から続く
大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉
米川実男〔当時21歳〕
〔3日〕朝鮮人の来襲の話はデマだということが分かったが、横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重傷を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮の感に打たれた。
食うものは全くなくなった。隣の人に頼まれて、若者ばかり数人連れで、平塚村戸越のとある米屋へ2俵の玄米をとりに行くことになった。途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何かと見ると、朝鮮人が2人電柱に縛りつけられているのであった。(1924年8月稿)
(「避難民の一人として」関東大震災を記録する会編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)
〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉
竹内重雄〔画家。当時13歳。大井町1105で被災〕
その翌日〔3日〕は余震も少なくなり、みんな線路より家に戻ったが、夕方になって川崎方面より朝鮮人が2千人攻めて来て、井戸には毒薬を投入しているという。その情報に住民は恐怖におののき、戸を閉め、男はみんな鉢巻をし、家伝の太刀や薙刀、トビ口、ピストル等を持って警戒した。私は13歳でも男、サイダー壜を投げるつもりで用意して待った。しかしその日は夜になっても何も起こらなかった。翌日、血みどろになって、民衆に縄でしばられた鮮人が捕って交番(旧国道北浜川)に引き立てられて行く。何も知らない、言葉の疎通の善良な鮮人であろうが、殺気立った民衆の犠牲であった。
(品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉
山岡芳子〔当時6歳。北品川6丁目で被災〕
〔3日、半鐘が鳴る〕表の通りから夥しい人の駆ける音がしてきた。私達は、直ちに表に出た。果して大勢の人の群が、我家の塀すれすれに走って行く。大方、火事の現場から避難してきた人達であろうか。しかし、余りにも人数が多すぎる。半鐘は更に烈しく鳴り続けている。〔略〕「奥さまッ」勝手口から、慌しくねえやが駆け込んできた。顔が真っ青で息を切らしている。「大変ですッ、朝鮮人が大勢してここに攻めてくるそうですッ」「何んだってッ」〔略〕泣声をたてながら至急逃げる支度に取りかかった。武装した朝鮮人の大軍が、たった今、品川沖から上陸し、大挙してまっしぐらに、こちら目指して、攻撃しにやってくるとの事。〔略〕「裸足のままでッ」母の叱咤する声が背後を突いた。一同は家の戸締りもせずに表の通りに出ると、怒涛のような人の渦の中に素早く割り込んだ。群衆は皆、心身を凍結させたまま石のように無言で走り続けている。それはさながら死の行進そのものであった。「さっさっさっ」足音だけが、無気味な沈黙の中で、地鳴りのようにひびかせている。
〔略〕北白川宮邸(現在の高輪プリンスホテル)の正面の鉄の大きな扉が、この日大きく開かれていた。その両脇のところに、ここも又、武装を凝らした兵隊達が、剣付鉄砲の鉾先を向けたまま、門内に入る群集の一人一人に、厳しい目を当てながら検閲している。〔略〕「只今、門の扉をしめ終りました。後の事は自分達にまかせて、一応安心して居て下さい」兵隊の中の主だった一人が、メガホンを口に当てて、大声で知らせた。〔略〕「震災で折角命拾いをしたのに、朝鮮人に殺されるなんて何と因果を事であろう」 母は、更にくどくどと言い続けている。
〔酪〕長剣を腰に下げた将校の一人が一段と高い所に立ち、「皆さん」 メガホンを口に当てて、全員に呼びかけた。「今日のところは、安心して家に帰って下さい。ただし、今晩からは家の戸締りを一層厳しくし、夜が明けても鍵を外してはいけません。なお、女や子供の外出は一切固く禁じます」〔略〕(朝鮮人は、至る所にひそみ、女や子供にまでも、危害を加えようとしています)あの時の将校の言葉が、幼い私にも忘れられず、母の袂をしっかりと握りながら、只、ひたすらに群衆と共に、家路に急いでいた。
我家に着いた時、父は私達の事を気遣いながら、待っていた。直ちに雨戸、板戸、格子等に鍵をかけ、更に釘づけにする。重要書類や日用品等を荷造りし、又、家族が何時でも逃げ出せるよう、各自が物々しい服装に身を固め、足袋をはいて寝る事にした。〔略〕父は、武家時代の家宝として秘蔵していた日本刀を、枕の下に置いて寝ていた。
