から続く
大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;渋谷区〉
田島ひで〔政治家、婦人運動家〕
〔1日夜、代々木初台で〕そのうち「朝鮮人の襲撃がある」「鮮人が放火をしている」「井戸に毒を入れた」などということが伝えられた。男という男は一人残らず、なんでも手もとにある武器を持って家の外に立つようにとのこと、女、子供は家の中で待機すること、というふれである。家の中にはいれば余震におびやかされる、家の外に出れば朝鮮人の襲撃がある、というので人々は戦々兢々として身のおき場のない思いだった。
〔略〕私が留守居を頼まれた家の主人は近衛師団の若い将校だったので、2、3日すると、兵隊が2人、家の番をかねて食糧をもってやってきた。その日のことである。朝鮮人を捕えた群衆が、兵隊がいるというので私たちの家に連れてきた。見ると、1人の男を武器を持った群衆がとりまいている。人々の言うには、その男の身なりが朝鮮人そっくりだというのである。彼は白い立縞の洋服をきて、水筒をかけ、一見、朝鮮人というより中国人を思わせるものがあった。彼は自分が日本人であることを一生懸命弁解しているが、群衆はきこうともしない。双方が興奮している。「交番につれていったがお巡りではよう殺さんので、兵隊がいるこの家に連れてきた、水筒には毒がはいっている」というのである。東京のまん中の出来事として、まことにうそのような事実である。
捕えられた男は、これから田舎にゆくところで、自分は日本人であること、水筒に毒などはいっていない、といって、私たちの目の前で水筒の水をのんでみせた。しかし、彼の言葉はデマゴキーにたけりたった群衆の耳にはいりそうもない。いろいろな武器を手にした自警団員という群衆は、殺気だっている。私は、ともかく兵隊と話し、まずなによりこの人の言う、家族に知らせねばならないということになった。さいわい、この騒ぎをききつけて家族の人がとび込んできた。
〔略〕このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。このときの朝鮮人の犠牲者は3千人とも6千人ともいわれた。夕方、代々木の原を1人の男が死にもの狂いで逃げてゆく、その後から、わぁ-つ!と叫んで武器を手に追いかけてゆく群衆、それを見ている人々が、朝鮮人だ、朝鮮人だと、憎しみをこめて騒ぎたてているのを、私はこの目で見た。
〔略〕このころは新宿あたりでも井戸水を使用している家が多かった。友人の家を訪ねると、その家の井戸に白ぼくでしるしがつけられており、人々が集まって「このしるしの井戸には朝鮮人が毒を入れた」といって騒いでいた。
(田島ひで『ひとすじの道 - 婦人解放のたたかい五十年』ほるぷ総連合、1980年)
田山花袋〔作家〕
そこには自動車が行く、荷馬車が行く、鈴生の電車が行く、大きな包みを持った避難者が行く、巡査が行く、兵士が行く、キラキラと日に光る銃剣が行く、かと思うと、余程抵抗したと想像される同志の男が、血にまみれたまま3人も4人も数珠つなぎになって引張られて行く - 四谷見付のところにほんのわずか立っていた間にすら私は眼も眩めくような動揺を総身に感じた。
〔略。3日、代々木に帰宅すると妻が〕「どうしたも、こうしたもありやしませんよ。物騒で、物騒で、何をやるかわかりやしないんですもの。外だッて滅多に通れないッていうじゃありませんか?〔略〕何でもいろいろな噂がありますよ。そういうものが100人も堀の内にいて、それが此方にやって来るっていう話ですよ。」
〔略〕1日の夜よりも2日の夜が騒がしく、2日の夜よりも更に3日の夜の騒がしかったことを私は思起した。3日の夜は、いかにのんきな私でも、家の中に入って寝てしまうことが出来なかった。私達は得体のわからぬ人達からいろいろの警告を受けた。ある人は裏から入って来て、「今、大きな揺り返しが来ますから、皆な外へ出ていて下さい」と言った。またあるものは、「私は町の自警団ですが、市ヶ谷の監獄を開いて罪人を釈放したそうですから、皆さんてんでにお気をつけ下さい」 こう表口から怒鳴って行った。いろんなことが刻々に私達を圧迫して来た。益々私達は不安になって行った。
