2023年11月9日木曜日

〈100年前の世界119〉大正12(1923)年9月4日 〈1100の証言;墨田区、台東区、中央区、豊島区、文京区〉 「(被服廠跡) そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けポックイで押さえて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けホックイで押さえつけ、口ぐちに「こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ」と、目が血走っているのです。」    

 


〈100年前の世界118〉大正12(1923)年9月4日 〈1100の証言;江東区、品川区、新宿区、墨田区〉 「地点は安田邸の下流100メートルほどの隅田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当ると、パッと血潮が吹き上がる。またたくうちに河水が朱に染まって、血の河となった。(略)その南門のところに、〔略〕5、6人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。(略)鮮人の虐殺を見て帰途、錦糸堀に来ると、路上に浅黄の中国服を着た若者の死体が転っていた。大島3丁目の中国人寮にいる人だ。」 より続く

大正12(1923)年

9月4日

〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉

近藤三次郎〔当時カスケート麦酒醸造元日英醸造会社勤務〕

鮮人に対する一般の反感は非常なもので、青年団等は急造の竹槍等を以て多数の鮮人を刺殺したり。ことに向島の白鬚橋等には多数の鮮人が倒れているのを見ました。死体や負傷者等は手のつけようもないと見えて私が発った4日の正午頃まではそのままとなっておりました。

(「鮮人に対する反感加わる」『北海タイムス』1923年9月7日)


〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉

浦辺政雄〔当時16歳〕

4日には何万人も死んだという被服廠跡にも行ってみた。中に入ると、死体の山に足がすくんだ。それまで多くの死体を見てきたが、被服廠跡のすごさには比べようがなかった。

そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けポックイで押さえて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けホックイで押さえつけ、口ぐちに「こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ」と、目が血走っているのです。「お父さん、とてもじゃないけど見ていられない」って言って裏口から出ました。

帰り道、三ツ目通りの角で、一人石責めにあっていました。体半分が石に埋まって死んでいるのを、「こいつ、こいつ」って。

父も、家も焼けた、家財も焼けた、せがれの総領も見つからないということもあったんでしょう。「こいつ」って一つ投げたから、「お父さん止めてくれ」って。2発目を投げようとするから、「死んだもんに投げたってしかたないじゃないか」って、止めさせましたがね。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉

『いはらき新聞』(1923年9月6日)

「50年の文化の夢 横たわる東京の骸」

〔4日、浅草〕仲見世の煉瓦店は1、2軒崩れ残っているだけ、出口の所に不逞鮮人の死骸がある。

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉

『いはらき新聞』(1923年9月6日)

「街上でも車中でも 鮮人殺せの叫」

〔4日、三ノ輪で〕午前の10時頃であったろう、盛んに飛行機が飛ぶ下に群馬県だ栃木県だと胸章をつけた巡査に引率せられた消防隊、青年団が蟻の這うようにやってくる間に立って「ソレ朝鮮人だ、朝鮮人だ」とわめくものがあったと思う間もなく、パラパラと駆け寄る人の群に囲まれ、にくむべき鮮人1名が捕えられたるとともに、街道にあった何の箱だか大きな箱をかぶせて、その隙間から槍で突き殺すのを目撃した。全く白昼のこととしては嘘のような事実である。

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉

伊藤重義〔当時府立第三中学校生徒〕

確か9月4日頃と記憶しているが、私は父と一緒に我が家の焼跡を見に行った。水筒と握り飯を持って徒歩で出かけた。本郷3丁目まで来て始めて焼跡を見た。上野広小路の松坂屋は全く何も残っていなかった。

御徒町を右へ曲って少し歩いた頃、道端に人だかりがしていたので覗いたら、朝鮮服を着た数人の死体が折重なっていた。人々の話では不逞鮮人らしく、虐殺されたとの事だった。私はとてもまともに見られなかった。恐ろしい事だと思った。

(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)


〈1100の証言;中央区〉

伊東住江〔当時京橋高等小学普通科1年生〕

〔1日夜、佃島で〕交番の際で男の人達が「今築地本願寺が焼ているそうだ」と言いこちらの人は「今月島へ鮮人がぱくだんをほおって月島が火事だ」と言う人もある。〔略〕

ちょうど4日のお昼ごろ、にわかに外がさわがしくなってきて、方々で鮮人が来たの言叫で声がきこえてきた。たいがいの家では戸をしめてしまって開いている家は少しかありません。私はこわいもの見たさで戸の隙間からそっと外を見ると、血なまぐさいにおいがぶんとはなをつきます。私の家にあった祖父の写真が佃寅さんにあずけてあったので、それを取りに行くのに兄さんは、気もちが悪いとで私と定やが取りに行きました。小橋の向うに湯屋があって、その中に鮮人がたくさん取こになっています。その前には血がいっぱいです。きっと鮮人を殺した時の血でしょう。ようやく写真を取って家に帰ると、急に頭がいたくなったので少しねていました。夜になると兵隊が二人ずつ、剣付鉄砲をもって裏々をまわって歩きます。突然外がさわがしくなりました。どこかでつかまったのでしょう。さわがしい声が次第に闇の中にきえて行きます。