(「流言蜚語に惑わされて」『東京に生きる 第12回』東京いきいきらいふ推進センター、1996年)
〈1100の証言;渋谷区〉
江馬修〔作家〕
〔3日、自宅のある初台で〕提灯をぶらさげて、ものものしい様子で絶えずそこらを警邏している在郷軍人によって、さっきの警鐘の意味も程なく伝えられてきた。
「富ヶ谷の方で朝鮮人が12、3人暴れたんです。〔略〕何でも初めパン屋の店先へ行ってパンを盗もうとしたところを見つけられて、それから格闘が起こったんです。10人ほどはすぐみんなして、ふん縛ったんですが、2、3人は猛烈に抵抗して暴れるので、とうとうぶっ斬ってしまったのです。この奥の渡辺栄太郎という騎兵軍曹は、 - 私もよく知っている人ですが、- 馬上から1人の朝鮮人を肩から腰の所へかけて見事袈裟斬りにやっつけたといいますよ。随分腕のきく人ですね」
この話は直ちに一般の人々に伝えられ、そして深い衝撃を与えた。ここに説明しておく必要があるが、少なくとも自分と話し合った限りの人々は、前夜来の朝鮮人の暴動を少しも疑っていなかった。それどころか、前夜東京での朝鮮人の騒ぎが想像以上に凄惨なものだったことを知って、ゆうべよりも皆が緊張していたくらいだった。郊外とても暴動1件で脅かされた事は市内と少しも変わらなかったが、以上の理由でその殺気立った警戒ぶりは前夜よりも真剣であり、酷烈であった。
(江馬修『羊の怒る時』聚芳閣、1925年→影書房、1989年。実体験をもとにした小説)
鈴木茂三郎〔政治家。当時『東京日日新聞』記者。代々木幡ヶ谷在住〕
9月3日戒厳令が布かれた。その頃から、朝鮮人問題に関する流言がまことしやかに、計画的であるかのように伝えられるようになった。多摩川の川を隔てて川向うまで押寄せて来た朝鮮軍と、それを防戦する日本側の土手に散兵した軍隊の間に激戦が行なわれているとか、荒川の囲みが破れて朝鮮人がなだれこんだとかいうように。
私の同じ隣組の人が新宿から息も絶え絶えに駆け込んできて「朝鮮人が今、淀橋のガスタンクに火をつけた。爆発するからすぐ逃げよう」とわめくように言った。夜警台の私たちは2、3間走り出した。そこで私は足を止めた。「淀橋のガスタンクに火をつけたというのに、そこからここへ走って来るまでに爆発しなかったのだから、これも流言だ」というと、皆一斉に緊張した顔をほころばせて笑いながら夜警台に帰った。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)
竹久夢二〔画家。淡谷区宇田川で被災〕
3日の夜あたりから本当に自然の暴威と天災の怖ろしさをやっと感じ出したように思う。誰が宣伝したのか、宣伝の目的が何であったか私は知らないが、また実際そんな事実があったことも、私は見ないから知らなかったが、3日の夜の如きは、私もやはり空地へ出て、まだテント生活をしている人と同じ心持で、何か知らない敵を仮想していた。川崎の方から✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖、✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖。✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖、新宿のタンクへ向っているというのだ。2、3町先の駅の近くでは、群集のただならぬ騒ぎや叫び声が、はっきり聞える。軍隊の自動車が幾台か坂の上の方からまっしぐらに走って下りる地響きがする。その中にピストルの音がした。それにつれて悲鳴があがる。
「おい、灯を消せ」誰かが言った。テントの中でも、立っている人も提灯の灯を消した。息をこらして、本能的にみな地の上に伏した。後できくと大地に穴を掘って、妻子を埋めた人もあったそうだ。
私は何の武器も持っていないから、敵を殺す気もなかった。だから殺されもすまいときめて、垣根の所へ腰かけて、遠くの叫喚を聞いていた。それは、幾百人の群集が入り乱れて戦っているかと思われるのだった。
だが何事もなくその夜は過ぎた。
流言蜚語の第一報が人から人へ伝わった時間が、西は、浜松あたりから、東は川崎、目黒、駒込、千葉あたりまで、ほとんど同時間であったことも、その地方から来た人にきいて、いまでも不思議に思っている。
(「荒都記 - 赤い地図第二章」『女性改造』1923年10月号、改造社)
つづく
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