはその一例なり。かくて本署は各種の報告と実地の踏査とに依り、鮮人に関する流言が全く訛伝に過ぎざる事を認めたれば、民衆に対してその信ずるに足らざるを戒諭すると共に管内の有力者と議り、自警団の取締と指導とに鋭意する所ありしにより、9月中旬に至りて流言漸く其跡を絶ち、人心また平静に帰せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『報知新聞』(1923年10月4日)
「寺島署を襲った一団も検挙された」
暴行の最も猛烈であったのは寺島方面で、多数の被害者を出したばかりでなく、同地在郷軍人分会幹部岡田某中村米蔵外数十名の自警団が、去月2日夜の混乱最中に各自兇器を携えて寺島署を襲い、同署勤務の某警部補が○○である事を知り隠匿してあるだろうといって菅野署長以下に暴行を加えた事実があり〔略〕。

つづく




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