2019年9月21日土曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その43)「朝鮮人暴動のデマは2日の午前中、町田町に伝えられ午後には堺村に達した。〔略〕とくに横浜線沿線の南村・町田町・忠生村・堺村は横浜から中央本線へ向かう人たちがひきもきらず通り、デマが横浜からの朝鮮人・囚人の暴動であっただけに、その緊張と混乱は激しかったようである。」   

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その42)「.....青年団・在郷軍人団・消防組員等は各自戎・兇器を携えて警戒の任に当り、通行人の検問極めて峻烈なり。かくてその夜に及び西府村中河原土工請負業者が、京王電鉄笹塚車庫修理の為め鮮人土工18名と共に自動車を駆りて甲州街道より東京方面に向うの途上、千歳村大字鳥山字中宿に於て自警団の包囲する所となり、いずれも重・軽傷を負うに至れり。」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;福生〉
長谷川宇三郎
〔福生で〕あけて2日になって、朝鮮人の暴動が東京に起り、すでに先発は拝島九ヶ村水門まで押寄せて来たというデマが乱れとんで、村でも屈強な男衆は警戒にあたることになり、自警団が組織され、合言葉も〈熊〉〈川〉ときめられ、おのおの思い思いの身仕度で、竹槍やりょう銃をもつ人、父もみのを着て、麺棒をもって出かけた。父は棒術の心得があったのだろうか・・・。今でも、その時の麺棒がある。それを見るたびに当時のことが強い印象となっているのか、はっきりと思い出される。
(「私の住んだ熊川今昔」『福生第二小学校創立九〇周年記念誌』1964年)

氷川村・神代村
福生からさらに西の氷川村(奥多摩町)でも、奥氷川神社の秋祭りの最中であったが、地震がおさまったあとのデマの恐怖が「祭りどころではない」という状況を生みだしている。(『奥多摩町史』)。「大勢の朝鮮人が暴動を起して押寄せてくる。もう青梅では戦っているというのだ。みんな青くなった。川井の大正橋へやぐらを組み、ここで攻勢を食止めるという。大丹波からは、猟銃をもった鉄砲隊がくり出した。猟銃を持っている人は全員出動ということなのだ」と。〔略〕
また、北多摩郡の神代村(調布市)の消防組の日誌には次のように記録されていた(調布市市史編集委員会『調布市史研究資料Ⅴ - 行政史料に見る調布の近代』調布市、1986年)。
「9月2日 午后5時頃不逞鮮人襲来すとの流言ありて、直に夜警の準備をなし、村内総出にて宇内の各要所要所に配備をなし徹夜す 9月3日 日夜警戒す、村内総出にて(帝都近県に戒厳令を施行せらる) 午后8時頃、入間より入間明照院付近に怪物現われ、武器を以て抗して負傷との報あり、直に警鐘を乱打し、全員を集めて応援準備をなし、現場に役員馳せ行く〔略〕 9月4日 この朝、金子病院付近に鮮人有、応援頼むの報、金子より来り、直に全員出動す、虚伝にて帰る、出場員不平満々たり〔略〕」
(福生市史編さん委員会編『福生市史・下巻』福生市、1994年)

〈1100の証言;町田〉
中島司〔当時朝鮮総督府出張調査員〕
9月2日の午後3時頃横浜線原町田駅附近では3千人の朝鮮人が横浜刑務所を脱走して、その一部が八王子方面指して殺到するとのとんでもない噂が伝わったので、すは一大事と付近では女子供は山林へ避難し、男子は非常警戒のため総動員という大変な騒ぎになった。
(中島司『震災美談』私家版、1924年)

