=2023年9月1日、埼玉県上里町、佐藤純撮影
姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)続き④
軽い判決
10月10日、一旦は検挙「猶予」を受けたと思われた片柳村染谷の事件の捜査が開始された。その理由はわからないものの、最初に検挙されtた2人が自分たちだけが罪を負うのは納得できないと言い出したことに原因があるように見える。加害者の青年が抱いた不公平意識が捜査を招く結果となったと思える。
結局、初めの2人の青年と後の3人、計5人が起訴され、11月8日に第一回公判、11月26日に埼玉県内の他の自警団とともに判決が下された。
尚、弁護士は吉三郎の浦和中学の同級生に依頼し、金額は不明ながら弁護士料として村の公金が支出されている。直接虐殺に関与したとされた染谷の自警団員5人に対する裁判には片柳村が村ぐるみで取り組んでいる。
判決は、殺人罪ではなく傷害致死罪が適用され、青年を除く3人には最低の量刑である懲役2年が言い渡され、青年2人は、情状酌量が適用され懲役1年6ヵ月に減じられた。また、被告全員に2年の執行猶予が付与された。埼玉県内の自警団事件で被告全員に執行猶予が付いたのは染谷の事件のみである。
姜大興が刀や槍によって全身に20ヶ所の傷を追っているにも関わらず、殺人罪ではなく傷害致死罪が適用され、全員に執行猶予が付くという他の自警団事件と比べても明らかに軽い判決であった。
その後の恩赦
吉三郎メモには、「十一月 皇太子殿下成婚記念ニ四分一刑期減免 十三年三月十五日□ 特別ニ執行猶予赦免サル」とある。しかし、見せかけは裕仁の結婚による恩赦のようにしているが、実際は政府側の秘密の恩赦決定という事情があった。
恩赦の閣議決定文書は、1924年1月6日のもの(山本権兵衛内閣の最後の閣議)と1月23日のもの(清浦奎吾内閣の閣議決定)の2種類がある。双方ともに「特赦」「特別特赦」及び刑の執行を終えて20年を経過した者に対する復権についての決定で、6日付けの決定は案文のような体裁をとり23日付けの決定は成案のような体裁である。
1月23日の閣議決定は、関東大震災の際、「朝鮮人犯行ノ風説」を信じ「自衛」の意図で「誤テ」朝鮮人を殺傷した者は、官憲への暴行や警察署の破壊行為がなければ、「特赦」又は「特別特赦」の措置を講ずるというもの。
そもそも恩赦は、司法権に基づく裁判に対して、行政権によって裁判内容を変更、消滅させるという政策で、明治憲法下では天皇の大権とされ、皇室又は国家の慶弔禍福に際して天皇の御仁慈(ごじんじ)を庶民に分け与えるものとされた。恩赦の詳細は恩赦令に定められている。1月26日閣議決定の皇太子成婚による恩赦は勅令第十号減刑令により一律に実施したもので、「特赦」「特別特赦」は含まれていない。
恩赦令の「特赦」は、刑の言い渡しを受けた特定の者に対して刑の執行を免除するも。「特別特赦」とは、「特別ノ事情」がある場合、法律上の効果が将来にわたって消滅することである。つまり、刑の言い渡しを受けた者の情状に配慮して、前科としての扱いを消滅させることである。
なお、1月6日付の閣議決定文書には二つの付箋が付けられていた。
一つ目は、「□日ノ閣議ノ趣旨ハ 皇太子殿下御成婚ニ際シ恩赦ヲ行フニ非ス 御慶事ノ際ニ行フヘキ恩赦本案ノ如ク特定ノ事項ニ限定スルハ□ヲ失スルモノト思考ス」、つまり、この閣議決定は皇太子結婚恩赦のように見せかけながら、実はそれとは別建てで極秘裏に行ったということを示している。
二つ目は、「本案ハ本日会議ノ席ニ於テ司法大臣ト相談シテ同意セラレタル如ク大杉栄殺害事件ノ関係者(甘糟事件)ニ対シテモ適用セラルゝモノト了解シテ証下ス 陸軍大臣」とある。"
これらの一連の動き(「特赦」「特別特赦」の閣議決定、皇太子結婚の恩赦にタイミングを合わせる)は、政府が「移諜」を発し「風説」を作り出した張本人は政府であることを自覚していること、更に被告たちが虐殺の責任を自警団にのみ転嫁することの不当を訴えているためであった。
この「特赦」「特別特赦」は、虐殺事件の約6ヶ月後の1924年3月15日に執行され、虐殺に対する有罪判決は免除されるか或いは刑の言い渡し自体が消滅した。
「特赦」を求めた論理
関東自警同盟
埼玉県内の自警団による朝鮮人虐殺事件の公判は10月22日の熊谷の事件から順次浦和地裁において開始され、11月26日に一斉に判決が下された。
この裁判に合わせるように、関東自警同盟(満鉄調査課綾川武治が発起人の一人になっている)なる組織が結成され、自警団の刑の減免を求める運動を展開している。
関東自警同盟の思想は、自警団の行為は「不逞鮮人」の襲撃から村を守ろうとした正当な行動であり、国家のための犠牲的精神の発露であるとする国家主義的志向をを帯びたものであった。同盟は、殺人罪について「異例の恩典」(特別な恩赦)で刑を免じるよう要求した。
11月6日、本庄事件の求刑にあたり、根本主席検事は「各被告中実刑ニ処セラレタトシテモ、刑期ノ全部ヲ服役シナクトモヨイ方法、例ヘバ大赦、特赦、仮出獄等ノ恩典ニ浴スルコトモ出来ル」と論告で述べたという。
そして、11月26日、浦和地裁は自警団員に被告に執行猶予を付けつつも有罪判決を下した。
その8日後の12月4日、司法大臣平沼騏一郎と関東自警同盟の代表佐藤慶次郎と綾川武治が平沼の自邸で会見している。綾川は、1920年に平沼を会長として設立された国家主義団体国本社の同人であった。綾川の人脈を使って関東自警同盟の代表者他が司法大臣に直接面会し恩赦を強く要求したと推測できる。、
永井柳太郎の国会質問
1923年12月15日、憲政会の永井柳太郎議員が帝国議会本会議で埼玉県の自警団事件について質問した。
永井は、犠牲となった朝鮮人に哀悼の意を表し、遺族を慰安すべく何らかの措置を政府は取るべきだと主張した。永井は、「厳重ナル取締」を求めた内務省警保局長から各鎮守府などに宛てた三種類の電文と埼玉県内務部長が発した「移牒」を読み上げ、自警団の行動は「国家」、「公共ノ安寧」のためのものであり、自警団だけに罪を問い、官憲の責任を不問に付す政府の姿勢を追及した。そして、官憲の責任を問わないなら、命令に従って公安維持の任務に就いた自警団の刑を減ずべきと論じた。
これに対した山本権兵衛首相は質問に正対した答弁をしていないが、その後の「特赦」「特別特赦」の実施決定を見ると、政府として具体的な検討に入っていたと推測できる。
つづく
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