2023年11月20日月曜日

〈100年前の世界130〉大正12(1923)年9月4日 姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連② 『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より 熊谷・神保原・本庄・寄居での大規模な朝鮮人虐殺 被告の中の在郷軍人 歩兵第66連隊のシベリヤ戦争 沿海州武力衝突事件と「不逞鮮人」           

 

被災地には数多くのビラやポスターが出回った。
流言蜚語を戒めるものもあり、それほどデマが広く流されていたことを示している。
(警視庁『大正大震火災誌』口絵)

〈100年前の世界129〉大正12(1923)年9月4日 姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連① 『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より 町村の指導層でもあった在郷軍人分会役員 帝国日本の模範的な臣民としての在郷軍人 より続く

大正12(1923)年9月4日 姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連②

『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より


県北部地域でも朝鮮人虐殺と在郷軍人

熊谷・神保原・本庄・寄居での大規模な朝鮮人虐殺

9月3日から警察と各町村の自警団は、多数の朝鮮人を県南部から中山道を北に、町から隣の町の自警団へ駅伝のように連行していった。この目的や目的地について、指示した警察もよくわかっていないようだ。その結果、多数の朝鮮人が、県北部の熊谷・神保原・本庄において自警団や群衆により虐殺された。寄居では一人の朝鮮人具學永が虐殺されている。

『埼玉県北足立郡大正震災誌』によると、9月3日夜東京方面から避難してきた朝鮮人180~190名が中山道を伝逓護送されて大宮町を通過とある。

翌4日朝鴻巣町では「流言盛ん」となり「復讐的迫害行為」も起りそうな状況だったが、鴻巣町消防組が、町内に休憩させ朝食、煙草を給与するなどの手当をしたという。

4日午前11時頃吹上駅では下り列車で下車した多数の避難民が朝鮮人を迫害しようとするが、警官らの努力により、午後2時、なんとか熊谷署に引き継いだ。

4日午後、吹上方面から護送されてきた朝鮮人の一部はトラックで熊谷方面に向い、残りは荒川土手を歩いて熊谷方面に向かうが、土手で休憩中に逃げ出したとして1人、久下村で7~8人、佐谷田村で1人が殺害される。証言によれば、この頃の朝鮮人は縛られ繋がれていたという。

4日夕方熊谷町に到着し、その夜から明け方にかけて町内で46~47人、全体で確認できた最低数でも57人、証言も含めれば68~79人の朝鮮人が自警団や群衆によって虐殺された。

同じく4日午後、朝鮮人15人を乗せたトラックが本庄警察署から群馬県側に向かうが、群馬の新町の自警団に受け取りを拒否され、引き返して、ひとまず賀美村役場に収容したが、夜になり再び別の数十人の朝鮮人を乗せたトラック3台が賀美村まで来ると、群衆がトラックを取り囲み、乗っていた朝鮮人に暴行を加え始めた。そのためトラックは引き返したが、神保原村で2台が止められ乗っていた朝鮮人42人が自警団や群衆に虐殺される。

この日(4日)には、本庄署内には町内や県南部から連れてこられた朝鮮人が演武場に収容され、また夜になって神保原で難を逃れたトラックの朝鮮人が署に戻ってきていた。そこへ群衆が襲いかかり、一晩欠けて虐殺が行われ、確認できた最低数で88人、証言を含めると101~102人の朝鮮人がここで虐殺された。

5日昼頃寄居では周囲の状況に不安を感じた飴売りの朝鮮人具學永が自ら寄居警察署に保護を求めて署内にいた。本庄署での朝鮮人虐殺を聞いた隣村の用土村の自警団は5日夜、寄居警察署に殺到し、留置場から具學永を引きずり出して虐殺した。

被告の中の在郷軍人

熊谷での事件の被告は35人でうち在郷軍人は16人(46%)。判決文では被告らは「漸次来集セル数千ノ群集ト共ニ」手に手に兇器を持って朝鮮人への暴行と殺害を行ったとしている。

神保原の被告は19人でうち在郷軍人は6人(32%)、寄居の被告は13人で在郷軍人は4人(31%)。


歩兵第66連隊のシベリヤ戦争と「不逞鮮人」

熊谷連隊区と歩兵第66連隊、第19師団の下の部隊

陸軍は日露戦争中の1905年に第13,14,15,16師団を増設し、これらは1908年に常設師団となる。第14師団(宇都宮)の歩兵第66連隊は1907年10月31日に新設されるが、1907年5月27日、これに関わって高崎管内の埼玉県の大里、児玉、秩父、比企、入間の5郡の管轄区域を割いて熊谷連隊区が新設されている。

熊谷連隊区創設以降、5郡から徴兵された8割弱は第14師団(宇都宮)の歩兵第66連隊に所属した。但し、1918年には朝鮮の第19師団の部隊に所属した兵士も確認できる。この1918年に第19師団に所属した兵士たちは入営後3ヶ月で三・一事件が起こっていることから、これの弾圧に動員された兵士の一部になったと推測できる。


沿海州武力衝突事件と「不逞鮮人」

1919年4月22日(大震災の4年前)、歩兵第66連隊は青森からウラジオストックに向い、上陸後は汽車で移動し、5月1日ハバロフスクに集結、更に西方のブラゴヴェシチェンスクに主力を置き、黒龍州の守備に就く。当時の新聞報道によると、この4人は「排日鮮人団の有力者」で移送中に挺越したため「已む無く之を射殺」したとある。

6月下旬より、ロシア「過激派」との戦闘が始まり、10月には戦死18人・負傷22人が出る戦闘を経験し、11月から翌1920年1月にかけて60余回の「討伐」を行っている。

3月、沿海州方面に転じ、3月18日、連隊全員がウラジオストック北方のニコリスク・ウスリースキー(現ウスリースク)に駐屯する。

1920年初頭はシベリア戦争の転換点となる時期で、極東の大部分を支配していたコルチャーク政権が崩壊し、1月にアメリカ軍が撤退を開始し、大義名分だったチェコスロバキア軍もシベリアから撤退を始め、日本軍出兵の当初の大義もなくなった。

1月から2月、ニコリスク、ウラジオストック、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクに次々と革命派が入城していた。そのニコリスクに歩兵第66連隊は入って行き、革命派と日本軍が雑居する状態となった。

こうしたなかで、4月4日夜~6日、日本軍はハバロフスク、ニコリスク、ウラジオストクなどで大規模な武力行動に出た(沿海州武力衝突事件)。歩兵第66連隊はニコリスクで激しい市街戦を展開し、戦死19人、負傷者40人を出した。日本軍の狙いは沿海州における朝鮮人居留民の独立運動を一掃することであった。ウラジオストクでは朝鮮人居留区の新韓村で韓民学校を焼き払い、ニコリスクでは「排日朝鮮人」76人を逮捕しうち4人を射殺した。

ロシアの革命派の沿海州への勢力拡大によって「、この地の朝鮮人の独立運動は勢いを強め、この両者が結びつくことを軍は強く警戒していた。歩兵第66連隊の兵士は、ニコリスクにおいてロシアの革命派の側について独立運動を行っていた「不逞鮮人」と戦っていた。


つづく


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