2019年9月7日土曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その37)「「戒厳令と言えば軍隊のカはなんと言っても大したものですな。軍隊の出動がなかったら、東京の秩序は到底保てなかったでしょう」 ..... 私は大人たちの間に一人前の顔を突き込んで、その会話に耳を傾けていた。大人たちの軍隊讃美に同感だった私は、いや、恐らくその大人たちも、この関東大震災の際の軍隊の威力なるものが、のちの軍閥台頭の因を成し、やがてそれが無謀な戦争へと導かれて行ったことに、その時は少しも気がつかなかったのである。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その36)「目黒方面から一連隊の方へ絶えず避難民が走り来り走り去る。○○の数或は2千といい、或は200というも、誰も目撃したという者は一人もなく、徒におびえ、従に逃げまどうて来るに過ぎなかった。」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;港区/麻布〉
高見順〔作家。麻布で被災〕
〔2日〕噂話というだけでは済まされない流言蜚語がやがて次々に乱れ飛んだ。その中で最も私の忘れ難いものは朝鮮人が暴動をおこしたというデマであった。
「ゆんべ、火事の最中に、どど-んどどーんという音が、遠くから響いてきたでしょう。あれは朝鮮人が火薬庫に火をつけて爆発させていたんだそうですよ」
そう言う者があるかと思うと、天を焦がさんばかりのあの恐ろしい火事は、倒壊した家から火が出たのがだんだんひろがったというだけでなく、朝鮮人が市内の各所に火をつけて回ったためだと言う者もある。なるほどと、聞き手の中にはすぐ相槌を打つ者が出てきて、「そうでしょう。でなかったら、あんな大火になる訳がない。変だとは思ったですよ」
そんなことを言っているうちはよかったが、
「大変だ、大変だ! 朝鮮人が攻めて来た!」
銃器弾薬を持った朝鮮人の大群が、いや大軍が、目黒方面に現われたという。東京の中心に向って大挙進撃中で、日本人を見かけると男女の別なく赤ん坊でも何でも片端から虐殺している!
すは大事だと、大の男も真蒼になった。襲撃者たちはどこをどう通って、都心へ出るのか、それが全く見当がつかないから、逃げようがない。津波でも来たというのなら高台の方へ逃げるという手もあるが、どこへひょっこり出てこられるか分らない。これはもう、押入の中にでも隠れて、じッと息を殺しているより仕方ない。そうして、人の一人もいないがら空きの家みたいに見せかけて、襲撃者をやりすごすより他はない。
それまでは昨日と同じくみんな戸外に出ていた近所の人々が、たちまち家の中に姿を消した。そうして、町全体もまたたちまちしーんとなった。それから何十分かの間、町そのものが息を殺しているかのようなその沈黙の不気味さをいまだに私は忘れない。その沈黙は、朝鮮人来襲などという有り得べからざるデマに対して、誰一人反駁の発言をするものがなかったという事実を物語っているのである。
部屋の片隅にちぢこまりながら私は私の知っている限りの朝鮮人の姿を思い浮かべて、あんな人の良さそうな人たちもこの暴動に加わっているのだろうかと訝しく考えるのたったが、もしもこの暴動をその人たちの鬱積した怒りの爆発だとするならば、いかにもそれはありそうなことだと思えてくるのだった。
〔略〕朝鮮人と見ると有無を言わせず寄ってたかって嬲り殺しにするという非道の残虐が東京全市にわたって行われたらしいが、私の家の近所ではそうした暴民の私設検問所といったものが三の橋の裾に、誰が言い出したともなく作られて、こいつ臭いぞと見られた通行人は片ッ端から腕をとられて、
「おい、ガギグゲゴと言ってみろ」
あるいは、十月十五日というのを早口に言ってみろと迫られる。濁音がすらすら言えないと、そら、朝鮮人だとみなされたらしい。らしいと言うのは、私はその場に立ち合わなかったからだが、一度はその私も仲間入りをすすめられた。
「ぶった切ってやる。おい角間君。来い」
と私を誘ったのは、裏の長屋の住人の、しかし普段はおとなしく家で製図板に向っている男だった。おッとり刀のその姿は、高田の馬場へ駆けつける安兵衛みたいで、毛脛もあらわの尻ばしょりは勇ましかったが、浴衣の腕をたくしあげたその腕が変に生白いのはいけなかった。彼はそうして誰彼の区別なく誘っていたのか、それとも特に私だけに、私を乾分にでもする腹か何かでそう呼びかけたのか。いずれにせよ、中学生の私は急に大人扱いされた感じでどぎまぎした。まるで私自身がぶった切ってやると言われたかのようにどぎまぎした。
〔略〕夜警が行なわれ出したのは何日頃からだったろうか。在郷軍人団、青年団、それに町内有志などが加わっての自警団(ー 鮮人狩りを、主としてやったのは、これである。)の夜警は1日のすぐ夜から行われたのだが、それを、1軒の家から必ず一人宛大人の男を出して公平にやることになったのだ。2人宛組んで竹棒を持って徹夜の巡回に当るのだが、男は私だけのわが家では私が出た。私はここでも、否ここではっきり一人前扱いされた訳である。男手のない大家の当番も私が引き受けた。
〔略〕「戒厳令と言えば軍隊のカはなんと言っても大したものですな。軍隊の出動がなかったら、東京の秩序は到底保てなかったでしょう」
「警察だけでは駄目だったでしょうな。わたしは軍縮論者、いや軍隊無用論者だったが、今度は軍隊を見直した」
私は大人たちの間に一人前の顔を突き込んで、その会話に耳を傾けていた。大人たちの軍隊讃美に同感だった私は、いや、恐らくその大人たちも、この関東大震災の際の軍隊の威力なるものが、のちの軍閥台頭の因を成し、やがてそれが無謀な戦争へと導かれて行ったことに、その時は少しも気がつかなかったのである。
(「わが胸の底のここには」『人間』1950年9月号、目黒書房)