(「大震災遭難記」東京市立京橋商等小学校『大旗災遭難記』東京都復興記念館所蔵)


〈「片目が開いたー関東大震災」北林谷榮〔俳優。当時12歳。銀座在住〕〉

〔火事に追われて浜離宮に行った。門は閉鎖されていた。一人の巡査がよじのぼって開けたので、中に入り助かった。でも何日か後に、その巡査は処罰されたという噂を聞き、子どもながらに、ひどいと思った〕ちょうど関東大震災のときが私のおさない目が開くときで、あのときは大日本在郷軍人会というものがあって、在郷軍人が自警団を組織して、竹槍を持ってテントを張って、「どこへ行くんだ!」といって、誰何してちょっと発音がおかしいと、「貴様、朝鮮人だろう」と猛り狂っていたんです。いつもうちに御用聞きにくる炭屋なんかがそのときだけは鉢巻して在郷軍人の服を着て居丈高になっていました。町内にテントを張って、このときとばかりに肩で風切っていたんです。

それを見ていると、その野蛮さがにくたらしくて、むかついて。浜離宮の巡査の件も、自警団の件も。

それから何日かたってから、これも朝鮮人だかどうかわからないんですが、竹槍で刺されて仰向けに死んでいる、裸の上に印半纏をひっかけた死骸を見たんです。とにかく裸で黒い印半纏の人が竹槍で突き刺されて仰向けに死んでいて、太陽がさんさんとあたって、九月一日から四、五日後ですから、蝿がたかって、その死体が水脹れみたいに脹らんでたの。殺されるところを見たんじゃないけど、殺されたのが放置されているのを見ました。そこを通る人はみんな「あれは朝鮮人だ」と言っているのを見ました。

子供だから、人種差別なんていう言葉も知らないし、何にもわからないけど、とにかく、これはショックというより怒りでした。ぜったいに許せぬという感じですね。それが言葉でじゃなく、許せぬというのが体いっぱいの中身になって、体をふるえさせました。そのときは一二歳になっていて、やっと初めて子供じゃない目が、片目だけ開いたような感じでした。大正一二年の大震災です。そのときから私は、子供のレコちゃん〔本名・蓮以子(れいこ)〕じゃなくて、いっぺんに大人のほうに踏みこんだみたいです。

(北林谷榮『九十三齢春秋』岩波書店、2004年)


〈1100の証言;豊島区〉

『国民新聞』(1923年10月21日)

9月4日午前1時頃府下巣鴨宮下1522居住鮮人学生閔麟植(25)の屋外の騒々しさに格子戸から首を出した所を待ち構えていた府下巣鴨町1570小松原鋼二(21)のために二連発銃で銃殺された。犯人は直に取押えられ収監さる。


〈1100の証言;文京区/小石川〉

『下野新聞』(1923年9月4日)

「不逞鮮人等は麦酒瓶に石油を詰め家屋に撒布して放火する 目的は大官と財産家」

伝通院より音羽辻町街道約一里に渡る電車道路には避難民芋虫の如く横わり、その両側は警備隊を以て非常線を張りいちいち通行人を誰何するのも見えた。又馬車道路を中心とし左右の町々の路地横町等には、在郷軍人で組織された警備隊員が□□杖を持ち不審の挙動ある男は一々誰何し、もし明答が出来んと立所に十数名の同隊員が集り来りて袋打にするというすさまじい光景を現わしている。

記者が美濃部博士邸の付近を歩行中、暗にするどき呼子の笛を聴きたりと思うと忽ち30名ばかりの警備隊が馳せ来たり、不逞鮮人1名がこの区間に於て姿を没したり、多分この家の内に忍び込んだのであろうと口々に叫びながら猿の如く十数名の壮漢が柵を乗り越え不逞鮮人何処にありと猛烈な勢いで飛び込んだが、結局逮捕し得なかったので隊員等は忽ち伝令を発して注意せよ鮮人が行ったと付近一帯に蜘蛛の巣の如く非常線を張った。

更に大塚仲町付近に於て5名の鮮人を引っ捕え、巡査4名これに警備隊員十数名が加わり厳重なる服装検査を行い所持品を取り調べその使用目的を尋ねておったが、気早の青年等は「やっつけろ」と口々に絶叫しておった。


〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉

司法省「支那人を殺傷したる事犯」

9月4日午後1時、本郷区駒込肴町二街路で、鈴木熊蔵・森一・本多友治・谷澤忠・藤田清二郎・原海次・島田礎・佐藤平次郎・矢崎萩太郎が、中国人韓湖(翔)初〔外交文薄などによれば正式氏名は韓湖初〕外3名に棍棒・銃剣・竹槍・金剛杖・金槌等で重傷を負わせた。(一部補足)

(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


つづく

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