治承4(1180)
この年
・夏、西日本は旱魃により大凶作。平家の兵糧米徴発も加わり、餓死者、相つぐ。翌年の養和の大飢饉に繋がる。
〈政治情勢概観〉
前年治承3年11月、福原に引退していた前太政大臣平清盛は、突如兵数千を率い入京、後白河上皇を鳥羽殿に押し込めて院政を停止、高倉天皇を傀儡として政治の実権を掌握。関白藤原基房以下の官職を剥奪し、全国66ヶ国中32ヶ国が平家と与党の知行国となる(クーデタ前は17ヶ国)。
この年治承4年初め、清盛外孫の安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行される。
4月、宮廷内の源氏の代表者たる源頼政は、クーデタで所領を失い皇位への望みを断たれた後白河上皇の第3皇子高倉の宮以仁王を奉じ、反平家挙兵を敢行。王は、皇家に反逆する平家を討てと呼びかける令旨を作成し、全国の源氏へ送る。令旨を運ぶ源行家は伊豆国田方郡北条で源頼朝に面会、頼朝は装束を整え、源氏の氏神石清水八幡宮を遥拝し、舅北条時政とを呼び寄せて令旨(叛乱を正統化する根拠文書)を見る。鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」はここから始まる。以仁王と頼政の挙兵は失敗し、2人は平家に討ち取られる。
平家は、令旨を受けた全国の源氏の討伐を計画。
しかし、8月、頼朝が先手をうって伊豆国の平家一門山木兼隆を討ち取る。しかし、三浦氏ら南関東の軍兵が参集しないうちに、相模国の平家方大庭景親以下に襲われ、石橋山に戦い惨敗、房総半島に逃げ延びる。
ところが、ここから頼朝の武運は大きく開け、千葉常胤・上総広常らが続々と馳せ参じ、この大軍を率い、頼朝は隅田川を越えて武蔵国に入る。ここでは、畠山・河越・江戸などの諸氏も帰順し、10月6日、遂に父祖ゆかりの地鎌倉に入る。
一方、平家は平維盛を大将とする討伐軍を東下させるが、頼朝は富士山麓を南進する甲斐源氏との連携に成功、富士川で平家軍と対峠。両軍には明らかな兵力差があり、平家方の戦意は低下。10月20日、甲斐源氏が攻撃を仕掛けると平家軍は大混乱に陥り、戦わず敗北、平維盛以下は京都に逃げ帰る。
頼朝は勢いに乗じ、軍勢を上洛させようとすが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは、関東には佐竹氏をはじめ味方しない者がいる、先ず東夷を平らげ、その後に関西に至るべきだと諌める。これは、関東の武士たちは、平家追討のために頼朝に臣従したのではなく、関東での新秩序樹立(佐竹氏排除)を望んでいたということを示す。
頼朝は彼らの諌言を容れ、甲斐源氏の安田義定・武田信義に遠江・駿河を任せ、黄瀬川で再会した弟義経を伴い、鎌倉に軍を返す。・・・
1月
・明恵上人(8)、母と死別。
9月、父平重国(戦死)とも死別。母の姉(宗重の長女)の嫁ぎ先田殿庄・崎山兵衛良貞の許にに引き取られ、1年間養育された後、9歳で高尾の神護寺に入る。
○明恵(1173承安3~1232貞永1):
紀伊国の人。父は平重国,母は湯浅氏。父母を失った後、叔父の高雄神護寺の上覚房行慈の弟子となり密教や華厳教学を学ぶ。のち紀伊国白上峯に庵室を構え修行、約3年後、高雄奥の栂尾に閑居。その後再び紀伊に移住、約9年間、母方の湯浅一族の各地の館で過す。2度、天竺(インド)に渡ろうとし、春日大明神の神託により中止。
1206年(元久3)後鳥羽院は華厳宗興隆のため明恵に栂尾の別所を与え、翌年東大寺の華厳教学の中心道場である尊勝院の学頭として華厳宗を興隆すべと命じる。栂尾に高山寺が建てられる。
1212年(建暦2)に没した源空「選択本願念仏集」を読み、「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」を著して源空の専修念仏を批判。在家の人々は「南無三宝後生たすけさせ給へ」と唱え、三宝に供養すればよいと実践の簡易化を図る。
1221年(承文3)承久の変に際し、賀茂の別所に移るが翌々年栂尾に戻る。その時、後鳥羽院側の関東調伏の依頼に応じたともいう。また、院側の敗残兵が栂尾に逃げ込んだのを匿った事により六波羅に連行されるが、この時初めて明恵に会った北条泰時が明恵に帰依するようになったともいう。刑死した中御門宗行の未亡人が高雄の入口平岡に善妙寺を開き、同様の女性が集まる。1233年没(60)。
後鳥羽院と関わり、後深草院・修明門院,九条兼実・道家・藤原長房・西園寺公経・富小路盛兼・北条泰時ほかの帰依を受ける。著書「華厳修禅観照入解脱義」「華厳仏光三昧観秘宝蔵」「仏光観略次第」「三時三宝礼釈」「光明真言土沙勧信記」など、門弟編の伝記「高山寺明恵上人行状」「明恵上人伝記」。
1月5日
・藤原定家(19)、従五位上に叙任。
○藤原定家(1162~1241):
藤原俊成の2男。母は藤原親忠女の美福門院加賀。
後鳥羽上皇は退位1年後の正治元年(1199)頃から、和歌の世界に傾倒し、「新古今和歌集」編纂に発展していく。定家は正治2年頃の和歌詠進メンバから外れているが、父俊成と諸方に働きかけ詠進メンバに加えられ、元久2年(1205)「新古今和歌集」編纂の中心的役割を果たす。
京都文化への憧憬から和歌に心を寄せる将軍実朝(18)は、承元3年(1209)7月、住吉社に歌30首を奉じ、定家の許にも送る。翌8月、使者内藤知親(定家門弟)は鎌倉に帰り、合点を加えた和歌を実朝に返進。その時、定家は実朝の質問に対して書かれた歌論書「近代秀歌」を送る。
この年、定家(50)は従三位にのぼり、侍従となる。この頃後鳥羽との間に芸術上の意見対立や感情疎隔が生じ、歌の作れない時期で、健康にも恵まれない日々が多くスランプに陥っていた時期。その後も実朝との往信は続き、建暦元年9月には、頼時が関東に下向のついでに手紙や歌論を託し、建暦3年(1213)には相伝の私本「万葉集」を実朝に献呈。承久の乱直前に後鳥羽から勅勘を被り、乱に連坐することなく、乱後は歌壇の大御所として活躍した。
大福2年(1234)10月出家。19歳から書き続けられる日記「明月記」は75歳で終わる。晩年は歌を作るより、歌を整理し歌道として後世に残す事を心掛け、古典の書写を続ける。正治2年(1241)没。
1月10日
・高倉天皇、前関白基房ゆかりの閑院の内裏を離れ、藤原邦綱が急遽造営した五条東洞院の御所に東宮・中宮を伴い行幸。言仁親王(ことひと、のちの安徳)即位に向けての準備。
0 件のコメント:
コメントを投稿