から続く
大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;港区/麻布〉
青柳杢太郎
〔2日、麻布で〕その夕べだった、例の〇〇〇〇〇〇が持ち上がったのは。頼りない提灯の火が暗黒の街をわずかに照らしている中を、町内の青年団が声をからして、婦女子は麻布一連隊へ逃げよ、男子は〇〇〇〇〇〇〇〇と呼わりまわった。例の考察力に乏しい連中や、小心の婦女子は尼港の惨虐を連想して、今にも銃剣が横腹へ来るものと震え上がり、算を乱して或は一連隊の方向へ、或は倒れかけた屋内に逃げこみ、馬車道には日本民衆独特の武器たる竹槍をひっさげだ男子がいずれも極度の興奮を見せて仁王立ちに突っ立っているのみだった。目黒方面から一連隊の方へ絶えず避難民が走り来り走り去る。○○の数或は2千といい、或は200というも、誰も目撃したという者は一人もなく、徒におびえ、従に逃げまどうて来るに過ぎなかった。
その夜の半ば頃から○○の噂は○○と変り、井戸へ〇〇〇〇と変じ、○○に対抗するために立った竹槍組は、放火その他の変事を予防するために町内警戒の任に当った。
下町一帯にわたる大火は3日頃からようやく下火となり、余震の度数もようやく減じたが、流言蜚語は日を迫って猛烈となり、夜毎夜毎に自警団に当る職人や仕事師の類は公然兇器を提げて往来の公衆を誰何し、自動車を止め、日頃下げつめている頭をいやが上にももたげて溜飲をグイグイ下げた。震災のために精神に異常を呈した待合の主人が川に投身したのを、○○が追いつめられて川中に逃げこんだものと早合点して、伝来の名刀を振りかざして矢鱈に切りつけた勇敢なあわてものもこの自警団から出た。
(『石油時報』1923年10月号、石油時報社)
李方子〔李垠妃〕
〔避難先から鳥居坂の自宅に戻った2日〕大東京の大半が灰じんに帰し、騒然たる世情を安定させるために戒厳令が布かれましたが、よりどころを失った人心は極度に動揺して、名状しがたい大きな危険をはらんでいるようだと、安否を気づかって尋ねてくれた人々や職員から聞かされ、いやな予感におののくうちにも、「どさくさに乗じて朝鮮人が独立運動をおこし、方々で暴動がはじまっている」「朝鮮人が井戸の中に毒をまいたり放火してまわっている」「火事場泥棒や掠奪が行なわれている」といった流言が飛び交い、朝鮮人への呪詛はたちまち野火のように燃えひろがってゆき、「朝鮮人はみな殺しにせよ!」 と、怒り狂う人々によってむごたらしい虐殺が始まったとのこと。私たちにも危険が及ぶおそれがあるというので、宮内省第二控室の前に張られたテントのなかで、1週間過ごしました。
「何かにつけて朝鮮人は悪いと決められてしまうのはじつになさけない。たまたま労務者として渡ってきたごく一部の人々の非常識なことだけがめだって、それが朝鮮人だという固定観念をつくりあげてしまう・・・」。殿下はいいようのない悲しみと憤りに声をふるわせておられました。私たちふたりは、民族の血を超越した愛情と理解によって固く結ばれていても、日本と朝鮮の間には、とうてい埋めることのできない深い溝が横たわっていることを、この虐殺事件によってまざまざとみせつけられた思いでした。
1週間ぶりで家に帰ると、ただちに罹災者のために慰問袋をつくり、また家の職員で罹災したものもいるので、古着類を分配したりのいそがしさに追われましたが、心は一点に釘づけられて、悲しく、重く、とざされていました。多くの人が死に、むざんな焼野ガ原となった目の前の東京の姿にも、前途暗たんたる思いでしたが、朝鮮人ということだけで、理由もなく殺された同胞のむざんさには、救いもなく、やり場もないのです。「しょせん、私たちのカではどうなるものでもないのだ・・・」
日朝間の人柱にすることを意図した上での結婚であったことを思えば、殿下も、私も、はかないような、寂しいような、いいようのない気持ちにおちいらずにはいられませんでした。
