大正12(1923)年9月4日
姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連③
『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より
歩兵第66連隊の見た間島虐殺
6月、第66連隊はニコリスクから北方のイマン(現ダリネレチェンスク)に転じ、10月中旬、沿海州を撤退し間島に向かった。間島は中国領であるが、朝鮮族が人口の多数を占め、朝鮮との交流も盛んで、そのため独立運動の拠点ともなっており、日本軍はかねてよりこの地域の「討伐」を狙っていた。
1920年10月2日、日本軍は中国人馬賊を利用して日本領事分館を襲撃させ、これを「不逞鮮人」が襲撃したと偽った(琿春フンチュン事件)。
10月14日、政府は、間島出兵宣言を出す。間島方面の「不逞鮮人」が日本人に対する残虐行為の主犯とされ、「支那馬賊及過激派露人」と連携してますます「凶暴」な行為を行っているので、日本軍は出兵し「討伐」するとした。
この作戦は朝鮮の第19師団に命じられたが、浦潮派遣軍と第14師団歩兵第28旅団(すでに大陸に派遣されている第14師団の歩兵第15連隊と歩兵第66連隊から構成されている)もともに行動するよう命じられた。
歩兵第66連隊は10月28日、ウラジオストクを出航しポシェト港に上陸し、国境を越えて満洲川に入り11月3日に琿春付近に到着、11日以降に局子街(延吉)・龍井村・大拉子で行動し、18日に国境を越えて咸鏡北道の会寧に着く。第33連隊は、この間、間島での作戦に従事した。
一方、歩兵第15連隊は、10月16日にポシェトに上陸後、すでに「討伐」を行なっていた部隊の後方警備のため琿春や周辺で任務についていたが、龍井村に派遣された中隊は「二九日及三〇日ニ亘リ龍井村南方水七溝及獐巌洞附近ニ於テ屢々我カ連絡線ヲ脅威スル賊徒ヲ剿討シ獐巌洞ニ於テハ其ノ二十餘名ヲ射殺シ家屋十二戸ヲ焼却セリ」という戦闘を行なっている。
龍井村カナダ長老派宣教団所属濟昌病院長エス・エチ・マーチンはこの時の状況を次のように記録している。
「以下一〇月三〇日ニ当村ニ於テ実際発生セル事項ヲ多数目撃者ノ見聞通リ記述セントス。
払暁、武装セル日本歩兵ノ一隊ハ耶蘇教村ヲ漏ナク包囲シ、谷ノ奥ノ方向ニアリシ蕎麦等ノ堆高ク積メルモノニ放火シ、村民一同ニ屋外ニ出ツルコトヲ命セリ。村民ノ出来ルヤ父ト云ハス目ニ触ルル毎ニ之ヲ射撃シ其ノ半死ノ儘ニテ打倒ルルヤ焔々タル乾草類ヲ覆ヒ冠セ、忽識別シ得サル程度ニ焼カルルナリ。此間モ妻モ又子女モ、村内成年男子全部ノ処刑ヲ強制的ニ目撃セシメラレタリ。家屋ハ全部焼払ハレ、界隈ハ煙ヲ以テ覆ハレ、当市 (龍井村 )ヨリ其ノ燎煙ヲ明カニ望見スルヲ得タリ。日本兵ハ斯クシテ該地ヲ引揚ケ」
「二十餘名ヲ射殺シ家屋十二戸ヲ焼却」という日本軍の報告は、実際には「不逞鮮人」と関係していると見たキリスト教の獐巌洞という村の男子を皆殺しにするとともに村ごと焼き払った間島虐殺と呼ばれる作戦だった。
「不逞鮮人」とそれに与すると見做した朝鮮人を皆殺しにする作戦を第28旅団歩兵第15連隊は実行し、ともに行動していた歩兵第66連隊は作戦が行われた地を10数日後には示威行軍している。第15連隊と行動を共にしていた第66連隊も間島虐殺の実行に関わった可能性は否定できないと思われる。
そして、第15連隊と第66連隊の兵士たち11月26日清津港から船で帰還の途に就き、12月4日に宇都宮に「凱旋」した。
歩兵第66連隊に所属し、シベリア戦争においてロシア「過激派」と激しく戦闘し、ニコリスクでは「過激派」と結びついた「不逞鮮人」を殺害し、間島では朝鮮人に対する皆殺し作戦を現認あるいは実行しながら行軍したという従軍経験を持つ兵士は1,856人いたが、 そのほとんどは大里・児玉・秩父・比企・入間の 5郡の埼玉県出身の兵士だった。『連隊史』によるとシベリア戦争での戦死・戦病死者 111人の内102人(92%)が埼玉県出身者である。
寄居の事件で在郷軍人が果たした役割
寄居では、用土村の自警団が隣村の桜沢村の寄居警察署に押し寄せ、一人の朝鮮人(飴売り具學永)を虐殺した事件が起きた。
事件で中心的な役割を果たして懲役3年の実刑判決を受けたN(当時40歳)の証言を『かくされた歴史』から見てみる。「宇都宮の連隊」を除隊したという証言から、おそらく歩兵第66連隊に所属していた在郷軍人でであろう。1919年~20年のシベリヤ戦争に従軍したかは不明。