内藤久寛
〔2日、自動車で〕白金三光町の通りを走らせたところ、路上諸所に鉄棒、棍棒を携えた者が群がっていて、口々に今〇〇〇が押寄せて来る、先へ行っては危険だから帰れ帰れと叫喚している。私は何の事だか分らぬので構わず進行したところ、向うから走って来る者が皆異口同音に逃げよ逃げよという。中に一人洋服を着た相当の人物が、私の自動車の前に来て、何でも逃げよ逃げよといって聞かぬ。少しく車を止めたところ、その人は運転手の脇に飛び乗って、今〇〇〇が五反田の方から抜刀で襲って来る、進んで行っては殺されるという。お前はその〇〇〇〇〇を見たのかと聞くと、見はしないが、先から段々伝わって来るのだと答える。ひそかに虚報であるとは思ったが、あまりしばしば言われるので、やむを得ず引返すことにした。
帰途魚籃坂下の広い通を過ぎようとすると、石油箱の類を積み重ねたり、あるいは柵を結んだりして通行を止め、そこに鉄棒、日本刀を携えた人が群がっていて、自動車どこへ行く、通されないとて今にも打ち掛かるような勢いである。はなはだ迷惑を感じたが、幸いその場に巡査が2人ほどいて、私の容貌を熟視したかと思うと、直ちに自動車の脇に乗って、差支えないから通せ通せといったので、ようやくその障壁を切抜けることができた。それより通路の両側には多数の人々が群がって、いずれも思い思いの得物を携え、どこまで来たかとか、すぐに来るかとかいうようなことを大声で叫んでいる。六本木に来ると十数名の兵士が剣付鉄砲を手にして、怪しと見れば直ちに〇〇〇〇〇〇〇〇〇勢いで構えている。その脇には日本刀を携えた者もおり、巡査も十数名いて、光景はなはだものすごい。〔麻布に〕帰宅してみればこの辺一帯〇〇〇〇の噂に脅かされ、幼老婦女子のごときは三連隊内に避難せしむるなど、いずれも非常の恐怖に閉ざされていた。
(「大震火災の記」『石油時報』1923年10月号、帝国石油)

