大正12(1923)年
9月4日 姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連①
『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より
自警団の中心にいた在郷軍人の軍隊・従軍経験と朝鮮人虐殺事件において果たした役割の関係性
地域における在郷軍人分会
町村の指導層でもあった在郷軍人分会役員
1910年11月3日、帝国在郷軍人会設立
1915年、天皇が在郷軍人へ勅語を下し、内帑金(ないどきん)10万円を下賜し、市町村からも分会に補助がでるようになる。
埼玉県南部の木崎村分会のケース
分会長の家は江戸後期に名主役をつとめ、明治以降は村会議員を勤めた村落指導者。分会の役員も多くは青年団や消防組の幹部を兼任している村落指導層。
活動は帝国在郷軍人会が定める軍事に関する事業だけでなく、青年層の教育や村の公益事業や産業発展に関わる事業も分会規約の中に位置づけられている。
また、1915年の内務省・文部省訓令により、青年団は在郷軍人にに直結する団体と位置づけられる。
片柳村の自警団は総勢約500人で、消防組員3,在郷軍人分会員1,青年団1の構成比となっていた。しかし、県の「移牒」は「在郷軍人分会消防隊青年団と一致協力して」自警団を組織して対処せよ、と在郷軍人を先頭に記して指示していた。
地域における在郷軍人の存在状況
大里郡八基(やつもと)村の場合、全614戸、人口4,000人で、現役軍人20人、在郷軍人205人、日露戦争従軍者97人(うち、戦死4、病死6)。1915年段階で在郷軍人会分会の正会員は66人。
帝国日本の模範的な臣民としての在郷軍人
1918年の米騒動以降、労働運動・農民運動の高まりの中で、1919年3月1日「戦後民力涵養に関する件」を発出し、民力涵養運動を始める。
埼玉県は戦後民力涵養委員会を設置し、1919年6月27日、「戦後民力涵養実行要目」を各郡、町村に示達した。県下の町村は自治会、戸主会を設置、県が示す「実行要目」を基に「実行細目」を作成し実践していった。
秩父郡原谷(はらや)村では、1921年、村長の諮問を受ける形で「戦後民力涵養実行細目」決定されている。この中の在郷軍人・青年団に関しては「三大節等ニハ補習学校生徒在郷軍人会役員青年団役員等ハ小学校ノ祝賀会ニ参列スルコト」など村民への教化主義的項目が列記されている。
また「立憲自治ノ観念」の陶冶に関する細目に「青年団員在郷軍人会員ハ公民的修養ニ務ムルコト」があり様々な活動項目が列挙されている。
様々な行事等に取り組むことを通して、村民たちに天皇制国家主義を浸透させ、その中で在郷軍人・青年団は国家の最も忠実な「公民」として法令を守り、模範的な村民であることが求められた。
関東大震災での軍中央と在郷軍人分会
9月5日、帝国在郷軍人会本郷支部より片柳村分会へ罹災民救助を依頼する文書が届く(帝国在郷軍人会本部からの最初の連絡。
「不逞鮮人」に関わる項目としては、朝鮮人が徒党をくみ暴行するなどとの流言があるが、軍部が偵察した限りではそのような状況はなかったので、みだりに暴行迫害してはならぬと戒めているが、「真ノ不呈鮮人」に対しては在郷軍人が「断乎タル処置ヲ取ルコトハ勿論」だと指示している。しかし、この5日付け「情報」は時系列で見て、4日午前3時頃に発生した染谷の朝鮮人虐殺に影響を与えたとは言い難い。
しかし、在郷軍人は「不逞鮮人」と確認できた場合は「断乎タル処置」をとることが求められていた。
つづく
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