「震災の頃、私は、宇都宮の連隊を除隊してここで農業をやっていました。(略)私は先頭でなかったんですが、先頭だったということになっちゃって、私が指揮官であったということにされてしまいました。(略)警察の庭は、人で一杯でした。そのうちに警察は逃げちゃって、警察で留置場の鍵をあけて、保護していた朝鮮人を出してきました。私は、警察では 「フレー、フレー 」といった方だったですね。(略)どうせ誰かが出て犠牲にならなければ済まないというんで、わしら三人がその犠牲を背負い込んだようなものです。」
一部刊行された裁判記録からNの言動を見てみると「被告Nハ此等百余ノ群集ニ対シ鮮人ハ吾人同胞ノ仇敵ナリ桜沢村ニ於ケル木賃宿真下屋ニモ鮮人滞在シ居レル筈ナレハ何時不逞ノ所行ニ出ツルヤ計リ知ルヘカラス豫(あらかじ)メ之ヲ襲撃殺害スルニ如カサル旨ヲ演説シ以テ群集ヲ煽動シタル」との事実が認定され、「日本刀ニテ同人ニ対シ二回斬付ケ尚右騒擾中ヤレヤレト叫ヒ群集ヲ煽動」と殺害時の行動でも煽動したことが認定されている。
懲役2年の求刑を受けた在郷軍人のH (当時27歳)は「シベリア出征の在郷軍人丈けに申立てが軍人式である」との新聞記事があるので歩兵第66連隊に所属してシベリア戦争に従軍していた可能性はきわめて高い。このHは一人で「鮮人を留置場から引き出した」とされている。
また、懲役2年執行猶予 2年の求刑を受けた在郷軍人のJ (当時32歳)は寄居警察分署の剣道師範で「日頃同演武場に出勤していた関係上署内の模様は知悉していたので数百の自警団と共に署内に殺到し且つ率先署内留置場内に侵入し携帯の日本刀を振りかざし突きつけて群集に対し殺害を煽動」したとされている。
Nは隣村の桜沢村に朝鮮人が滞在していることを知っていて、その朝鮮人が「不逞ノ所行」に出るかもしれないからその前に殺害すべきであると言っている。それは「鮮人ハ吾人同胞ノ仇敵」だからであるという論理であり、ここに見える朝鮮人=「吾人同胞」日本人の敵、という論理は「不逞鮮人」=「討伐」の対象、とする帝国日本の軍隊 の論理に通ずると読み取ることができる。
朝鮮人虐殺の中の在郷軍人(まとめ)
在郷軍人分会は役員が町村の指導層を占め、青年団を掌握し、自警団において指導的役割を担っていたと考えられる。1919年から始まる戦後民力涵養運動でも、在郷軍人は模範的な帝国日本のコアとなる臣民であることが求められていた。そのような在郷軍人に対して、関東大震災の発生時には、軍中央及び帝国在郷軍人会本部から支部をとおして各町村の分会に「不逞鮮人」に関する「情報」が伝えられていた。
関東大震災時に、警察と自警団によって県南部から中山道を町村ごとに駅伝逓送された朝鮮人が、県北部の熊谷、神保原、本庄で自警団によって虐殺され、寄居でも一人の朝鮮人が虐殺されたが、この事件で起訴された被告の中で熊谷では半数近く、神保原、本庄、寄居の事件では20~30%が在郷軍人であった。
これらの事件が発生した大里郡と児玉郡出身の兵士たちは、1907年に新設された熊谷連隊区に徴兵され、この年に創設された第14師団 (宇都宮 )歩兵第66連隊に所属していた可能性が高い。また、一部の兵士は朝鮮の第19師団のもとの連隊に所属し、1919年の三・一独立運動に対する弾圧に動員されていた可能性も高い。
シベリア戦争に従軍した歩兵第66連隊の兵士たちは、ロシアの「過激派」とこれと与する沿海州・間島の「不逞鮮人」がいかに悪辣で恐ろしい人間であるかを教育され、実際に「過激派」と闘い、「不逞鮮人」を殺害し、村ごと皆殺し作戦を現認し、これら戦闘の中で郷土の戦友を失うという経験をしていた。このような従軍経験を持った兵士たちが、朝鮮人虐殺事件が起こった熊谷・神保原・本庄・寄居の地域に帰還し、在郷軍人分会の一員になっていた。
『かくされていた歴史』にある「朝鮮駐屯軍帰りの在郷軍人が幅をきかしている」とは、以上のような地域における在郷軍人の言説状況を指していたのではないだろうか。
自警団に組織された在郷軍人は加害者ではあるが、彼らは帝国日本の兵士として独立運動を闘う「不逞鮮人」を敵視する教育をうけ、「不逞鮮人」を虐殺する従軍経験を積んだ加害者であった。彼ら在郷軍人は帝国日本の植民地支配の中で朝鮮人虐殺の主体になるべく「訓練」されていた。虐殺の論理には帝国日本の植民地支配が色濃く塗りこめられていた。
震災が発生し、「不逞鮮人暴動に関する件」という県の「移牒」が届いて自警団が組織されれば、在郷軍人が「不逞鮮人」「討伐」のために地域で中心的・積極的な役割を果たすだろうことは間違いない。
姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より 終り
つづく
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