2018年9月23日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その10)〈1100の証言;杉並区〉 韓晛相、金敏奎・三奎兄弟が伊藤証信の無我苑に一時保護され、その後豊多摩郡高井戸村の江渡狄嶺に匿われ虐殺の難をくぐりぬけた顛末について.....

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その9)「鮮人襲来を巡査が触回る」 現に2日夜から3日午後にかけて浅草、巣鴨、淀橋方面ではオートバイに乗った警官や在郷軍人等が「鮮人が襲来するから女子どもは早く安全地帯に避難し壮者は・・・」と駆け回り人心を不安の極に達せしめ一層騒ぎを大ならしめた。警視庁でも2日夜には鮮人の暴動を全然事実であると信じたものの如く、府下某署では、わざわざ神奈川県下に偵察隊を発し、その虚説である事を本庁に情報すると、一部幹部は色をなして報告の杜撰である事を叱咤した位であった。(『報知新聞』1923年10月22日) 
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;杉並区〉
阿坂卯一郎〔劇作家。当時中学校1年生。高円寺在住〕
翌日〔2日〕の夕方になって、一戸から一名代表が出るようにと召集がかかった。ボクの家は父がいないから、ボクが出ることになった。〔略〕はなしをはじめたのは、同じ住宅に住んでいる電灯会社の社員であった。集っているのは10人ほどであった。彼は興奮していた。
「この大地震をいいことに、朝鮮人が騒ぎ出した。情報が会社にもあった。このへんにもきっとくる。井戸に毒をもるのだそうだ。そこで自警団を組織して警戒にあたれという命令が役場からでた。今夜から2名ずつ交替で井戸を守ろうと思うのだが、どういう組み合わせにしますか」 こういうはなしであった。ボクは朝鮮人のことなどさっぱりわからないが、井戸に毒をもられたら大変だと思った。
〔略〕1人のあまり見かけない大人が、ボクのところへよってきて、「君と組むことになった。今夜8時に迎えに行く」と言った。
〔略〕大人たちはわりと暢気な顔をしている。それとも迷惑に思っているのだろうか。興奮しているのは、電灯会社の社員だけである。
「もし、人影を見かけたら、大声出して触れ回ってくれ。包丁でも鎌でも武器を持ってとび出して行くから」と大声を出してどなっていた。8時になったら、その大人が迎えにきた。
(阿坂卯一郎『新宿駅が二つあった頃』第三文明社、1985年)

江渡狄嶺〔えとてきれい 思想家〕
〔下高井戸で〕その火は翌2日になって、益々、諸方に拡がった、それと同時に、不吉な流言蜚語が起った、それは、我が同胞の朝鮮人の上にであった、彼等は毒草を井中に投じ、石油を持って諸方に放火し、爆弾を携えて大建築物を破壊し、更に暴動を起して略奪不義を敢行しつつありと、ソシテ、誰いうとなく、見付け次第、彼等不逞鮮人を殺すのだというささやきは、流言蜚語に迷わされて、ほとんど半狂乱になった人々の問に、ここにもそこにも聞かされた。
同じ日の夕方から夜にかけて、平和な武蔵野にも、この流言蜚語が迅速に伝って、不安の念は、全村の空気を圧した、恐怖に克(み)ちた村々は、急に半鐘を乱打して人々を集め出した、人々は、棒、鳶口、竹槍、刀、鉄砲、思い思いに武装して、終夜大声を挙げてさけび合いながら、彼方に走り、此方に走りして、暗中に乱れて影を追う者の如くであった、この騒ぎに交って、幾度か、鉄砲の乱射する音も聞えた、半鐘は又その都度々々、はげしく打ち鳴らされた。
この騒擾不安の夜半、上半弦の月は、未だに恐ろしい火光が、都の空を真赤にしている上を、いつもとかわらず、何事もなきかのように、徐々と登り始めて、武蔵野一体を、青白い光に照らし亘した。
〔略〕夜が明けた、夜が明けてからの話を聞くと、私共のところから、西へ1里ばかりの烏山というところで、田畝中に、朝鮮人が14、5人も、重軽傷を負わされてうめいているということであった、又、その翌日の昼頃には、私共の隣り村の正用というところで、2人の朝鮮人が、自動車から引きずり下ろされて、ドーかされたということを聞いた。〔略〕
(「狄嶺文庫」所蔵→『新修・杉並区史・上』杉並区、1982年)