吉川泰長〔町田市広袴町464で被災〕
〔2日朝食後”流言さわぎ”〕隣のおじさんがはあはあしながら駆けてきて、「今朝鮮人が暴動を起こし、隊を組んで押しかけて来るから、村の人に早く知らせなければならないから、半鐘をたたきに行くんだ」という。やがて半鐘がヂャンヂャンと鳴りだした。そうこうしているうちに駐在所の巡査が自転車でとんで来る。「村人をみんな一カ所に集め、避難させねばならぬ」という。私はこの時、当時隣村の真光寺村より井の花村へぬける新道の工事をしていた朝鮮人がたくさんいたので、それかと思ったがそうではなかった。
村の人はひとまず村の妙全院に避難させ、村中の者は緊急相談の上、若い者は手分けして各組をつくり、組ごとに村境まで出張して警備にあたった。その時各自は昔から家に伝わる日本刀を持ち出し錆を落して白昼堂々とこれを腰にさして出かけたのであった。〔つるみ川・熊ヶ谷の岡上村を警備したが全くこなかった〕(1983年4月記)
(吉川泰長『関東大震災体験記』自筆稿本。国会図番館所蔵)

前田敏一・中村義高・小野輝治・大沢博政・井上敬三・津田安二郎・中馬得寿
市域でも不逞朝鮮人襲来のデマが伝わり、それなりの対策がとられた。当時の模様を数名の市民に語ってもらおう。
「2日の10時ごろだったと思うが三丁目の勝楽寺(原町田)入口脇で米屋を営んでいた田原の秀ちゃんという45、6の人が在郷軍人の外被を着て、ゲートル巻きの足袋はだしで鉢巻き姿も凛々しく日本刀をたばさんできた。曰く『京浜方面で朝鮮人が地震の混乱に乗じ、井戸に毒を投げ入れつつ大挙して町田へ押しよせてくる。16歳以上の者で日本刀のあるものはそれを持ち、無い者は竹槍を持って天神様へ集合してくれ、こまかい作戦はその時にする』と伝え次へ回られた。私共は14歳だったので残り、父や近所の人はさっそく竹槍作りをはじめたが誰の顔面も蒼白だった。誰かが鋭利にそいだ槍の部分を油で焼くと先がささくれないなどと真剣だ。
5日ごろになると余震も遠のき朝鮮人騒ぎもそれほどでないと伝わった。また、横浜方面からの避難者から保土ヶ谷あたりの自警団の検問方法を聞いたのも父と伯父を勇気づけたようであった。それによると自警団の検問所の前に来ると『止まれっ!』と一喝され、まず行き先を聞かれた。そして1から10まで数を読まされるのである。なぜ数を読ませるのかと聞くと、朝鮮人は5と10の濁音が出ないのでわかるということであった」(原町田・前田敏一)

「2日の午後1時ごろ騒ぎがあった。東京の巣鴨の刑務所にいた服役者と朝鮮人が一緒になって焼打ちを始め、今、大野村を焼いているという噂であった。神奈川県の方の人が馬に乗ってやってきて『武器になるものは皆持って出ろ』、と伝えていった。相原は地理的に情報を入手しにくい地区であったが、神奈川県の人が馬に乗ってきたので皆本気にしてしまった。夜になり襲撃に備えスパイクをはきボキ棒を腰にさして山に登った。大野村はちっとも焼けていない。帰って来て朝鮮人の焼打ちは嘘だといったら在郷軍人に怒られてしまった。馬上に仙台袴をはいて日本刀をさして指揮した人もいた。3日の昼ごろ朝鮮人ではないかということで私のところへ連れてこられた人がいた。私が調べを頼まれて話しを聞いてみると、どうしても山梨県人でなければでない言葉が二言・三言あった。朝鮮人と間違えられた人は中屋の旅館に泊っていた人で甲府の南の方の人に違いないことがわかって許された。その人に私のところの名入れのちょうちんを貸して帰した。それから20日ばかりたって、その人は『お陰で助かりました』とちょうちんを持ってお礼にきました。考えてみると騒がなくてよいことを騒いだと思う」 (相原・中村義高)

