関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ1) これまでの経緯まとめ 目次
より続く
関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ2)
明治三十四年
その二 藤の花ぶざ
食欲と表現欲
明治三十四年夏から秋にかけて、子規の病状はもう一段進行する。
「小生一日一度位少量麻痺剤を呑む。それが唯一の楽に候」
子規が秋田で医師をしている門人、石井露月の結婚・新築祝いに出した手紙にこう書き添えたのは明治三十四年七月二十七日であった。麻痺剤は麻薬であろう。
八月二十五日、子規は「俳談会」開催を思い立った。・・・・・
前日に虚子に知らせたばかりなのに、翌八月二十六日、月曜日の午後に約二十名が子規庵に集った。夕方までつづいたこの会合での俳談はふるわなかったが、ひさかたぶりの混雑を子規はたのしんだ。
しかし、さすがに疲れた。体力の著しい消耗ぶりに、いくらたのしくとももはや大
人数の会合はもう無理だ、そう子規は身をもって知った。・・・・・
蕪村忌に十日あまり先立った十二月中旬、子規庵で娘義太夫の会が催された。虚子が子規のために手配して、年寄りの女師匠が弟子を三人ばかり連れてきた。碧悟桐、左千夫、鼠骨など俳句と短歌の門人たち、聞きにきた近所の人たちを加えて、三十人以上の盛況となった。しかし、これが事実上子規庵最後の大にぎわいであった。
明治三十四年九月二日から子規は『仰臥漫録』と題した日記をつけはじめている。公開を予定しない日記に目立つのは、痛みと苦しみの記録である。だが、その深刻さのわりには分量が少ない。病苦の描写はあっても、痛み苦しむ「私の内面」は出てこない。・・・・・
(略)
『仰臥漫録』中で、もっとも力を注いだ記録は食べものであり、その日の献立であった。
病状は日々深刻さを増すというのに子規の食欲は衰えない。むしろ昂進するようである。この時期、正岡家の月収五十円のうち、食費に投じられる分、エンゲル係数は六五前後と考えられた。終戦直後の食糧難時代並みの数字だが、そのほとんどは子規だけが食して、母と妹の口には入らぬ贅沢なおかずのせいである。
子規の大食ぶりは異常なほどであった。
明治三十四年九月二日の朝食に子規は、はぜの佃煮と梅干で粥四椀を食べた。
昼食には鰹の刺身と南瓜(かぼちや)と佃煮で、やはり粥四椀。昼食時に葡萄酒一杯を飲むのは例のごとくだが、それも刺身も、子規だけにあてがわれたのである。昼食後に梨を二つ。
午後二時すぎのおやつには、牛乳一合をココアをまぜて飲みつつ、煎餅、菓子パンなど十個ばかりを口にした。
「此頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」
と子規は書くが、無理もなかろう。
その日の夕食は、なまり節と茄子一皿で奈良茶飯を四椀食べた。夕食後に梨を一つ。
食後いつも痛む左の下腹部が、ことのほか摘んだのも大食ゆえか。結核菌は肺と骨ばかりではない、消化器も侵しているから、もはや栄養分を吸収できないのである。歯茎がはげしく痛む。指で押せば膿が出る。これにも結核菌が関係しているはずだ。下腹部の傷みは一度はおさまった。しかし午後八時頃ぶり返したので、鎮痛剤を服用する。
母と妹は、子規の枕元でずっと裁縫仕事をしている。鎮痛剤の効いた子規は、ふたりと松山の昔話などに興ずる。話題はやはり食べ物屋のこと、とくに鰌施餓鬼(どじようせがき)の夜、路傍に出た鰌汁の話などである。
夜十時半に蚊帳をつって寝につこうとしたが今度は呼吸がにわかに苦しい。
「心臓鼓動強く眠られず、煩悶を極む」
眠ったのは明方であった。
九月四日は目覚めて「日本」と、わざわざ送らせている松山の「海南新聞」を含む五紙を読み、朝食には、佃煮と梅干をあてに雑炊三椀。ほかにココア入り牛乳を一合と菓子パン二個。
昼は、鰹の刺身、みそ汁、佃煮で粥三椀。それに葡萄酒一杯と梨二つである。
間食には、律に買いに行かせた芋坂団子を四串食べ、麦湯一杯を飲んだ。ほかに塩煎餅三枚と茶を一杯。
夕食は、なまり節とキャベツのひたしで粥を三椀。それに梨一つ。
これが平均的な一日の食事の量と内容だ。もっと食欲が昂進するときもある。
九月六日の間食には上等の西瓜を買わせ、十五切れ食べた。九月八日の午前十一時頃「苦み泣く」とあるのに、夕食には「焼鰯十八尾」と鰯の酢のもの、キャベツで粥二椀。食後に梨一つ。「焼鰯十八尾」には本人も驚いたらしく、わざわざ圏点を打ってある。
(略)
つづく
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