金三奎〔当時法政大学に留学中〕
(2日の)明け方になって、韓〔晛相〕さん(金兄弟の郷里の先輩で、地震後の混乱の中、偶然九段で出会った人)の知合いが神楽坂にいるからというので、私たちはとりあえず、そこへ出向きました。一眠りして10時頃に起きると、朝食の仕度がしてありました。私と兄が食事をすませていると、そこの家の主人が、韓さんになにごとか耳打ちしているんです。たずねると、ここいらはどうも”物騒だ”というんですね。その時には、私も兄もなんのことだかわからなかったのですが、すでに朝鮮人迫害のうわさが伝わってきていたわけです。その家の主人は、中野の知人のところへ避難するようにすすめてくれました。礼をいって、とにかく表通りに出ると、ちょうど中野方面へ行くバスがあった。私たち3人はそれに飛び乗り、中野で降りました。あの当時、無我愛運動という宗教活動をしていた伊藤証信という人がおりました。この人が中野の自宅に無我苑という修養場を設けていたんです。私たちが避難するように勧められた場所がそこでした。伊藤さんは親切な方で、裏庭の一角にゴザを敷いてくれたので、私たちは、しばらくはそこで休息をとりました。私たちの他にも、ずいぶんたくさんの避難者がきていました。そのうちに、このあたりも”危ない”ということがわかってきました。”朝鮮人狩り”のことを私が知ったのは、実はこの時でした。それで、伊藤さんは、下高井戸に住む江渡狄嶺さんのところへ行くようにと…‥。あそこならば、君たちも安全だろうというのでした。
この江渡さんは本名を幸三郎といいますが、私の命の恩人です。皆さんはあるいはご承知ないかもしれませんが、江渡さんはトルストイ主義者で、東大を中途退学してしまった人です。お茶の水女子高師を出た関村ミキさんという女性と結婚し、武蔵野の下高井戸で百姓生活を送られた方です。
〔略。2日〕夕方近くなって、私たち3人は下高井戸へ向いました。私も兄も手ぶらでしたが、韓さんには荷物が少しあった。それに棒を通して兄と韓さんが持ち、私はそのうしろからとぼとぼついていきました。田んぼのあぜ道を歩いていったんです。できる限り人のいない道を選んだからです。日がほとんど傾いた頃になって、やっと下高井戸に着きました。でも困ったことには、肝心の江渡さんの家がみつからないのです。そこは小川が流れていて、私たちが小さな橋を渡ろうとすると、”どこへ行くんだ”と、トビロを手にした消防隊員たちから誰何されたのです。江渡狄嶺さんのところへ行きたいのですが、家がわからなくて困っているんです。そう答えると、消防隊員たちは急に親切になって、私たちを江渡さんの家まで案内してくれました。3人が朝鮮人だということを、たぶん彼らは気づかなかったのだと思います。
そんなふうにして、江渡さんの家にたどり着いた時分には、もうとっぷりと陽が落ち、あたりは真っ暗でした。伊藤証信さんの紹介ということもあったのでしょうか、江渡家では心よく私たちを迎え入れてくれました。その時には、江渡さん自身は子供の看病で出てこられず、奥さんが私たちを別棟のお堂に案内し、蒲団を敷き蚊帳をつってくれました。このお堂は”可愛御堂”といって、幼くして亡くなった長男を憐み、建立したものだということを、あとで聞きました。
私は床にはいったのですが、うつらうつらしていて、あれは何時頃だったでしょうか。夜もだいぶ更けた頃でした。突然、太鼓の音と鬨の声が起こり、あっちへ行った、こっちへ行ったと、大きなどよめきがあったのち、一発の銃声が響きました。追いつめられた同胞が、殺されたんだ。〔略〕その夜以来、私たち3人は奥の室に移され、江渡さんから、外出一切まかりならぬという厳命を受けました。〔略〕江渡さんの家にかくまわれたまま、3カ月がたち、〔略〕私自身は江渡さんのお蔭で、直接には恐ろしいおもいをしたことはありません。虐殺事件のことも、むしろあとで知らされたようなものでした。
(金三奎「個人史の中の朝鮮と日本」『朝鮮と日本のあいだ』朝日新聞出版、1980年)
小松隆二〔アナキズム研究家〕
韓晛相(朴烈等の不逞社に加入)は、神田表神保町の平凡社で地震に遭遇。寄宿している西大久保に戻ることにした。たまたま途中の靖国神社で同郷の金敏奎・三奎兄弟に出会ったことで、その夜は3人で靖国神社で明かすことにした。翌日、3人で牛込の石田友治宅に立ち寄って、朝食をご馳走になった後、東中野の伊藤証信の無我苑に行くことにする。ところが、その9月2日を境に、朝鮮人に対する対応が急激に変化していく。それを読み取った伊藤夫妻は、無我苑は当局や自警団に狙われる危険性があるので、大事にいたる前に他に移り、一時身を隠すように、韓らにすすめ、東京府豊多摩郡高井戸村の江渡狄嶺を紹介する。東中野から江渡宅までは甲州街道を歩いて行くが、その晩、法政大学に学ぶ金兄弟は日本人と同じ学生服だったので、疑われることもなかろうと、そのままの格好で行くが、韓だけは手拭いでほうかむりをして顔を見られないように歩いた。ともかく無事に江渡宅に着くと、江渡は3人を快く受け入れてくれ、そこでほぼ1カ月程の間匿ってくれた。その結果、多くの同胞の犠牲をよそに、被害にあうこともなく、無事危険や混乱をくぐりぬけることが出来た。
(もっとも、1カ月後に東京市内に戻った韓は、その2日日に朴烈・金子文子の大逆事件との結びつきを問われて検挙されてしまう。最終的には証拠不十分で予審免除となった)
(小松隆二『大正自由人物語-望月桂とその周辺』岩波書店、1988年)