(李方子『流れのままに』啓佑社、1984年→小田部雄次『李方子 - 韓国人として悔いなく』 ミネルヴァ書房、2007年)
荻原井泉水〔俳人。宮村町(現・元麻布)で被災〕
〔2日〕その夕方の事であった。「この辺に〇〇人があばれて来る」という飛報が伝った。その噂によると、この地震を機会として〇〇人の反逆が起った、彼等は平生用意して置いた○○を以て要所の家々に放火した、地震と共に随所に火を生じたのは全く彼等の仕業なのだ、而して彼等の仲間の近県にいる者は、大挙して東京へ急行しつつある、火に残された山手地方を焼尽そうというのが、彼等に残された目的だというのであった。今の場合、警察カは全く用をなしていない。各自を護るものは各自の外にない。日本刀を提げて来る者もあった。小人数ではいけない。手分けをしなければならない。義勇軍というようなものが、しぜんと作られた。この時も在郷軍人である・・・と人造石屋さんとが、しぜんに指揮者の形となった。
「皆さん、番号をつけてください」「1、2、3、4、5、6、なな、8・・・」などと不慣れな声が受けつがれた。それらの多くは鉄の細い棒をもっていた。それは町の裏手の井上侯爵の邸境にもと植えてあった鉄柵をどこからか取出して来たのだった。竹槍をこしらえて持っている者もいた。合言葉が定められた。「ミといったらムラというのだ」それは宮村町という町の名を分けたものだった。「それでは10人位ずつ一手になって、櫻田町の口に1組、三軒家の坂に1組、狸坂の下に1組、それから裏の山に1組、あとは遊軍として随時に応援に出ることができるように・・・」。あたかも、戦争の騒ぎであった。血気にはやる者は、後ろ鉢巻をして、細い鉄棒をしごくようにして勇み立っていたが、露営をしている家族の女たちは戦慄していた。而してこの夜もまた暗い夜になった。
「朝鮮人が300人押し寄せて来た、今、櫻田町通りで交戦中だ」という声が立った。女達は悲鳴を挙げた。「ここにいちゃ危ない、逃げろ」 「いや、散り散りになっては危ない、ここにかたまっている方がいい」「提灯は消せ、而してひっそりしていなくちやいけない」 「提灯はなるべく多くつけて大勢いるように見せた方がいい」。指揮する者の説もまちまちだった。その説の違うたびに人々は動揺した。
上の坂の方から30〜40人の避難者が、それぞれに包みを持って、ぞろぞろと逃げて来た。「それ」と又立騒いだが、その避難者は、雨が降って来たために、どこか雨覆いのある所を求めて、移るものだと解った。私達の露営は日除などで、不完全ながらも覆ってあったので、そこへ割り込んで来る者もあった。初めからぎっしりな所が錘を立てる隙もない程になった。
「狸坂の下で一人刺された」という報があった。それは朝鮮人と誤られた八百屋さんだという事だ。警戒している者が誰何した時、八百屋さんは答えずに逃げようとしたので(恐らくはこちらで対者を鮮人と思って逃げようとしだのであろう)、気早にも刺されたのだという。そんな話も人々の気をとげとげしく悪く尖らした。早く夜が明ければいい、と人々は念じた。東の空は夜明前の朝焼のように赤らんでいたが、それは遠く本所深川の辺に、まだ燃えている火が映っているので、黎明が来るには時間があった。
〔略。3日〕朝鮮人襲来の噂は、やはり人の心を騒がした。前夜は日比谷公園に露営していた人が、朝鮮人のために斬られたという説がある。今しがた、裏の山の草叢の中に懐中電灯をつけて潜んでいる奴があるという者がある。義勇軍の人達は前夜と同じく、鉄棒を引きならして、警戒に当っていた。蒼い稲妻がすさまじく閃く夜であった。
(「大震雑記」『層雲』1923年11月〜12月号、層雲社)
海江田準一郎〔実業家、政治家〕