萩原つう〔当時15歳。恵比寿で被災〕
火事よりも、朝鮮人騒ぎのほうがひどかったね。その晩に「朝鮮人がくる」っていうんで、急いでおふろの中に隠れたんだ。でもそれじゃダメだというので麻布の第三連隊まで避難したよ。
翌朝帰宅してから、兄が鎌倉の親類に荷物を送ることになった。ちゃんと区役所の証明書をもらって、こっちの住所と行き先を書いた旗を立ててね。そしたら多摩川のところで、「朝鮮人が待ち構えているから帰れ」というんで追い返されてきた。
それから数日後かねェ、麻布の山下の交番前で、朝鮮人をトラックに詰めて、先をノミのように削った竹で外からブスブスと突き刺しているのを見たよ。どうなったか知らないけど、あれじゃ死んじまうよ。ほんとうに戦争みたいだった。
(『週刊読売』1915年9月6日号、読売新聞社)

藤村謙〔当時陸軍技術本部重砲班。麻布富士見町で被災〕
〔2日か〕あまつさえ流言蜚語は飛び、朝鮮人は井戸に毒薬を撒布したとか或は多摩川方面から隊を組んで襲来するとか人心兢々たるものがあった。これが為め町では各々自衛隊を作り日本刀や猟銃を携行して集った。要所要所には番兵を立てて怪しいものはこれを殺害した。誠に物騒な世の中となった。
(『変転せる我が人生 - 明治・大正・昭和・戦記と随想』日本文化連合会、1973年)

瑠璃川亘〔当時麻布区本村尋常小学校5年生〕
〔麻布で〕僕の恐ろしかった事は〇人騒ぎであった。丁度、2日の夕方、青年団の人達が「今不逞〇人が200人ばかり渋谷まで来ましたから、女や子供は早く光林寺へ逃げて下さい」と、知らせてくれたので、皆びっくりしてしまった。父は「それは何かの宣伝だろうから家にいた方がよい」といったが、あまり近所がそうぞうしいので、母は僕と弟を連れてお寺へ逃げた。その時はもうお寺には大ぜい人が来ていた。なんでも山の奥が安全だと言うので、近所の人と一しょにあぶない道を夢中で登り、大きな木があったのでそこへ行き、ほっと一いきしたら、ぐらぐらっとかなり大きな地震が始まった。おばさん達は「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」と言いだした。小さい子は泣くし、やぶかはえんりょ無く手足をぶんぶんさすし、こわいやら、いたいやらであった。しばらくすると、自警団の人が、「もう下りても大丈夫だから」と言うので、下りた。そして、今度はお寺の庭にござをしき、ふとんの上へ横になっていた。もうすっかり暮れたので、あっちでも、こっちでも、提灯をもっている。その時「報告」と軍人団員の声がする。「不逞〇人は大分少なくなりましたから安心して下さい。もし近くへくる事がわかりましたら、知らせますからさわがないで下さい」と言った。皆少しは安心したものの、もし来たらどうしようかと、やっぱり心配でたまらない。一時間位したらもう「あかりを消して静かに」と言われたので、皆いよいよ来たのかしらんと、火を消した。あたりはしんとしてしまった。その時の心持ちと言ったら、今考えてもぞっとする。12時頃父が「もう来ないだろうから、それに夜露も落ちて、毒だから家でねる方がよい」と言われたので、一時引上げる事にした。近所の人も大分帰ったが、まだまだ残っている人も多かった。
(「□人騒ぎ」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・尋常五年の巻』培風館、1924年)

つづく





1 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

なかなかリアルな証言集ですね。関東大震災の後は朝鮮人を疑ったヒステリーが蔓延していたようですもんね。こういった証言情報はどうやって集められたんですか?