尹克榮〔音楽家、当時東洋音楽学枝に留学中〕
震災のあと、好奇心で都心はどうなったかと銀座あたりまで出かけて夜通し歩いた。2日にどの場所でか、握り飯配給の列に加わっていたところ、朝鮮人労働者が引きずり出されて殴られるのを目撃した。誰何されて日本語で答えられなかったのだ。その人が生きたか死んだかは分らない。こうした場面を度々見た。
帰り道では「朝鮮人が井戸に毒を入れ日本人を殺す」「あらゆる犯罪をしている。朝鮮人を追い出せ」などの貼紙が、時間がたつにつれて増えていった。何カ所かで私も誰何されたが、なれた日本語を使っていたからまぬがれることができた。
〔高円寺の〕下宿に戻ったが余震が続くため、何日か近くの留学生17人でかたまって竹林で野宿をしていた。中野には電信第一連隊があったが、ふいにそこから7、8人の兵士がやってきた。
「朝鮮人だろう、井戸に毒を入れたことがあるか」と尋問した。
「そんなことはしない」と言うと、嘘をつくなと2、3人が殴られ、下宿を捜査された。そのころの学生なら有島武郎の本1冊ぐらいは持っていたが、『惜しみなく愛は奪う』のタイトルが赤い字のため、「共産党だろう」と銃剣を突きつけられ、みんな電信隊に連行されてしまった。「保護」の名目で2、3日留置、調査されたのである。帰されても軍隊にいたほうが安全だったほど、周囲は物騒だった。
高円寺で友人たちと「どうせ殺されるのなら、1人殺して殺されるほうがよい」とまで話していたが、ある日1人の紳士が訪ねてきた。「すみません、玉と石を混同してしまいました。あなた方は留学生でもあるし、絶対そういうことはないと思いますが、民衆というものはそうではないものですから、了解してもらいたい。私たちが保護しますから安心してください」と言った。石とは朝鮮人労働者をさすのだろう。軍部からも、「これからはこういうことがないよう自分たちも努力するから、あまり誤解しないでくれ」と言ってきた。一番やられたのは労働者だ。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き評き』1983年)

つづく




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