「鶴川街道の切り通しで作業をしていた40〜50人くらいの朝鮮人の飯場があったが、大震災の起こる1、2日前に、それらの朝鮮人は突如として姿を消してしまった。それが鶴川地区では朝鮮人騒ぎに拍車をかけてしまった。鶴川村は全域歩哨体制をとり伝令も置き実戦体制でした。村民には『家にある日本刀・槍など武器になるものはすべて持って出よ』という命令がきたが、この命令はどこから出たかめからない。在郷軍人、消防団員、青年団員らは竹槍をめいめいこしらえ、日本刀、猟銃、ピストルを携えた。村の年寄・子供は山へ避難させ、それらの人々におむすびを用意し、水はめいめいがバケツをさげ塩気を持たせて籠城させた。青年団は夜を徹して警戒に当たった。2日の夜、『原町田方面に朝鮮人の一部隊がきていよいよ決戦に入るから準備を強固にしろ』という伝達がきた。そのうち『拳銃の音も猟銃の音も聞える』『小野路にきた』というニュースが入る。ところが3、4発の銃声が聞えた。このときはさすがにやっぱりきたかと思った。子供の泣き声によって山に避難していた人々が発見されるのを極度におそれた。このさわざの時、『社会主義者の煽動によって起こり、朝鮮人は日本人を恨み、社会主義者と朝鮮人が国家災難のときに当って蜂起した』と伝令を受けた」(真光寺・小野輝治)

「このさわざの命令を出したのは役場ではなくて警察だと思います。横浜の刑務所に収容されていた囚人が2日ほどして、全部この甲州に向かってくるという情報が入った。金森の鉄道橋に在郷軍人や消防団が全部集結して警察分署長が陣頭に立って指揮をしていました」(本町田・大沢博政)

「3日、4日のあたりまでは、ほとんど民衆自体の自発的な働きで民衆が動いたと思います」(鶴間・井上敬三)

「市域にいた朝鮮人は屋台をかついでいた飴売り一人であった。横浜から朝鮮人や囚人が来るといううわさが流れると自警団は半鐘を鳴らして警報し、私も警戒に当たった。当時駐在所の電話は正常に働いたが警視庁からの連絡はなかった。消防団は警察分署長が指揮監督し、自警団は各部落で組織して警官は連絡だけをしていた。朝鮮人暴動について警察は本当だと信じていた。警察には市域以外の人で幾人か連行されて来たが問題はなく保護して八王子警察署に送っていった」(町田分署町田町本町田駐在所巡査・津田安二郎)

「真光寺の伊藤さんが道路建設工事で大蔵に飯場をもっていた。そこには30名ぐらいの朝鮮人がおり消防団や村の青年団が竹槍を持って殺気立っていた。交通・通信機関もとざされていたので自転車で連絡をとった。消防団・青年団は府道に縄を張り数十人が要所要所を固めていた。大蔵の朝鮮人飯場は小野路駐在所の管轄であったが、私は飯場へゆき『外へ出るならば命は保証しない』と話し、朝鮮人の殺気立つのを押えた。駐在所には電話がなく町田分署から朝鮮人暴動の伝令が来たがデマだとは思わなかった。
この飯場は小野路の駐在と私と請負師の三谷と3人で保護した。一時、憲兵が乗馬でやって来て発砲したといううわさもありました。大蔵の飯場の朝鮮人は無傷であり、管内の朝鮮人は全部無事でした」(鶴川村能ヶ谷駐在所・中島得寿)

朝鮮人暴動のデマは2日の午前中、町田町に伝えられ午後には堺村に達した。〔略〕とくに横浜線沿線の南村・町田町・忠生村・堺村は横浜から中央本線へ向かう人たちがひきもきらず通り、デマが横浜からの朝鮮人・囚人の暴動であっただけに、その緊張と混乱は激しかったようである。
(町田市史編纂委員会編『町田市史・下巻』町田市、1976年)

つづく




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