〔2日夜、麻布台の榎坂で〕俄然坂下の往来にあたりて、時ならぬ喊声起り、群集の騒ぐ音にまたもや驚かされて、皆々何事ならんと立ち騒ぎしが、馳せ来りたる番頭の注進によれば、不逞鮮人が田中銀行に放火せんとしたるを発見してこれを逮捕せしものなりと。咄何たる怪事、果して鮮人が放火したるや如何はこれを知らざるも、地震と出火に人心恟々たる折柄また一同を狼狽せしめ、遂に俊夫君と秀夫君は日本刀を翳して番頭などと門前において自衛的警護の任に当れり。〔略。夜12時過ぎに「大地震襲来」の声を聞いた後〕大地震は来らず、後にて聞けば大地震の襲来は朝鮮人が2千〜3千人襲来するとの間違いなりしと。しかしその鮮人の襲来もまたこれ虚報にして、遂に戦々恟々の間に2日目の夜を明かしたるなり。
(海江田準一郎『大震災遭難記』私家版、1923年)
上土井初榮〔当時麻布区東町尋常小学校5年生〕
〔2日〕往来する人の顔は青ざめてはあはあとせきこんで、小走に走って行くと、間もなくえび色のオートバイが、風をきって走って来て、我が家の前で止った。皆人々はそれに乗って来た。オートバイに乗って来た人は、「諸君今玉川にあやしい船が入りました。それはたしか〇〇人と思われます。女子供は早く逃げて下さい」とそう言う声も切れ切れに、又オートバイをどんどんと走らせて行ってしまった。集った人々はどっと声を上げて、竹やりを作り始める人、刀を持って来る人、逃る人、で大さわぎをすると、又一台の自転車が走って来て、「もう防ぐ事は出来ません」と言った。私達はそれ逃げろと言うので原へどんどん逃げたが、生きている気はしなかった。ああ恐ろしい事があればある物だと、私は深いため息をついた。
(「思い出す9月2日」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常五年の巻』培風館、1924年)
神谷量平〔劇作家。麻布善福寺裏で被災〕
忘れられないのですが、2日目の夕刻のことでした。隣家、種田海軍中将宅の広い庭が接する辺りに、書生や女中たちが、ひそひそと集まって来て申しますには、ただ今ご主人様からの注意がありまして、横浜方面から不逞鮮人たちが暴動を開始しましたので、遊撃せよとのことです、というので一辺で天変地異から内乱の恐怖に変りました。緊張は3日3晩にわたりました・・・。私はこの地震によってはじめて朝鮮人という異国の人々の存在を知り、何の罪科もないのに日本軍隊乃至警察、憲兵の取締りを受け、ついには報復の恐怖による無残な犠牲者を大量に産んだ事実を知りました。
翌年の春だったかと思いますが、文部省さし回しの2名の朝鮮人の弁士が市内の各学校を訪れました。日鮮、当時は日朝とは言いませんでした。鮮人という蔑称でしたから日鮮でした。その日鮮友好のための、そして先の災害の禍を福に転ずるための祈りにも似た願いでした。そんなことがどうして出来たのか。今では到底考えも浮かばない、しかしはっきりとした朝鮮人側の謝罪(?)の旅であったと思います。「人という字は左の斜線を日本人とすれば、朝鮮人は右の斜線として成り立っています。日鮮が手を取り合い、躯を支えあってこそ平和が保って行けるのです。仲良くしましょう」という趣旨が、2人の掛け合い万歳のようなやりとりで、非常にわかりやすく語られたことを思い出します。
これって、反対じゃないでしょうか。仮に一歩を譲っても、日本人側の同趣旨が同時に述べられなければならないのではないでしょうか。どういう経緯であったかは記憶しませんが、滑稽な結末が待っていて、最後は校長、職員、生徒が全員爆笑したことを覚えています。ですからこの行動は大成功だったと思いますけれど、考えれば考える程、どうしても笑えなかったので、私はいつまでもこの終結を忘れることが出来ないのです。
(「麻布山善福寺裏(一〜三)関東大震災の思い出」『京浜文学』2005年5月号、京浜文学会事務局)
つづく
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