〔略〕もう日がくれかけて、人の顔もはっきりとは見えない頃であったが、俄かに裏の方でけたたましい声がして、「・・・人?叩き殺せ?」とか何とか言って、バラバラ大勢が迫かけて行くような気勢を耳にした。慌てて私も出て行って見たが、丁度その時向うの角でその・:・・人を捉えたとかで、顔から頭から血のだらだら滴っている真蒼な顔をした若い1人の男を皆なして興奮してつれて行くのにぴったり出会した。私はいやな気がした。いずれあの若い男は殺されるだろうと思った。気の毒だとも思った。
(田山花袋『東京震災記』博文館、1924年)
平野忠雄〔日本橋小舟町3丁目で被災〕
3日朝、飯田橋より九段、三番町、三宅坂、赤坂見附、飯倉、一ノ橋、天現寺橋と歩いて広尾にさしかかっだとき、大通り前方から数千の人がこちらへ向かって歩いてくる。聞けば、朝鮮人2千人くらいが日本人を殺しながら押し寄せて来、途中、井戸に毒を投入しているという。私たち親子は先頭となって逃げ、久邇宮邸へなだれ込んだ。
(品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)"
堀直輔「日銀職員関東大震災日記」
〔2日、幡ヶ谷で〕夕方、浜を外界の状況を見聞きさせるため外出させると、鮮人が石油缶を持って数名各所に放火して回っている、警官が抜剣して数名幡ヶ谷の通りを代田橋の方向へ駈け過ぎた、などということを聞いてきた。後ろの広場に避難の用意をする。15歳以上の男は集れというので集合。鮮人防御警備をするという。それから部隊を作って徹夜任務につく。何もなさそうなので大抵は家に戻る。
〔略。3日〕今晩は軍隊と消防隊とにまかせ、吾等の夜警は一時見合わす。ただし銘々で気をつけ、もし事あるときはお互いに叩き起こすこととした。と、12時になって桶だか何だかを叩き起きろ起きろと、どなり散らしているので皆驚き起きた。銘々手に手に武器をもって警戒することにした。時々ワイワイと走り騒いでいたが、それもしばらくするとおさまって、隣の工藤氏と相談、寝ることにした。ところが又も起こされ、笹塚の方から自動車に人が一杯乗ってあたかも何かを追跡しているような風で、何が何だか一向様子がわからぬ。馬鹿馬鹿しくなって僕も寝た。
(青木正美『古本屋控え帳(303)・大震災と書斎書庫(3)」『日本古書通信』2011年9月号、日本古書通信社)
和辻哲郎〔哲学者、千駄ヶ谷で被災〕
〔2日〕不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。これまでは抵抗し難い天災のカに慄え戦いていたのであったが、この時に突如としてその心の態度が消極的から積極的へ移ったのである。自分は洋服に着換え靴をはいて身を堅めた。米と芋と子供のための菓子とを持ち出して、火事の時にはこれだけを持って明治神宮へ逃げろといいつけた。日がくれると急製の天幕のなかへ女子供を入れて、その外に木刀を持って張番をした。
〔略〕夜中何者かを追いかける叫声が所々方々で聞えた。思うにそれは天災で萎縮していた心が反発し抵抗する叫び声であった。
〔略。3日〕自分の胸を最も激しく、また執拗に煮え遅らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂であった。
自分は放火の流言に対してそれがあり得ないこととは思わなかった。ただ破壊だけを目ざす頽廃的な過激主義者が、木造の都市に対してその種の陰謀を企てるということは、極めて想像し易いからである。が今にして思うと、この流言の勢力は震災前の心理と全然反対の心理に基いていた。震災前には、大地震と大火の可能を知りながら、ただ可能であるだけでは信じさせるカがなかった。震災後にはそれがいかに突飛なことでも、ただ可能でありさえすれば人を信じさせた。〔略〕そのように放火の流言も、人々はその真相を突きとめないで、ただ可能であるが故に、またそれによって残存せる東京を焼き払うことが可能である故に、信じたのである。(自分は放火爆弾や石油揮発油等の所持者が捕えられた話をいくつかきいた。そうして最初はそれを信じた。しかしそれについてまだ責任ある証言を聞かない。放火の例については例えば松坂屋の爆弾放火が伝えられているが、しかし他方からはまた松坂屋の重役の話としてあの出火が酸素の爆発であったという噂もきいている。自分は今度の事件を明かにするために、責任ある立場から現行犯の事実を公表してほしいと思う。)
いずれにしても我々は、大震、大火に引きつづいて放火の流言を信じた。
(「地異印象記」『思想』1923年10月号、岩波書店)
つづく
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